湛玄老師の言葉三

接心も中日。山登りにたえれば山の頂上。捨て身の単提をしておられますか。接心は型どおりに日が過ぎていきますが、ご自身の境涯はいかがですか。
 
一切の衆生は如来の智慧特相を具有す。この大恩をいただいておりながら、背いておりませんか。これから具有するのではありません。初めなきの初めより、終わりなきの終わりまでですよ。
 
みんなこの一真実の人ばかり。命がけでなり切っていく。無字の山。無字の海。無字の空。やればやれる。ただこの一真実あるのみ。全部投げ出してお帰り下さい。みんな置いていって下さい。返して下さいといってもだめですよ。本来ないものなのだから。全部を命としておられる方は誰ですか。ただ実行あるのみ。何も持たない。持てるようなけちなものではありませんでした。(2000・4・4)

 
いちばん頼りにしていたもの、賢い分別が頼りにならなくなるときが来る。
 
ただひと筋に行じぬき決定せんとしておられる。問題が解決せんのは、我見我情の固まりがあるからです。だから問題がほどけない。本来の命はまさに我なしでした。無我でした。本物の自己に決定して我はありませんでした。
 
かならず本来の自己に大復活するときが来る。こればっかりはまったく不変でした。原点は、根本は、変わる何ものもありませんでした。変わる世に変わらぬ本来の自己に決定なされよ。本物が本物の歩みを行じぬいて行く。本物を生き抜いていく。
 
礼拝がまだ本当にできておらんぞ。全部いただき切っている全部満点の命なのに。
 
本来心は一切に尽くし抜いていく。おしまない。けちらない。本来心とは大慈悲心なり。お役に立たずにはおられませんと、どこまでも尽くし抜いていかれるでしょう。打てばひびく。素直な一真実の歩み。本来心が余すことなく守りきっておられます。(2000・4・6)

 
発願文の初めから終わりまで、この一大事ありということ、一切衆生は如来の智慧特相を具有すということのみ。この仏祖の教えがすべての命そのもの。元来ほかのものなどありません。ただ一つっきり。一真実あるのみ。本具仏性。この本具仏性の真実を、ご自身の命としていただき切る。
 
初めなきの初めと、こんにちただ今と、ぴたっと一つ。乾坤大地この一真実。乾坤大地この自己。この本来心に徹底していただきますように。この事実が納得できないのは、ご自分がひっくり返ってものを見ているから。
 
ただ実行、ただ実行。くっつく何ものもありません。いよいよ純一無雑。なり切り、なり切り、なり切りだ。はっきり、はっきり、りょうりょうとしていくのみ。実行できないことをやりなさいと言っているのではない。(2000・5・1)

 
高祖さまの発願文を拝読し、自らの発願文として決定する。これ一色の正修行なり。一単提の実行のことです。
 
幾たびも正法に体当たりしておられるのに、どうしても習慣で、私、という仏祖のお示しでないものをつかまえて、そのくせに引き回されてしまう。
 
本具仏性。仏性を持っておるのではない。仏性以外のものも持っているようにきこえるけど、仏性は持つというようなものではない。仏性のみでございました。
 
常不軽菩薩。常に軽んじない菩薩。すべてのすべてを軽んじなかった。いちばん大切なものを、いちばん大切になされた。一切の衆生は如来の智慧特相を具有す。一切衆生、仏心仏性の丸出しのみ。何か残っているならそれは自我の迷執。
 
幾たびも幾たびも、よそ見を本物と思って珍重している。そうでなければ大復活のご当人になれます。自他不二と。あらゆる対立根性は、我がまま根性の積み重ね。自らを苦しめ、人を苦しめる。正身端坐、ただひたすらにひたすらに行じぬいていくのみ。ただ一単提。
 
ただ実行して下さるお方。本来心のご自身だ。ついに大地の有情とともに成道することを得ん、だ。(2000・5・2)

 
刻苦、光明必ず盛大なり。ふだん坐り慣れている人でも、接心は楽とはいえない。油断していれば少しは楽かもしれないが。ひと息も油断なくやり抜きます、と覚悟してやっている人もいるかもしれない。そこまで熟している人もいるかもしれない。それでもやはり刻苦だ。体を切りきざむほどの覚悟をもってする。その人こそ光明かならず盛大なり。
 
万里一条の鉄。何を見てもありがたや。このみ仏のあらん限りは。必ずそのときが来る。徹底した人が保証して下さっている。この仏さまはどこにも行きません。どこにも行かぬ、ここにおる。何をしておられますか、この仏さま。一切衆生はみな我が子なり。仏さまに目覚めるとみなこうなる。
 
単提、単提、単提、単提、と悪戦苦闘しておられるなら、かならず親しい親しいご自身に目ざめる。ご自身に一番親しいのはご自身でしょう。乾坤大地みな私でした。その中のすべてはみな我が子でした。つくし抜いて惜しむ何ものもなし。
 
ご自身に復活なさるのはご自身だ。命のどん底から悠々と行きなさい。宇宙の主人公。たったお一人きりの主人公。きょろつくことも、びくつくこともない。ちっぽけなけちな根性、用いようもありません。すべてが皆様ひとりのために策励してくれている。命がけの策励を。ひと筋に実行していくのみ。(2000・5・3)

 
一切衆生は如来の智慧特相を具有す。持っているのではなく、そのものです。持てるようなちっぽけなものではございません。宇宙一品の宝もの。足りないものなど毛一本もない。余計なものもない。天地一指のひとり芝居でございました。取りこぼしは何もございません。
 
どうして納得できないのでしょうか。満足できないのでしょうか。つかまえておるから。
 
さあ、ぐんぐんぐんぐんと、ただこの一単提。なり切り、なり切り、なり切り、なり切り。あのときもう少し本気になれば良かったなどと後悔しないように、真に捨て身の一単提。乾坤大地、一個の無字でした。ただこの一真実、全部丸出しで実行あるのみ。いつでも、どこでも、まっ正直のひと息、ひと息。(2000・5・6)

 
ひと息も気をぬかず、油断なく、教えていただいた通りにただ実行。実行の火の玉となっても不思議ではない。一週間そのように調えてきたのだから。本物になる人は、本物の教えに従わざるを得ない。
 
石ころといえども如来の智慧特相を具有す。満点に具有しているから、池に落ちるとポチャン。みな本来の、たったひとつの一真実を、平等にいただき切っておる。その根源においてはまったく平等。あらわれては天下一品。同じものはひとつもない。
 
我がままを用いただけ本人が納得できない。だからまだ足らん、まだ足らんと苦しむ。四十五年も前に、我がまま根性で苦しんでいる女性が来た。十八だったかな。そこで、
 
ひとつ、父母の恩を忘れないこと。
 
ふたつ、天地の恩を忘れないこと。
 
みっつ、謙遜の心を養うこと。はい、という世界。
 
よっつ、食事をむさぼり食わぬこと。
 
いつつ、怒りを覚えないようにすること。
 
むっつ、何も当てにせず、ただ真心をつくして働くこと。
 
ななつ、常に温かい心で接すること。
 
やっつ、ぷんぷんせず、何ごとにもおのれの足らざるをかえりみること。
 
四十五年。今どうしておられるやら。
 
接心の終わった日が接心の第一日。型にはまった接心ではないが、本当の接心が始まる。接心三昧。常接心。常工夫。油断しない。
 
はいっ、というのは自分を投げ出した世界。礼拝のはい。からっぽのからっぽ。身も心も放ち忘れた世界。この一単提。さあ相続していただく。ご自身のまごころを尽くし抜いていただく。本物が本物を大切に行じぬいていただく。(2000・5・7)

 
誰も代わってくれない。一歩一歩ご自分が実行する道。このひと息、ひと息、生まれては手放し、生まれては手放し、新しいものを授かっている。
 
この世は苦なり。苦のあらわれてくる元は、常なし。自分のものと思うてつかまえておる世界。それが確かなものでなくなってしまう。つかまえられる世界は確かなものではない。
 
何で私にばかりつらいことが積み重なるのだろう、という世界ではなかった。すべてよし。一切が一切をささえ、一切が一切を守り抜いていく。そういう一真実の世界。(2000・6・1)

 
(沈黙のあと)本日の提唱、ひびきましたか。耳で聞かんとすればもの足りなかったかもしれませんが、全身全霊で聞かんとすれば、黙、もっとも親切。(2000・6・2)

 
よそ見をしていると、無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭い遇うこと難し。自らが遠く遠く手放してしまう。諸仏いまだ悟らざれば今者に同じ。いにしえも今も何も離れちゃおらん。
 
本具仏性、それ以外なにもない。何かあるならまだ問題が残っている。本物はすごいんですよ。あなた方ご自身の本物は。本具仏性は底抜けに暖かい。
 
本具仏性の恩恵を、よそ見することで見失っている。本具仏性に気がつかなければ、ひと呼吸、ひと呼吸、にも気がつかない。無字、隻手、数息、隋息、みな本来心の丸出し。命がけになっても裏切られることはない。(2000・6・3)

 
自らの行なくして、自らの世界はいただけない。誰かが代わって見届けて下さる。完成して下さる。ということは許されない。たったひとりの世界。そういう厳しい真実そのものが、ごまかしようもなく与えられ切っているが、一子出家すれば九族(きゅうぞく)天に生ずという言葉もある。たった一人が真実の歩みに向かうならば、真実の出家をするならば、です。
 
出家は小さな囲いではない。一切に心が行きとどいておる。囲いを手放してしまうのが出家。本来、満点の本心本性に目覚めさせていただきます、と。本物の覚悟はかならず本物の歩みとなります。
 
一子、本当にこの覚悟に目覚めるなら、九族みなこの一真実の救いに守られて、ご縁のある方みな救われる。ご自身の命のどん底において、出家の覚悟をしていただく。できないことはない。衆生本来仏なり。一切の衆生は如来の智慧特相を具有す。救いの根本だ。
 
正身端坐(しょうしんたんざ)。命のあり様の根本を定めて、体をととのえ、呼吸をととのえ、心をととのえる。元来、三つに分かれているのではない。まっ正直に行じていけば、本来心に親しく準ずることができる。
 
みなさん準ずることがへたですね。できないですね。手放すことができないから、私が、を大事に大事にしているけど、一番にくたらしいものですよ。自他不二の本来心をいただきながら、小さな囲いをもって宝の置き場所として、人を憎み親をも憎む。衆生は顛倒妄想のゆえに知ること能わずだ。仏祖の血の涙だ。悲痛な涙だ。
 
天地一杯の只管打坐。ただすなおに行じぬいていく。必ず実行できる。分別が顔を出しても、相手にせず、邪魔にせず。相手にするとご自分の歩みがゼロになる。甘やかしてはだめ。この点ではきびしく、全身全霊、親切をつくしてただ只管打坐。
 
正身端坐の実行。本来のご自身に決定していただく近道。丹田のどん底から命が吹き出てきませんか。(2000・6・5)

 
全部をいただき切っているという事実をただ実行。本当に困ることがあったら、正身端坐、一単提。いつでもどこでもこの一単提を相続することができれば、ぐらつかずに行じぬいていけるようになるでしょう。
 
本気になると、やろうと思わなくても無字が無字を無字する。ああだ、こうだ、のくせをつけないように行じていく。言ってあげても、言ってあげても、耳にふたをしている人もないではないが、生死をはなれて仏となる、そういう世界を教えていただいております。(2000・6・6)

 
カラスがカー、カー、カー、カー。一生懸命に皆さんを励ましてくださる。接心の締めくくりの大切なときに、何といって励ましてくれているのですか。いかなるかこれ仏法的的の大意。ご自身の、いちばんの根源の根源において納得しましたか、とカラスさんが励ましてくれている。
 
お墓の入口に、我もかって汝らの如き、とある。そのとき、そのとき、そのこと、そのこと、私もそうでありました。汝らも我のごとくなるべし。三界万霊如来塔。人生、畢竟、死なり。その覚悟がいただけましたか。
 
ただひたすらに、ひたすらに、本来の自己、その真実に体当たりして、その真実を承知させていただく。ただそれだけの道であります。いただき切っているこの真実。どこにも行かぬ、ここにおる。
 
生死問題の解決を問うた人に、鶴の足は長い、鴨の足は短い、そのままのお助けじゃ、と。真宗の阿弥陀さまの教えによって救われる人は、それもご縁でしょう。
 
あんなに鳴いていたカラス、どこへ行ったのかなあ。(2000・6・7)


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