湛玄老師の言葉六
修行をこころざす皆さま方の本心本性はいかがですか。何を望んでおられますか。修行のどこに目標を置いておられますか。
本当に生きる人になりたいのなら、本心に復活し、一切になりきる。一切の命をいただききっての一単提のひと呼吸。勇猛の衆生は成仏一念頭にあり。
本来の命の正体。天地一指。三界はわが有なり。一切は我が子なり。本当のやさしさとは、そのこと、そのもの、その人に、徹底的になりきって実行すること。私、などはどこにも顔を出さない。本当のやさしい命に目覚めることで、はじめて原点の本具仏性、根本の真実の我れ、釈尊が大悟徹底してお示しになった、一切衆生は如来の知恵徳相を具有す、が分かる。
そのこと。そのこと。すなおになりきっていく。無理はしない。いくらでもなりきっていける世界。自由自在。大自在。ただこの一単提に誠心誠意、打ちこんで下さるその切実なる願心の実行こそが、この臘八を生きたものにしてくれる。臘八は何度でもある。そんなことを考えていてはいけません。何としてもやり抜いていただかなくては。
油断すれば我見我情となって、対立、へだて、ができる。我見我情はへだてを作りたがる。すると暗い世界に落ちこまなければならない。もったいない。
私などはどうでもいい、などと卑下した心は、それこそ百千万回おわびしても許されない。朝から晩まで、無限の歩みの一歩一歩。限りない命の果ての果てまで、ご恩に報いていく。一歩一歩踏みしめていく。このご恩を知らないことを無間地獄という。
わがまま根性がひょこひょこと顔を出してきたら、一単提、一単提。ただ死にきっていただきたいだけです。わがまま根性、分別根性、相手にせず、邪魔にせずで、手放してしまう。何にも手をつけない。ただ一単提。まっ正直な只管打坐をやり抜いていただく。さあ実行。(2000・12・3)
接心第四日。これまで実行してきた一生懸命の一単提。一生懸命に実行してきたのに、なぜ気がつかんのか。すべての根源。一切の真実。それらがバラバラのものではないということを。
手の指五本、両方にある。足にもある。長いの、短いの、姿かたちは異なっているみたいだけど、全体はたった一つ。これはたとえだから、本当のことには届かないけど。
本来の事実に頭を下げたくないという、ごう慢な迷いを長い間つづけてきた。しかし真実は一つ。たった一つ。真ん中も端の端もすべて一つ。
一つがなんで宝なんですか。どんな難問題をもってきても真実は一つっきり。これで全部結ぼれはほどけてしまう。
生を明らめる。人生のすべてだ。ああでもない、こうでもない。千変万化。分別は人をうろたえさせる。つかまえていると、大安心を決定する一歩手前まで来ていても、まだ何かあるような納得させないものが残る。
しかし幸いなるかな。釈尊は迷いの人としても手本を示して下さっている。二千六百年前、釈尊はあらわれて下された。赤ちゃんから一日一日と成長する。すると文句が出てくる。虫が遊んでいると、カエルがそれを食べてしまう。にくいカエルめと思っていると、鳥がカエルをつかんで食べてしまう。その鳥をまた別の大きな鳥がつかまえて食べてしまう。
釈尊の目に涙が浮かんだことでしょう。何を見ても不安と心配で一杯になる。世はみな苦なりと。本気であればあるほど、この世のありさまが納得できない。そして、この衆生の一切の苦しみ、この苦悩を解決しないではおかぬ。生を明らめずにはおかぬ。そう決心したことでしょう。
接心も中日。燃えて燃えて本来心の真実に徹しぬかんと志した。なぜそんなことを願うのか。納得のいかないものが顔を出して苦しめるからです。育って知恵が付いてくると分別が生まれ、いろんなくせが付いてくる。人のことなどどうでもよい、我が身だけがかわいい、というようなことにもなる。そしてこの世は苦なりとなる。そうではございませんでした。
二十六年前、子供を亡くした人に、あなたはいつまで生きているつもりですかと、私がきいたらしい。するとその人は、私はいま七十七歳、あとはおまけ、と答えたそうです。いま私が七十七歳、あとはおまけの人生。
すべてのすべて、草一本まで我が子でした。つごうのいいものだけ我が子、というけちなことではだめです。
不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減。どこにも行きませんでした。行かれませんでした。
苦しむ人のために、まずご自身が大安心の人になって大恩に報いる。何が大恩か。全部ただもらいしている。
徹底しないとけち根性が顔を出す。よそ見根性がなくなると、何を見ても、何を聞いても、どんなときでも、本来心のままに生き抜いていける。いただき切っていることに気がつかなくてはご恩がえしはできない。(2000・12・4)
よく忍をなすを有力(うりき)の大人(だいにん)となす。忍ぶ。ただ一単提になりきる。ただ。ただ。一大事になり切り、なり切りしていくのみ。
なりきり方が足りないと、わがまま根性が顔を出す。決心が足りないのです。どんなことがあっても一単提になりきる。全身全霊をつくします。
ごちそうはいっぱい並んでいる。与えられたものなら遠慮せずにいただくでしょう。どうぞと差しだされたものを、はいっ、といただく。ただすなおに、いただききっていく。本来のご自身がいただききっている。
一切からもれる何ものもありません。たったひとつのおん命。すべてがどうぞと捧げつくしている。一切が一切に捧げつくす今ここ。今ここのご主人公はどなたですか。はい。すなおにいただききっているお方がいらっしゃる。どなたかな。
体験しないとその方が笑って下さらない。いただいても消化できない。ところが赤ちゃんでもいただくことができる。体験の事実は誰も奪うことはできない。苦しくとも辛抱。足も痛いでしょう。しかしどんなときでも、そこから飛び出してくるのはこの一単提。
賢い分別が、根からぶち切れてしまう。廓然無聖。からりと晴れ渡っている。この晴れ渡った世界は、どこに届いているのかな。一歩一歩、歩いたきわみは出発点に到着いたしました。ここから一番遠いところはここでした、というたとえ話がある。
存在する根源の根源、今ここ。それを見届けるには長い間の私がのくせ、分別のくせをぶち切ってしまわないと。それでないと今ここの本来心を拝むことはできませんね。
ここはちょっと感じがいいな。そんな所に腰かけてはいけない。捨てきって。捨てきって。なりきって。なりきって。
死にきる一歩手前まで来ている人が何人かあります。いよいよ命のどん底から、本来心に全部お任せして、なりきっていくのみ。(2000・12・5)
ただなりきり、なりきり。よそ見していると雀さんに笑われてしまう。雀さんも、なりきり、なりきり。長いあいだのよそ見のくせ。よそ見したいと思わなくてもよそ見ばかり。いつまでもちっちゃい根性、振りまわしてはおられません。
どこへも行くところはありません。どこへも行かず、ここにおる。みんな今ここにいらっしゃる。いやです、といっても逃げ出す所はない。
娑婆往来八千返。釈尊はすべてを投げ出して本物に準じられた。本来の面目、露堂々。ご自身だけ復活したのではない。一切の衆生はことごとく如来の知恵徳相を具有す。みんな満点の方ばかり。
ガタピシ根性は余計なもの。分別妄想させてくれるけど、目が覚めてみれば何の跡形もありませんでした。分別妄想のゆえに衆生はこのことを知ること能わず。小さな小さな人になってしまう。無限の大虚空を命としながら、私が、私が、と不平不満でもの足りない。よそ見です。
一単提でぶっ飛ばす。単提するご自身も顔を出さない。ただ単提。天地一杯のただ。時は今。所このまま。ただ実行あるのみ。(2000・12・6)
臘八をはじめます、と言ったのは、ついひと息前のことであった。瞬時もとどまらず、ありありと思いしものは無かりけり。後になって無かりけりで涙を流すのは申し訳ない。
無かりしものにお会いして、一切ことごとくどこにも行かずここにおる、と。何がですか。すべてのすべて。一即一切。
どこへも行かず、今ここ。ここでお目にかからなければ、心配いりませんよ、と本当に言ってあげることは許されない。なぜ心配はいらないのか。つねに一切と離れることなどできない本来心でありました。大丈夫、大丈夫、壊れる何ものもありません。
ありありとつかまえている世界は常に新しく、一瞬も同じではない。ありありと思いしものは無かりけり。本来無一物。分かりやすいたとえでいえば、大海。宇宙一杯の大海。千波万波、それぞれのご縁をいただいて現れる。それをありありとしがみついている私ども。つかまえられますか。たちまち跡形もなくなり、波にとらわれている限りはあっぷあっぷ。七転八倒。
波を見とどけたとき、波のどこにも固まりはありませんでした。本来心は天地同根。万物ただこれ。これというものすらつかまえられませんぞ。つかまえられる世界ではございませんでした。つかまえるもの、つかまえられるもの、そんな世界ではありませんでした。
なりきり。なりきり。示された世界は常に満点。欠けたる何ものもない本来心のあらわれ。まっ正直に、数息、随息、只管打坐。私が、がどこかへ行ってしまい、本物がにっこりとどこへも行かずここにおる。長いあいだのくせで、ああかな、こうかな、の分別を使いたがる。ついには用いる何ものもありませんでした。
我いま見聞受持することを得たり。しっかりと決定したら、遠慮なく見せていただく。本物にお目にかかったか、見とどけてあげる。
さあ親切に。親切に。全身全霊、身も心も捧げつくして、つくし抜いて、つくし抜いて、何にもありません。それもつくし抜いて。大活現成。三界はみな我が有なり、とごほうびを頂戴しますか。
捧げつくし、捧げつくし、しかも何もあてにしたりしない。すべてのすべてが一心の露堂々。すべてのすべて。雨ひとつぶ。落ち葉一枚。枝に揺れる木の葉のひとゆれ。如来の知恵徳相を具有す。
求心(ぐしん)やむところ全体現ず。遠慮することはない。与えられきっているのだから。欠けたものは何もないという真実。どうするのですか。全部いただききっているご主人公。一切を礼拝していかねば申し訳ない。
いよいよ磨いて、磨きあげていく。成仏の一筋道を行くのみ。どこにも腰かけないから、八万四千の法門はこんこんと。本当に実行した人は決して裏切られない。自己流に何かを作ろうとする人は、百千万生、恩知らずの道だ。(2000・12・7)
油断なく実行しているつもりでも、ふだんは油断が多い。一週間わき目も振らず実行していただくのが接心。その実行の覚悟が発願。発願文の第一句から最後の最後まで、正しい覚悟をさし示して下さっている。
願わくは我と一切衆生と。ご自身の決定(けつじょう)は、そのまま一切の決定になっている。はなれたものなどありはせん。生々世々の思い違い。自我の迷執。
眼目は一切衆生の苦悩からの解脱。奇なるかな、奇なるかな、一切衆生はことごとく如来の知恵徳相を具有す。ついに大地の有情とともに成道することを得ん。
本具仏性に分別のつく余地はない。宝の中の宝ものはご自分であられた。決して作りごとではありません。自我の迷執の虜にはなりません。ただこの一大事に命をつくすのみ。(2001・2・1)
この日は沈黙の提唱。(2001・2・2)
初めチョロチョロ、中パッパ、グツグツどきに火を引いて、赤子泣くともふたとるな。仕上げが大切。あわてるなよ。初めチョロチョロの教えでも、本当にいただききることは難しい。自分の思いのままに自分に分かった程度にきいている。上の空で聞く人、上すべりで聞く人、参考ていどに聞く人。
人間として、当たり前のことを当たり前に生きてきて、これでいいと。これ以上は仕方ないと。泣いたり笑ったり。人の一生こんなもんだと。それではすまされませんね。大安心をいただいておられますか。
せっかく宝ものを授かっていながら、授かっていない状態を事実としておられる。一切衆生は如来の知恵徳相を具有す。欠けたる何ものもなく、余分な何ものもありません。円かなること太虚に同じ、欠けることなく余ることなし。この大事実が、一切の条件をつけずに、ご自身の真実であります。
人なんかどうでもいい。自分だけ満足すればいいんだ。そんなことでは苦しみを逃れんとして、かえって苦しむことになる。なぜか。私があるとつかまえているからです。
釈尊と変わらない命。それをそのまま全部いただいておる。ご自身が本来心に大復活する道を授かっておる。それだけなんです。すべては成仏の過程の一歩一歩でした。
仏法には、私が、とつかまえるちっちゃいものはありません。本気の上にも本気になって、ただ実行。(2001・2・3)
接心も中日。いわゆる死日。死は縁起が悪いといわれるが、仏道に悪いことは何もない。すべてよし。
しがみついていると、文句がついて回る。心配がついて回る。本当のことを見逃してしまう。本当のことをいただき切りながら、まだ足らん、まだ足らんと。無上甚深微妙の法。すべては救われきっているという事実。
ひと呼吸。ひと呼吸。生まれ変わっておる。手放さなければ、生まれ変われない。つかまえる何ものもありません。右手で右手をつかまえられないでしょう。つかまえられるような、けちな世界ではありません。
捨てはて、捨てはて、捨てはてて、ついに徹底。つかまえるものもなければ、つかまえられるものもない。円かなること太虚に同じ。欠けることなく余ることなし。そこを信じきっての決定。(2001・2・4)
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