湛玄老師の言葉八

私どもご縁をいただいて、仏祖の血肉を拝読しております。拝読する仏祖の言葉の一言一句。ただこのことを明らかにする一句一句。生きて今あるはこのことに会わんがためなり。このことは覚悟一つであります。誰が生きておられるのですか。よそ見をしている暇はありません。
 
いつまでも赤ちゃんのままでは申し訳ない。赤ちゃんの時があっても許されるでしょうが、いつまでも赤ちゃんのわがまま一杯では申し訳ない。我見我情の日暮らしをして、いい気になって一人前でございますと。そういうわがままは決して許してはならない。
 
本当のことを聞くことができる。これは一生のうちに、そう多くは許されておりません。
 
時は今、すでに身も心も放ち忘れて、仏さまの家にしっかりとおさまっている。限りなく、限りなく、守られきって、与えられきって、全部満点にいただききっているのはどなたですか。何が足りないのですか。
 
今日ただ今、仏法を受持せん。わがまま根性を捨て果てて、本来心に復活していただかなければ。もうぐつぐつどきに火を引いて、赤子泣いてもふたとるな、という時節。熟して熟してただ捨て身の単提。
 
千仏万祖、私たちに付きっきりで、さあ時は今なり、今だよと。
 
けち根性ぜんぶ手放してよろしい。何にも持っていないのが諸仏諸菩薩だ。空っぽの空っぽ、いよいよ空っぽの空っぽ。さあ一切の方々のために、ご自身を捧げつくして下さい。はいっ、と。(2001・4・6)

 
今日は終わりの日となりました。初めあれば終わりあり。無常迅速。
 
今から五十五年も前、参禅を許された昭和二十一年十月の接心。一生懸命の世界を疑うことなく、お師匠さまの教えの通りやり抜いた。声を出して本当になり切っていった。とにかく、ただ、ムー。その数十分のなり切り、なり切りで、全部がその世界になってしまった。
 
事実その世界になってしまったので、ぶち壊そうとしても、どうにもならない。すべてがみなムーとなって下さっておる。不思議なことだ。あるのはその事実のみでしたね。ただこの一事、乾坤大地、一個の自己、其中衆生、悉是吾子と。
 
五十五年の歳月が、ピューと過ぎ去るも、過ぎ去らないも、どこにも行かん、ここにある。
 
親しい親しいわが命。我のほかに衆生なく、衆生のほかに我なし。
 
いよいよ真実のご主人公、お一人、お一人、本来の天地一枚のご主人公でない方は半人もおられない。
 
大慈悲とは、わが命なり。わが命なり。へだてなし。
 
ここにおいて、自我のけち根性はあらわれる余地はありません、と脱落してしまうはずですが、しがみついて放さない人がある。自我の迷執を我なりとつかまえて、どこまでもどこまでもしがみついて、それで済むはずはありません。ありもしないものをありとしても空しいだけ。頼りになるものではありません。
 
よそ見するくせをいさぎよく捨てて、今ここ、今ここ。しっかり徹底なされて、にっこり微笑まれても、決して不思議ではありません。
 
命のどん底から願ってやまなかったことが、本来のご自身のすべてでした。大地の有情とともに成道することを得ん。
 
おひとり残らず本来心を体得なされて。一切を礼拝し、一切を礼拝し抜き、一切を包みきって。一生参学の大事ここに終わりぬと、千仏万祖がみな決定なされた向上門の一歩一歩、即向下門の一歩一歩。千仏万祖が血の涙を流して下されたその一滴一滴を、本当にいただいて下されんことを。
 
しかし、ちっちゃな自分を宝ものと思いこんで、抱きしめて泣いておられる方がたくさんあるのだから、ご自身が安心したからといって、いい気になっていい訳がありません。
 
いつでも満点のおん命。誰ひとりとして、このお方ならざるはなし。すなおに、すなおに、この一真実に徹底していただく。
 
ただこの本来心の、ひと息、ひと息、一歩、一歩、実行していただく。ご自身が本来のご自身にすなおに準ずるのみ。(2001・4・7)

 
この発願文の一語一語、一句一句、全部いただききって、丹田に収めていただきたい。
 
願わくは。この願わくは、は命のどん底からの一語だ。
 
一切の衆生は如来心であられた。小さな我見我情ではない。一切衆生は如来の知恵徳相を具有す。ところが付録が付きましたね。衆生は顛倒妄想のゆえに知ること能わず、と。どうしても一切とへだてを作ってしまい、ちっちゃな固まりをもってご自身と思いこんでいるから、その程度にしかひびいてこない。
 
底抜けに徹底しました、といってもまだまだ。そのまだまだのお陰で、いよいよ徹底した上にも徹底していける。
 
成仏の過程と、大円満覚の仏祖のおん歩みを、相続してゆかれる方はどなたですか。
 
いよいよ、どうぞ。この一大事において遠慮することはない。本具の仏性、満点の自己。いよいよ磨いて磨いて。
 
諸仏万祖、本来心に徹底大悟された方々でも、まったく同じ本来心に徹底されておられても、それぞれのくせがちゃんと現れている。
 
一人の仏さまの誕生は、一切の仏さまの誕生だ。奇なるかな、奇なるかな、一切衆生は如来の知恵徳相を具有す。将来具有するなどとは言っていない。そうです。一切本具の真実において、はずれる何ものもありませんでした。
 
勇気りんりんと、全部いただき切っていく。全部つくし抜いていく。全部つくし抜いてしまったら、私の本来心はどこへ行くのでしょうか。どこにも行かぬ、ここにおる。
 
我れの三昧、我れまた知らず。てってい無字。無字の万里一条の鉄。磨いて、磨いて、磨き抜いていく。尽未来際をつくして、磨き抜いていく。
 
原子爆弾で粉砕されてしまうようなものなら、本来心とはいわない。(2001・5・1)

 
同じ一単提のように思えたりするでしょうが、同じ一単提はない。まっさらな一単提。一単提。ご自身の命の事実として、その通りでございましたというところまで、よそ見はいたしませんと覚悟して、ただ実行、ただ実行。実行できないことはございません。正身端坐、丹田の中心が自ずから充実してまいります。
 
只管打坐は何かがくっつきやすい。弱虫になりやすい。大根機の大道人むきの只管打坐。油断はできませんよ。すぐにくしゃくしゃになりやすい。
 
欲しいものは何にもありません。そりゃそうだ。みんな自分のものなのだ。
 
いよいよ燃え上がっていただく時節です。すでに接心三日目。今となってはまごつく何ものもありません。ただ一単提。実行が実行を進めてくれる。よそ見をしているひまはどこにもありません。本来心が丸出しになって下さっているのだから。(2001・3)

 
接心第五日。倒れても立ち上がり、倒れても立ち上がり、ここまで練り上げてこられた。天地同根、万物一体なり。ただこの一真実をいただき切って、一真実のみに決定しております。
 
初めはなかなか心決定とはいきませんが、ありがたいことに、天地同根、万物一体。離れようもない。なくなることもない。この本来心を全部いただき切っておられる。この一真実のみ。毛すじも離れられない。根源に決定しておられる。万徳円満。
 
自分がなかったら生きがいもないのでは、と。本来の自己からいったら、生きがいなどというのもおこがましい。現れても一つっきり。本来の自己一つっきり。本来心の露堂々でした。
 
仏祖の往昔は我らなり。我らが往昔は仏祖ならん。そうです。一切衆生は如来の知恵徳相を具有す。根源の根源。根源全体。全体即いまここ。さあ遠慮なさることはありません。
 
全体即一の自己。一切をいただき切り、一切につくし抜かなくては。さあ逃げ場などはありませんよ。全一の自己。本具の自己。ただひたすらに実行。
 
未だ了ぜずんば、今すべからく了ずべし。この生、累生の身を度取せよ。ものがばらばらに見えたことも昔ばなしとなりました。本来心、どのくらい輝きを増して下さることか。まっ正直の因果必然の大道。
 
どこにも行かぬ、ここにおる。なくなるようなものは、何にもありません。一真実の相続。生命の持続。万物不滅。滅せずどこへも行かぬ。これ生命の承当なり。
 
つかまえたり、持ったり、得意になったり、はできません。つかまえられるような、粗末なものではありません。天地同根、万物一体。
 
願わくは、決定の正信心、本具の仏性、正身のところ、行じぬいていくのみです。(2001・5・5)

接心第六日。常接心ということがある。接心ならざる時なし。接心ならざるところなし。幸いに本具仏性のご主人公。ご自身の真実、一切の真実、一切衆生は如来の知恵徳相を具有す。満点のお方はどなたですか。どこにも中途半端な方はおられない。
 
乾坤大地、一個の真実。きょろついている人は半人もおられない。それなら、勝負がついているなら、遊び暮らしていればいいのではないですか。それで後悔するのは誰だ。まだごちそうを食べていない。
 
自らのわがまま三昧に気がつくと手放すのですが、気がつきませんね。ご自身の顛倒妄想の事実を認めることをしない。本当の命を知らず、頭で描いたものをくせにして、それでよしとしている。
 
よそ見しているあいだはよそ見ですよ。なかなかそれを捨てられない。時いたれば身も心もはなち忘れて。仏祖の天上天下唯我独尊は本物にお目にかかっての話。
 
乾坤大地一個の自己なり。どこにも桶の底はありませんね。みんな底抜けだ。底の抜けた人はやって来て、底抜けを丸出しにしていただく。
 
それにはどうすればよいのか。お教え下された通り実行すればよいのです。仏の家に投げ入れて、仏さまの家以外、何にもありませんでした。
 
我見我執、いさぎよく手放した。ここが満点の、欠けることなく余ることなし。しかも固まりも何にもない。つかまえるものも持つものもない。つかまえたら重たいですよ。
 
さあ、すでに六日目。今ここ。今ここ。いさぎよくけなげに踏みしめ、まことの命がまことの命あるままに行じぬいていく。
 
足元を見よ。瞬時に世界は移りかわっていく。つかまえられるものはありません。
 
つかむことはできないけど、実行することはできる。必ずできます。実行すべきことを実行していく。全部本来心の実行。もったいない大切なお方ばかり。ただ実行。やりぬいて下さるように。(2001・5・6)

 
一週間の接心もいよいよ七日目。ただ今、拝読いたしました発願文。参禅の方々、ご自分の発願文としていただきたい。
 
正法をきくことあらん。たったひとつの真実をうけたまわり、ご自身の本来心に復活する。乾坤大地、一個の自己。この真実をさらにさらに徹底する。
 
ちょっとでも、私、を持っているうちは、遠くして遠しであります。ご自分が作り上げている世界です。私が。どこにそんなものがありますか。目を覚まして見ると、諸仏の言われた通りでした。どこにもそんなものありませんでした。私が、が一切とへだたりを作り、へだてを作り、対立を作り、あくせくしてきました。大掃除をしなくてはいけません。
 
発心を観想するにも一発心なるべし。衆生無辺誓願度。同じ一発心であります。(2001・5・7)

 
この発願文がこの世でたったおひとりの、ご自身の発願文でありますように願ってやまないのです。願わくは我と一切衆生と。本物のご自分とすべてのすべての方々と。すべてのすべては即ご自身の正体。
 
一切を救ってあげたい、苦しみをなくしてあげたい、私がかわって苦しみを引き受けてあげたい。シッダールタ太子の発願文だ。
 
眠りから覚めるときが必ずあります。世法の夢、対立の夢、あったりなかったり、良かったり悪かったりの夢。
 
にせものをつかまえている自己は、必ずえこひいきする。にせものの自分を大切にしているのだから。ご自身を守って下さる一切を、憎んだり、さげすんだり、無関心になったりする。
 
接心に参じて、本来心のご自身が本来心に参じる。一単提、一単提、ひと息、ひと息、すべてのすべてをいただき切っていく。無理なことを言っているのではございません。
 
ご自分だけが暖かい夢を見ているような、そんなことではありません。もれるものはアリ一匹おられません。ついに大地の有情とともに成道することを得ん。真実のご自身にもれるものはありません。お釈迦さまも驚かれた。尽未来、不滅の真実。それは一切が救われ切っているという事実。
 
限りない大恩にご恩がえしできる訳ではありませんが、できないと分かるところがありがたい。
 
一単提の秘中の秘、まだ授かっておられないという人は昼からの独参においで下さい。(2001・6・1)


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