湛玄老師の言葉四
発願文は発心の的的。生々を尽くして、生々を尽くして、必ずこの教えに決定する。今生でだめでも決してあきらめたりすることはない。
我がまま三昧、みんな得意中の得意ですからね。自我の迷執。よそ見三昧。俺が俺がとしぶといですからね。バラバラで対立ばかりのこの世の中。みんなそういうくせがついている。
無常迅速、一切は一瞬も固まってはいない。
戦争がもう一日、二日、長引けば、皆様とこうして親しくお会いすることはなかったでしょう。そのときは日本の国のことしか考えていなかった。飛行機の乗り方を教わって、行くだけで帰ってこなくていいと言われ、そして満州で捕虜になった。そのときシベリアへ連れて行かれていたら、おそらく帰ってこられなかったでしょう。
日本に帰ってきて、自分が生きていることが自分に許せない。本当の生き方を求めていた。そのとき大雲老師にお目にかかり、いいことがあります、命がけでやるなら置いてあげます、と言われた。我が身ありとは思わざりけりの覚悟は、飛行機に乗るときできていましたね。万恩に報いる一筋道。
ただよく相続するを主中の主と名づく。相続や大難。ただ坐り。ただ坐り。一番の宝ものは皆さんご自身ですよ。大宇宙の真理を自覚す。諸仏実在、つねに共に。見放したりはしない。接心第一日、さあやり抜いていただく。(2000・10・1)
初めチョロチョロ、中パッパ、ぐつぐつ時に火を引いて、赤子泣いてもふたとるな。私の子供時分、ボーイスカウトに行って飯ごうで飯を炊く。そのときの要領だ。
あごが出ると腰が引ける。腰抜けは坐禅にあらず。妄想の原点だ。腹の底に心をすえる。それができたら、そうとう腹が練れてきましたね、と言ってあげられる。
心決定して実行。あせったりあわてたりすることはいりません。
いただいて、いただいて、いただき切っておりながら、指一本もらったと思っていない。一切の、一切の、一切に、一単提のご恩がえし。身も心も放ち忘れて、覚悟一つ。(2000・10・3)
無常迅速、時人を待たず。常なし。しかも迅速。何ものよりも速やかであります。
いよいよ接心も、練って、練って、練り上げて、今日は中日。燃え上がっております。ただ教えていただいた通りの実行。じゅんじゅんと行じぬいていくところに親しく育ってくる。
人のことではございません。すべてのすべてのすべて。本来のご自身の実行。なり切り、なり切り、なり切り。本来の自己の三昧だ。よそ見をしているひまはございません。
くせが付いているから、生まれても、生まれても、私が、私が、のくせが、ひょいひょいと本物のような顔をしてついて回る。放っておくと、私が、が主人公顔してついて回る。それではいやなこと、困ったこと、心配なこともついて回る。私がこわれたらどうしよう、と真の安らぎがない。
私だけ安らげばよい、人の苦しみなど考えてあげる必要はない、というくせもありますね。何としてもこの苦しみの根源の根っこから、全部生まれ変わって下さらなければ。
釈尊の歩みの総決算。それが衆生本来仏なり。天地同根、万物一体なり。欠けたる何ものもなく、余る何ものもありませんでした。
ありありと思いしものはなかりけり。一切の騒ぎを起こす大もと、私が。釈迦牟尼世尊はその事実を見届けて下された。一切衆生は如来の智慧特相を具有すと見届けて下された。あなたも釈尊と同じですよ。
ぐずぐずとよそ見をしていては、百千万劫にも遭い遇うこと難し。ご自身がしっかりとご自身に決定するのでなければ、ご自身に対して恩知らずで生きていかなければならない。
接心の山登りは容易ではありませんが、下りになると早い。あっという間に円成してしまいますから、あとでもう少し元気よく忠実に辛抱の一単提をすればよかったといっても遅いですから。
ぐずぐず言って単提の邪魔をしていてはあいすまぬ。(2000・10・4)
ただひたすらに。ひたすらに。なり切り。なり切り。放身捨命。一単提の実行だ。身を捨てて、心も捨てて。
本来の自己。本来その方のみ。それならどうして安心決定できないのでしょうか。よそ見をされているからです。何かある、何かある、私が、私が、と私を出発点にして、私を手放さないからです。
どこにあるのですか。あるあると思いこんだくせがそうさせている。私がという小さい固まりをつかまえて、私があるというくせを手放せない。
つかまえているあいだは、つかまえているものに縛られている。つかまえているものに、つかまえられている。ご自身のくせであります。よそ見のくせは真実にあらざるもの。
万徳円満の本来心。大先輩の方々が、悪戦苦闘された方々が、ただそのことのみを教えて下さっている。
仏の家に投げ入れて。仏さまの家でないところはない。何ものも奪われない。毛すじも傷つかない。いつも満点。くよくよも何もくっついていない。
不生不滅。固まりがひょっこり生まれたと思っているが、生まれたのではない。もう土になってしまった、お会いしたくてもお会いできない、と涙をこぼして別れを悲しまれるが、どこにも行かぬ、ここにおる、呼んでくれるな、返事はせぬぞ。よそ見の好きな人に一休さんがそう言っておる。
私、がなかったら何の生きがいがあるのですか、と。その私は本当に頼りになる私ですか。しっかりと握りしめて放さないその私が、いざというとき守ってくれますか。
ふらふらと迷う心が起きたら、天地同根、万物一体。ついに大地の有情とともに成仏することを得ん。人を当てにしていてはもったいない。ただ実行。策励もいたしませんが。(2000・10・5)
かくの如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助(みょうじょ)あるなり。一切我今皆懺悔。
接心もいよいよ煮詰まってきました。ぐつぐつ時に火を引いて、という段階になっとります。
荷物をかついで歩き回って、かついでおることも他人のせいにして、自分で自分を苦しめておる。
正法に遇うことを許されて、求むべくは本来の自己と教えていただいた。命をかけないではおられません。全部お教えの通りやり抜くのみ。必ず仏祖の冥助あるなり。
捧げ、捧げ、捧げつくしていきなさい。捧げるものは何もありません。それも捧げつくしていきなさい。一切のために泣いてあげられる人になりなさい。道は一筋道。自然に無理なく、しかも一生懸命。千仏万祖ともにあり。(2000・10・6)
ついに締めくくりの日となりました。天地同根、万物一体なり。徹底なさいましたか。万物一体の真実のほかには何にもありませんでした。本来の自己。満点の自己。一切我なり。
つかまえてしまっては、「一切我なり」とは遠い存在になってしまう。つごうが悪ければ憎らしく思わずにはいられない。私が、がついて回るあいだは、本来心に徹底したとは言われませんね。
比べて、比べて、損した得したと苦しむ。人間らしいともいえるかもしれませんが、人情のようですが、人情ではなく我情。私が、に振りまわされている。私が、の世界では本当のものはいただけない。
悟ってもヒョコヒョコと、けち根性がとび出してくる。悟後の修行、百錬千鍛。人、と思いしものは我が心なり。
生死問題。別れの切なさ。別れる何ものもありませんでした。天地同根、万物一体なり。今ここ。今ここ。失う何ものもございませんでした。いつでも、どこでも、どんなことがあっても、大丈夫、大丈夫。
本来心の大自由、大自在にあって、まさに直心是れ道場。いよいよ油断なく。油断なく。いよいよ親切に。親切に。何も持たないのに何を磨くのですか。何も持たないと鼻にかけている様ではまだまだ。いよいよ油断なく。油断なく。
少しばかりご恩返しができるようになりましたか。万徳円満に守られきり、与えられきっておりながら、私が、などと得意になっているようでは、赤ちゃんだねって笑われてしまいますね。赤ちゃんは育っていきます。(2000・10・7)
いよいよ接心の締めくくり。常にこんにちただ今が締めくくり。今ここ。今ここ。限りなき初めより、尽未来際を通じて、つねに初めてであり、つねに締めくくりであります。同じことをくり返すことはありません。一度きり。(2000・10・8)
高祖発願文。拝読するというよりも、自らの発願文としていただき切っておられますか。ご自身の命のどん底から、ぐんぐん、ぐんぐん、とこみ上げてまいりますと、熟してきましたか。
ひとりの人の悩み苦しみさえ取り除いてあげることのできないこの現実において、大丈夫と言ってあげるためには、この真実に目覚めなければならない。一切衆生は如来の智慧特相を具有す。でも目覚めただけでは赤ちゃんだ。赤ちゃんは、ぐんぐん、ぐんぐん、育っていく。
生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の因縁なり。生死とは与えられている全てだ。それを簡潔に生死と。明らめましたか。人生の目的。人の身を授かり、ひと息ひと息が許されていることの目的。
生死を明らめました、もう何の心配もありません、と飛び込んでくる人もありますが、調べてあげると、抜けたはずの底が現れてきて、たちまち境に転ぜられるのですね。
出発に当たっての大信根(だいしんこん)の確立。本具仏性。仏縁の深い方は、何の理屈もなく釈迦牟尼世尊の大悟徹底の教えをいただき切ります。ご自身の考えを先にしていては、百千万劫迷わなければならない。
大疑団(だいぎだん)。大信根よりの第一歩。真っすぐの一筋道。自らを叱咤激励していく。自らを甘やかさない。いつまでも赤ちゃんであってはならない。
大憤志(だいふんし)。いさぎよく実行あるのみ。なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも、なせぬは人のなさぬなりけり。実行した人のお言葉だ。本具仏性。よそ見をするために遠いものになってしまう。打たれてもひびかない。
釈迦牟尼世尊、娑婆往来八千辺、という言葉もある。
接心第一日、決定した上にも決定していただく。仏の家に投げ入れて、というときが必ず来る。(2000・11・1)
自らが自らの大策励人となって打ち込んでいく。私が修行していたときは、止静に入るとばんばん叩いてまわった。暇もないほど叩いてくださる。それに合わせて単提。単提。
静かに一しゅ(いっしゅ。しゅ、は火偏に主。線香一本の時間)。また一しゅ。こんなことでは修行にならないんではありませんか。そんなことはありません。釈迦牟尼世尊、前正覚山のほら穴で、ただひとりでぶち抜かれた。皆さんには大衆の威神力もある。雨滴声(うてきせい)も励まして下さる。徹底していないと本物を聴くことはできない。
山盛りのご馳走を目の前にさし出されて。さあどうぞと。ごちそうを食べましたか。ごちそうを調べまくっても、食べなきゃだめですよ。だから最初の一決を通るまでは、本など読むなよ。一単提、一単提、と実行あるのみ。何にもほかにあてにするものはありません。ただ一単提。
丹田のどん底から湧き上がってくるままに、やり切り、やり切り。お師匠さまのおっしゃるとおりの世界がありました。五十六年も前のことでしたか。時の流れはまっ正直であっという間だ。しかしこの一真実は微動だにしない。
仏さまに作りごとは針の先ほどもない。仏祖のお示しを信じきる。理屈のつく余地は一切ありません。仏さまはこの一真実をまるごと教えて下されただけだ。山になったり海になったり。満足の只管打坐。欠けたる何ものもなく、余りたる何ものもなし。どんなことがあっても、この一真実は毛すじも傷つかない。一即一切、一切即一。(2000・11・2)
幽霊がいるかどうかは別として、それに対する恐怖心は骨の髄までしみ込んでいると思います。闇を恐れる心を無くすことはできますか、と。
できます。しかし長い間に植えつけられた暗闇に対する恐怖ですから、出てくるかもしれませんね。幽霊と仲よくできれば、他の一切と仲よくできますよ。幽霊はいるかもしれませんよ。恐怖心を持つのもいいことですよ。それでなければ、人の苦しみが分かりませんから。(2000・11・1)
接心も第三日。ぐんぐんと無常迅速の歩み。中日を過ぎるとぐーんと円成してしまう。接心は円成してもご自身のお心はいかがですか。大きなお荷物をかついだままで、歩みを続けられるのですか。人の苦しみなどはどうでもいい、そんなのは命の真実ではない。本物の我が命、他人などはおられませんでした。
皆さまが心安らかに。今日ただ今を明るく。もの言うひと言、ひと言も、なり切り、なり切り。その言葉も、安らかで深い深い一心同体の一言半句。私がもの言い、私が聞いて、私がいただき切る。一切我なり。他人だなどと見過ごすような、へだてを持つような、そんな世界はどこにもございません。
まだ徹底できないから上すべりしているが、みんな大きな世界のご主人公です。天地同根、万物一体、ただこの一真実のみ。今このすべてのすべては、みな私の命でした。全ての人はみな最愛の我が子でした。だからこそ、おのれいまだ渡らざる先に、一切衆生を渡さんと発願するなり。
どんなことが起こるか分からない人生の一瞬一瞬。そこに生じる不安、心配、不平不満、暗さ、不自由。そうしたすべての苦しみから、一切の人々を助けてあげたいと発願するのです。
人の身を受けて、知恵が働いて、自我を握りしめて苦しんでいる方々、それがいちばん救ってあげなければならない対象でしょう。
こうして接心をもうけて、たった一つのことに全身全霊を打ち込んで下さいとお願いしておる。たった一つのこととは、ご自身の真実。そのことに明らかに目を開いてほしい、ということのみです。本具仏性、天地一杯の私でした。乾坤大地、一個の自己。
たった一つの人体に七十何兆もの細胞が、助け合い、励まし合い、ゆずり合いして、生ききっている。
この命一杯一杯、自他不二と輝いている人はどなたですか。光の中に光となっていく。仲がよいはずです。何の固まりもありませんでした。いまこの正体見たり光かな。どんな光でしたか。
遠くから眺めていてはもったいない。ご自身の命。与えられきっていながら、もの足りない顔しているのは誰だ。奪われない、おびやかされない、大丈夫、のすべてでした。へだてあるものは何もない。
何としても徹底してもらわねばいかん。覚悟しなさいよ。覚悟一つですよ。よそ見根性をすっぱり捨ててしまいなさいよ。仏さまだってよそ見していれば、私たちと同じですよ。覚悟と実行。いよいよ油断なく、油断なく、実行していただく。(2000・11・3)
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