湛玄老師の言葉一

私の住む福井県小浜市に、仏国寺(ぶっこくじ)という曹洞宗の寺がある。原田湛玄(たんげん)老師はこの寺の和尚であった。この寺は日本国内ではあまり知られていないが、海外から日本に禅修行に来る人にはよく知られた寺、ここで修行した外国人の数は軽く千人をこえると思う。もちろん日本人もたくさん修行しているし、ここで出家した人も多い。
 
ところが仏国寺は、こんなことを書くと叱られてしまうが、こんな小さな寺でよくこれだけの人数の人が修行できるものだと、私がいつも感心していたような小さな寺。またこの寺がぼろなのは老師の趣味のせいだとも私は思っていた。湛玄老師は寺を立派にしようとか、大きくしようといったことは、まったく考えない人であった。
 
仏国寺のすぐ近くに、曹洞宗の道場になっている発心寺(ほっしんじ)という寺がある。そしてこの寺の数世代前の和尚に原田祖岳(そがく)老師という方がおられた。湛玄老師は祖岳老師の法嗣(はっす)の一人であり、祖岳老師は南禅寺の豊田毒湛老師に参じた人である。
 
以下に湛玄老師のお言葉をご紹介する。これは提唱などの聞き書きであるが、その場でメモをとったり、テープを文字に起こしたものではなく、後で思い出しながら書いたものなので、抜けている部分がたくさんあるし、文章のつながりもよくない。
 
湛玄老師は提唱に講本を用いなかったので、提唱の内容には禅文献の解説や解釈などは含まれず、すべて独自の話ばかりである。そのため同じ言葉や同じような話がくり返されることになるが、そこに老師の大慈悲心がある。



先ほどの止静鐘(しじょうしょう。坐禅を始める合図の鐘)はよかったですね。強からず、弱からず、心にひびいてくる。ひとつ、ひとつ、心をこめておこなわなければいけませんね。くしゃみひとつするのでも、よく弁えてしなければいけません。(1999・2・13)

 
今日、ご法事があって行ってきました。いつものようにお経を読んだ後、経本を開いてお見せして申し上げました。今ここからここまでお経を読みしました。たくさんのお経を読んだのですけど、書いてあることはみな同じです。ここにおられる全ての人、お一人お一人が本当にかけがいのない大切な人です、世界でただ一人のすばらしい人です、ということが書いてあるのですよ、と。(1999・3月)

 
自他の区別はない。自他不二。ただひとつ。それを迷って二つに分けてしまう。その迷いを自我の迷執という。
 
命というものはつかまえられるものではない。ただ真実に生き抜くのみ。ひと呼吸、ひと呼吸、つかまず、持たず、腰かけず。
 
恩を知るものは少ない。恩に報いる道。一単提(いちたんてい)の実行。(1999・3・21)

 
一切をいただき切って生かされているのだから、一切をささげ尽くしていかねばならない。それを托鉢によって学んでいくのです。真実の自己、私たちがいただいている命が、どれ程すばらしいものであるかを知っている人はほとんどいない。
 
苦あれば楽あり。昔の人は真実を言っています。我がまま気ままでは、人生の本当の楽しみは分からない。見えてこない。(1999・3・27)

 
自分のためにゴソゴソするなよ。自分一人のためにウロウロするなよ。自分だけ偉くなろうなんていうのはだめですね。いちばん下の土台石になります、というのが本当の一単提。
 
先日、外出のとき蒸しパンがあったので持っていった。さて食べようと思って出したら、中からモタモタと小さなゴキブリが出てきた。ゴキブリの赤ちゃんだ。いつの間にかもぐり込んでいたらしい。いまここでゴキブリを捨てると、ゴキブリが困る。親きょうだいも仲間もいない、全然知らない初めての場所なのだから。それでゴキブリとパンをそっとカバンの中にもどした。おとなしくしていなさいよ。
 
帰ってから思い出してパンを見ると、またモタモタと出てきた。よしよし、つぶされもせずに無事だった。パンがあるからお腹は空かなかったろう。へやの隅に置いてやって、机に向かっていると、そのゴキブリが私の前にやって来て、手を合わせておじぎをしている。そんなに気にしなくていいんだよと、またパンのところに戻してやると、またすぐに目の前にやって来てお礼をしている。もう一度戻してやると、三度目はやって来なかった。ゴキブリといってばかにしてはいけませんね。自未得度先度他。すべての生き物の幸せを願うこと。(1999・4・2)

 
顛倒妄想している限りは、顛倒妄想の世界を求めてやまない。ありありと思いしものは無かりけり、無かりしものの現れしとき。
 
少し油断すると、私が、私が、が出てきて振りまわされることになる。一切の忍耐によって授かっているこの命。よく忍を行ずるを有力(うりき)の大人(だいにん)となす。お袈裟は忍耐のころもだ。
 
忍はおのれ無きの世界。師匠を信じて、辛抱して、辛抱して、忍耐して、忍耐して、忍耐して。忍はおのれ無きの世界だから、苦しみのない世界でした。おのれを投げ出して、一単提、一単提、一単提、一単提。ただ実行。(1999・4・5)

 
確かなるもの、大丈夫なもの、どこにあるのですか。本来の自己。本具仏性。すべてのすべて。一切のものの本来心。すべてのものの根源。そのまま一切の千変万化の姿をあらわして、にっこりと微笑んでいます。
 
この対立の世界。万徳円満な命をいただいておりながら、いつまでも、いつまでも、まだ足らん、まだ足らん、と求めてやまない。誰がそうさせているのか。
 
すべてのすべては支えあい守りあっている。違いながらまったく一つのもの。完全無欠、全部与えられきっておりました。会うもの、会うもの、親しい、親しい、本来心そのものでした。自分が自分を大切にして、守って、守って、捧げて、捧げて、捧げ尽くして、尽くし抜いていく。主人公にしっかりと目を覚ますことが第一。(1999・4・6)

 
ひとすじ道をただひたすらに実行。本物の自己にお目にかかったら、いよいよ命のどん底からうなづいて歩みを相続していく。変わる世に変わらぬものを見にゃならん。世法は当てになりませんよ。そんなに私が大事ですか。なかなか捨てられませんね。捨てたはずの分別心のご主人公が、しつこくしつこく粘りついてくる。本当は一単提、一単提で捨てているのですよ。
 
いつでも、どこでも、どんなことがあっても、すべて策励そのもの。すべてのすべては、身も心も放ち忘れて、すべてを与えてくれている。一切を与えられておりながら、きょろついて文句を言っているのは誰ですか。いよいよ油断なく、一真実の歩みを相続してください。
 
一週間の接心、よかったという人も、だめだったという人も、それぞれみんなよし。なぜなら根本において欠けたところは何もない。ひとすじ道を一歩一歩進んでいきます。一大事に目を開いてご恩返しを。(1999・4・7)

 
命のどん底に、求めてやまないお方がおられる。本物の自己が、本物の自己に目覚める。徹底的に目覚めた上にも、まだまだ磨いて尽きることなし。それでこそ本物の歩み。これでいいんだ、などと腰を下ろしたりしない。千仏万祖もご修行のど真ん中。
 
ひとすじ道。仏祖の定めたひとすじ道を、お師匠さまから授かってけなげに行くか。わがまま放題のよそ見をするか。その人その人の真実。正法のひとすじ道、実行あるのみ。たねもしかけもありません。わがままはわがままな世界を届けてくれます。迷いに迷いをかさねて行くのです。
 
時は今、所はここ。真実なる歩みをもって行じぬいて行く人は誰だ。ただこの一単提。本気で行じぬいていく。(1999・5・2)

 
お一人おひとりの大発願により、正法の歩みを実行することができる。楽なところに腰かけているような、恩知らずのことはいたしません。
 
土台石は誰にも気づかれないかもしれない。一切が土台石になってくれているお陰で、この一単提ができる。一挙手、一投足、ごう慢であってはならない。人を見下すようなことであってはならない。
 
無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法は百千万劫にも遭(あ)い遇(あ)うこと難し。さらに参ぜよ三十年。三百年。三千年。三万年。何が申し訳ないといって、恩知らずほど申し訳ないことはない。懺悔していますか。むしろ懺悔しないことを得意にしているのではないですか。単提しないではおられない人に復活してください。いつでも、どこでも、ただ単提。ただ実行。尽くし抜いていく本気の世界。(1999・5・6)

 
線香一本の坐禅ができるのも、どれ程の仏縁、法縁の結果であるか分からない。一大事があるということを知るだけでも、どれほど恵まれていることか。一切衆生は如来の智慧特相を具有す。本来の自己あることを毛すじも疑わない。(1999・5・7)

 
大切な大切な接心であります。
 
死んでしまえばそれでおしまい、などと言う人がありますが、潔いような言葉ですけど、恩知らずな迷いの心です。
 
私が、私が、としがみついているのが不安の元。根本の真実は一つっきり。一切の衆生は如来の智慧特相を具有す。永遠にして不滅の一真実。いつでも、どこでも、どのようなことがあっても、一切を喜びとして頂戴し、行じ抜いていくことができます、ありがとうございました、となっていただきたい。
 
足が痛いのは、不平不満を起こさせるためではなく、一大事に気づかせようとしてくれているのです。体のすべての細胞が、不平もいわずにはたらいてくれている。手が痛くないのは当たり前ですか。目が痛くないのは当たり前ですか。どれだけの平安に守られていることか。
 
真実の自己に目が覚めたら、毛すじも文句のない自分でした。感謝の涙ではすませられない。ご恩返しをしなければおられない。自らが自らに決定し、行じぬいていただく。甘やかしてはだめだ。(1999・6・3)

 
目覚めて、ご恩返しを徹底、実行するのみ。無字、数息観、只管打坐。つかまず、持たず、腰かけず、からっぽの力、かぎりない本来心の実行。1999・6・5)

 
悟ろうなどと思ってはならんぞ、などという人がありますが、違いますねぇ。
 
常不軽(じょうふぎょう)菩薩の礼拝は、命のどん底を見破った人の実行。一単提の実行。真の一単提は、真の礼拝三昧。よく忍を行ずるを有力の大人とす。ただこれ一単提の世界。何にもくっつけることはいらない。賢くなることもいらない。ただ実行。身も心も放ち忘れて、仏さまの世界に全部お任せして。
 
油断するとすぐに賢さが顔を出す。ああかな、こうかな、と考えはじめる。あげくの果てに、ごう慢が顔を出す。ただひたすらに、ひたすらに、親切の上にも親切に、明るい上にも明るく、一単提。ああかな、こうかな、と迷っているようなのんきなことではない。けちな根性さらりと捨てて、一単提。(1999・6・5)

 
大地の有情とともに成道することを得ん。誰かを、何かを、取り残してしまってはあいすまん。人のことを悪く思うようなけち根性は持たない。みんな自分なのだから。ご自分を安あつかいしてはいけません。
 
けなげな歩みを、さらにさらに精進して下さいますように。みがいて、みがいて、みがいていく命。光明尽きることなし。この一真実以外、何もいりません。
 
本来心に順じていく。何も持たない、つかまない、全部いただき切っているから。みがきが足りないと暗くなる。へんてこりんなくせを持てば持つほど、投げ出すのをおしみます。
 
私(湛玄老師)が死んでもまごつくことはない。全部明らかにしている。(1999・10月)

 
親しく本物を見届けると、もうまごつきません。きょろつきません。丹田に心をおさめる。丹田はさわぎ回らない。本来心はいつでもどこでも常に満点。本来の自己。お釈迦さまが徹底的に悟られて、徹底的に見破ってくださった。
 
分かっとる、というのは絵に描いたごちそう。いくらでも細かく説明できるが、腹はふくれない。まねごとで分かったようなことは言うけど、わがままな固まりのままだ。わがままは自らを不安にし、不足にし、暗くし、
みじめにし、悲しくさせる大もと。だから、いさぎよく放り出しても決して損はいたしません。
 
皆様みんな満点のお方だ。拝んでおりますよ。満点のおん命のご主人公。大切にお守り下さい。どうしたら大切にできますか。文句は言いません。よそ見はしません。
 
一切満ち満ちてある世界において、足らん足らんと。いつでもどこでも仏さまの家だ。接心終わって帰っても大丈夫。一単提。本具の仏性。
 
皆さまも観音さまでいらっしゃる。さらにみがきをかけていただきたい。それが接心の仕事だ。ようここまで救われて下さいました、と。一切を忘れて、我を忘れて。本具仏性の実行です。
 
賢い人はたいてい荷物が重い。先取りしていい子になって身構えておる。栗のイガみたいなものだ。
 
勝負がついていないなら、この生で勝負をつけなさい。本物はよそ見をしない。どのような境遇にあっても、どのような世界にあっても。
 
いちばん自分が頼りにしてきたもの、それは本物ではなかった。分別智。ありありと思いしものはなかりけり、なかりしもののあらわれしとき。イガの破れる時がいつか来ますよ。私、はありませんでした。ついに大地の有情とともに成仏することを得ん。本物はつねに大地の一切とともにあります。イガの破れるときに会わないと、ストーンと大地に本物は誕生して下さらない。
 
天下一品のご自身。遠慮などはしてはならん。私なんかだめです。そんなこと言ってはならん。今すべからく了ずべし。時は今、本気の上にも本気になってやり抜いていただく。本物は絶対に見捨てはしない。
 
ストーンと大地に落ちました。それからですよ、本物は。まだ皮がありました。古人も苦労されたのです。しかし喜んで苦労されたことでしょう。(1999・11月))

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