湛玄老師の言葉二

臘八(ろうはつ。十二月の接心)は覚悟の上にも覚悟して、実行あるのみ。道は自分で歩かなければならない。誰も代わってはくれない。捨て身の実行あるのみ。
 
本来心は百千万劫にも遭い遇うこと難し。みんなくせを持っているからだ。(1999・12・1)

 
本来心。みなさんご自身のことですよ。それ以外のものは毛すじもありはしない。よそ見に負ける本来心ではありません。欲張ろうとしても、欲の張りようもありません。つかむ何ものもありません。全部ご自身なのだから。すべてをいただき切っているのだから。喜びが湧いてきますね。一切が一切を限りなく大切に守り切って下さっている。
 
この一真実。よそ見はもったいなくてできない筈ですが、よそ見の名人がいっぱいおられる。なぜかな。主人公でもないのに主人顔する分別心がおられるからです。その分別心が、いちばん大事なのは私だと思いこんでいる。本物でないものを拠りどころにするから満足できない。天地いっぱいの喜びのご主人公が、ちっこい、ちっこい、私、になってしまう。
 
すべてのすべてがどれぐらい親切に守り抜いて下さっていることか。礼拝して礼拝していかねばならない。かっこだけの礼拝が多すぎますね。一単提。実行してみなさい。頭で分別する必要はない。ただ実行。
 
大安心の根源は、はじめのはじめより今ここを貫いて尽未来際、不生不滅、不垢不浄。大安心のもとは大慈悲のもとでした。私、があるあいだは、不安、心配、おそれ、がついて回る。悩み苦しんでいる人がいっぱいおられる。(1999・12・2)

 
臘八では今日は何日目などとはいわない。今日一日だけ、という覚悟。するべきことは今すぐここでする。
 
無上甚深、微妙の法。一切衆生は救われきっているという教え。このことあるによって未来永劫、相続する大光明となっていく。びくつきません。きょろつきません。みんな完全無欠。欠けたる何ものもありません。みんなが一緒に救われきる、有情非情、同時成道、因果歴然、自他不二、の一真実。
 
臘八会(え)、鬼のようなるサンタかな。打って打って打ってあげましたね。一緒に死にきりましょうと。臘八接心は今ただ今の一単提にあり。丹田のどん底から単提する。一切を手放して、ただ、ただ。丹田に中心を定めて何にもかまわない。相手にせず、邪魔にせず。(1999・12・3)

 
諸行無常、諸法無我、の世界で、しがみつくものを追い求めておる。だから安心できない。苦しみがつきまとう。自分の思うようにならないということが付いて回る。
 
十二月八日未明、釈尊は明けの明星そのものになられた。一切のすべてそのものになられた。一切衆生は如来の智慧特相を具有す、そのものになられた。
 
願わくは如来真実の義を解せん。お一人きり。どこにも逃げ場はない。大きな責任をいただき切っておる。逃げたりしません。その通り。本具仏性を信じきる大信根。どこまでその根が張っていますか。
 
道はひと筋。賢さはあとで働いて下さる。その賢さを先に使ってはいかん。生死を離れて仏となる。その通り。何年かかろうが、何十年かかろうが、何百年かかろうが、眼中にありません。できるできないも眼中になし。ただ安心して実行するのみ。
 
心決定したところ、すでに大死。死に切ってみればまことの楽がある。死なぬものにはまねもなるまい。皆さんに楽になっていただきたい。
 
大きな大きなふところに、全部おさめ切っておられるのだから大丈夫。一切の衆生すべてご自身であられた。衆生本来仏なり。上すべりで受けとることなく、まっ正直に実行。(1999・12・4)

 
無上甚深微妙の法。正法のことをこのように呼ばずにはおられない、という心の表れの言葉でしょう。すべての人が必ずこの法において安心決定する。
 
それにも段階がある。赤ちゃんの大安心もある。自分のはからいをまったく用いないのに、守られ切っているという大安心。かたじけなくも、ひと息ひと息ぐんぐんと育っていく。何にもはからいを用いなくとも、無上甚深微妙の法をいただき切っている。
 
分別智で自分をつかまえようとすると、他とのへだてができる。お母さんは赤ちゃんを「他人だ」などと思っていない。自分だと思っている。一切の法は我れなり。
 
ここで安心決定してもふしぎはないのだが、分別智に腰かけてしまう。生々をつくしてのくせだから、しぶとい。しぶといですよ。欲しいものを手に入れても、私、が変化していくから満足しない。いつまでたっても物足りない。私、そんな固まりはありませんよ。
 
賢さを悪用することのできる人間は、いちばん悪いことをしているのかもしれない。
 
乾坤大地、一個の自己。どんなに微細な姿であらわれても、どんなに大きくても、本来不二。只管打坐、数息観、無字、本来の自己の替え言葉だ。本来の自己のご主人公なのだから、本物にお会い下さい。よく忍をなすを有力の大人とす。(1999・12・5)

 
成道するまでは釈尊といえど二つの世界だ。ものが二つに見える。成道の前に魔軍に攻めたてられて難儀する。鬼のような恐ろしさで、あるいは甘い甘い誘いで、いろんな角度から襲いかかってくる。生々世々の歩みが、その通りの現象として現れてくる。外から来るのではない。
 
あわてることはありません。くよくよすることもありません。それもみんなくせです。よけいなくせはいさぎよく洗い流す。人のせいではありません。たったお一人の世界でした。天地同根、万物ただ一人。そのたった一人の人がにっこりとほほえんでいる。長い長い間いちばん親しくしていた人。
 
頭のてっぺんを針で刺しても、足の先を針で刺しても痛い。一即一切、その一点によってすべてを守り抜いている。根源において二つはない。たとえいま徹底していなくても、乾坤大地一個の身。誰も奪うことはできない。誰も傷つけることもできない。元来、姿かたちがないのだから。真っ正直な世界が瞬時もとどまることなく変化していく。
 
毎日が暗いですか。重苦しいですか。生きがいがありませんか。そんなことはありませんね。まことの宝の山、探して見つけるものですか。何見ても、何をきいてもかたじけなし。すべてよし。一単提。本来の自己の丸出し。本来の自己をいちばん親しく体現していく道です。丹田の底から一単提。(1999・12・6)

 
発心、正しからざれば万行空しくほどこす。修行の第一歩。いかなる出発点を確立されましたか。お一人お一人の独壇場だ。誰も手を付けることはできない。ご自身の覚悟であります。どんなこころざしを確立なさいましたか。願わくは如来真実の義を解せん。如来は何をお示し下さいましたか。
 
一切衆生は万徳円満です。釈尊は大自覚されて、お教え下された。降る雪のひとひらひとひらも、吹く風のひとそよぎも、それぞれがその位を行じぬいておられる。
 
正菩提の赤ちゃんばかりであります。どんなに我がまましても、必ず大復活してこられる。一坐の功をなす人には必ずそのときが来る。ご自分がご自分に差しだして下さる。いただいたのはご自身の命でした。無上甚深微妙の法。ご自身の真実であります。
 
中途半端だと固まりどうしの対立となる。そうして地球上の人が苦しんでいる。人を苦しめただけ、ご自身を苦しめる。因果歴然。この無上甚深微妙の法にご縁がうすいために、対立が対立を生む。
 
我いま見聞受持することを得たり。全部いただききっておりました。私の命ならざるものはございませんでした。ひとたびの誓いこそげにとうとかれ。すべてがどんなに真っ正直に支えて下さっていることか。守って下さっていることか。
 
願わくはただ我が身をも放ち忘れて。仏の家に投げ入れて。荷物は何にも持っておりませんでした。生きて、生きて、生き抜いている仏さまのおん命。今ここ。今ここ。さあ実行。はずれようもありません。明けの明星をご覧になって、天地一杯の光明になって輝かれた。つかむ何ものもなかった。みんな大切な、大切な、救われきった方々ばかりでありました。
 
けなげな歩みを、一歩、一歩、実行するのみ。一生懸命にご自身の覚悟の通りに行じていただく。(1999・12・7)

 
釈尊出現の本意はどこにあるのかな。人として生まれ、どんな生活をしていても、苦しみがさまざまな形でとび出してくる。たとえ苦しみがないようでも、本当に大安心ができているのかというと、不安な思いが湧いてくる。この世の実態は苦しみの展覧会。
 
なんの苦しみも悩みもありません、というのが良いのかというと、良くない。どれだけ多くの人が苦しみ泣いていることか。それを見過ごしていては大安心とはいえない。一切衆生のために、すべてを投げ出された千仏万祖。
 
本当に頼りになるものがありました。本来の自己。一切は私です。私が一切です。有情非情、同時成道。覚悟した上にも覚悟して。もうわがまま根性はあてにしません。身も心も放ち忘れて。その実行が接心だ。心配ない。私が、私が、というにせものは、必ず本物に頭を下げざるを得ない。(2000・2・1)

 
瞬時もとどまらず、大道を一歩、また一歩と踏みしめてゆく。
 
大信根の大は大小の大ではない。無限大。てってい信じきること。何を信じるのか。本具仏性。仏祖と同じ本来心を持っていることを信じきること。
 
分別智。分ける分ける。いくらでも分ける。分けられるというのは頼りにならない証拠。分けられないものこそ本当に頼りになる。ものを分ける心が徹底死にきったとき、大死一番(だいしいちばん)、大活現成(だいかつげんじょう)。
 
自分にしがみついているからうろたえる。目覚めた世界に自他はありませんでした。我が命の真実は不滅でした。
 
因縁生、因果必然の一単提。原因のない結果は絶対にあらわれない。感応道交、本物が本物をどれくらい大切に見守っていることか。正身端坐、丹田に中心が決定する。この決定がぴりっともしないのが命がけの単提だ。まっ正直に一単提の決定。かならず大死一番するときが授けられます。(2000・2・2)

 
乾坤大地、一個の自己。この一大事なくして何があるというのですか。私、にしがみついている限りは、あいつが、こいつが、お前が、と分かれている。対立の世界になっている。
 
本物は迷わない。文句を言わない。なまけない。きょろつかない。どんなことがあっても毛すじも傷つくものではない。不生不滅のこの一真実に包まれない何ものもありませんでした。
 
のんきになどしておられない。ぐずぐずなどしておられない。大恩に報いるために。少しでもお手伝いするために。
 
分別智。分けて分けて、どこまでも分けて求めていく。とどまることなし。私が、と分けた本人がどこまでも付いていく。
 
何を求めますか。満点の自己。完全無欠の自己。どんなことがあっても大丈夫。大満足の根源、それはあなたご自身。この一大事を納得しなければ、不平不満の固まり。文句ばかり言わなければならない。恩返しどころではない。
 
正法をいただくときが必ず来る。何が出てきても、出てこなくても、一単提。からりと晴れ上がりました乾坤大地。ただこれこれ。ただ実行あるのみ。(2000・2・3)

 
本物でなければ本当には役に立ってくれないでしょう。本物に決定しましたか。道眼禅師も九年間、分別智の世界で悪戦苦闘された。分別の世界を突破することができなかった。一切衆生は如来の智慧特相を具有す。なのになぜ三世諸仏諸菩薩は発心、修行、涅槃したもうや。
 
発心。いちばん大事なのは基礎工事。一切衆生は如来の智慧特相を具有す。根源の根源。基礎の基礎。衆生は顛倒妄想あるゆえに知ること能わず。基礎工事なしで建てれば、大きな建物ほど危うい。豊かであるほど不安がある。なくなりはしないか。とられはしないかと。しかし基礎工事をいくら丁寧にやっても見栄えはしませんね。
 
本物はあくまで本物。にせものはあくまでにせもの。にせものはあるように見えて、ない。夢物語。すべてよしですか。とんでもないことが起きても大丈夫ですか。
 
仏の家に投げ入れて。本来心の復活。奪われる何ものもありません。本物の実在を明らかにたたきこんで下されたお師匠さまのお陰です。
 
まっ正直の命の根源。一切を礼拝せずにおられない。この心を起こしてからは、六道に輪廻するといえども必ず菩提のたねとなる。勇気りんりんと正法を礼拝し、一切を拝みきっていける。差別の相においても納得していける。この万福の世界。葉っぱ一枚にもこもる命のかがやき。目覚めたうえにも目覚めていただく。覚悟の上にも覚悟して、油断なく、油断なく。(2000・2・4)

 
こころざしの純粋であること。こころざしを育てること。こころざしをやり遂げること。ご自身が修行の主人公、人任せではない。助けるご縁になってあげることはできるが。
 
悪事の親分はわがまま根性。私が、をつかまえている限りは何をおこなっても悪事だ。なぜだろう。それを明らかにするためにこの接心に飛び込んできた。
 
私が、を用いるのが世法。悪をしたくありません、という人は、俺が俺がをいさぎよく手放す。大死一番。覚悟の上にも覚悟して投げ出す。すると一切が本物になって姿をあらわす。満点の自分でありましたと、命のどん底から納得できる。誰も奪うことはできない。傷つけることもできない。我がまま根性はらりと捨てて、本来心のままに生き抜いていけます。
 
出発点がまちがっていると、いくらがんばってもだめ。にせものの自分にしがみついていては、覚悟がころりころりと変わる。本来の自己など私にはとても、と思うかもしれないが、真実はどこまでも真実。遠いところににっこりと坐っておられるのではありません。近い。近い。
 
我がままの種をまけば、我がままが大きくなる。一坐の功をなす人は、積みし無量の罪ほろぶ。本来心に目覚めれば、悪の固まりはほどけきってしまう。実行してみれば分かります。因小果大。本来心に忠実に実行するとき、そのたねは必ず大きく成長する。ほんのひと息の覚悟でも大きく育っていく。言い訳を用意せず覚悟を決める。(2000・4・1)

 
大死一番、徹底死にきっていただく。すると、ついに大地の有情とともに成道することを得んとなる。一切を礼拝しなければおられなくなる。一切を拝みきってまいります、自分の顔など出す余地はありません、となる。ただこの一単提。底抜けの実行。(2000・4・3)

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