礼拝の話

インドで一番神聖な川とされるガンジス川を、礼拝(らいはい)しながら一周する修行があるという。体を前方の地面に投げ出して礼拝し、手の届いた所まで進んでまた礼拝する、という尺取り虫のようのことを繰り返しながら、ガンジス川の源流から河口まで下り、今度は対岸を尺取り虫をして源流までもどるという修行である。往復するのにどれくらい時間がかかるかは聞き忘れたが、信心のあるところ自ずと礼拝があり、礼拝することでさらに信心が確立していくのである。

合掌して頭を下げるのが仏教の礼拝だと日本では思われているが、仏教には九種類の礼拝があると玄奘(げんじょう)三蔵が大唐西域記に記している。そしてその中でいちばん丁寧なのが五体投地(ごたいとうち)の礼拝であり、授戒会に参加した人はこの礼拝を経験したことがあると思う。

五体投地は「両ひじ・両ひざ・頭」の五カ所を地につけることを意味しており、五体を地につけてから、仏様の足をいただくように両手を持ち上げるのが五体投地の礼拝である。この礼拝は三回くり返すことになっているため三拝(さんぱい)とも呼ばれており、大事な法要のときには三拝を三回おこなうから九拝することになる。三拝九拝するという言葉はこれに由来する。

とはいえ今の日本では、お寺参りをしても本尊さまに向かって五体投地どころか、合掌して頭を下げる人すらまずいない。仏像や庭の鑑賞がお寺参りの目的になっているからである。妙心寺派管長の山田無文老師の付き人をしていたとき、旅先で札所になっているお寺に立ち寄ったことがある。そのとき無文老師はまわりの人が不思議そうに見ているのを気にせず丁寧に礼拝していた。あのように無心に礼拝できたらいいと思う。

韓国では一般の人も五体投地をする。大雄宝殿(だいゆうほうでん)と呼ばれる本堂では、お参りに来た人すべてが五体投地の礼拝をしていたし、中にはたくさん並んでいる仏像すべてを五体投地しながら回る人もいた。

釈尊成道の地ブッダガヤは仏教徒にとっていちばん重要な聖地である。その中心にそびえる大塔の前では、チベット人たちが朝から晩まで熱心に礼拝をくり返している。彼らは人目をまったく気にしない人たちである。チベットの五体投地は日本や韓国のものとはかなり違う。野球の前方すべり込みのように、前方の地面に全身を投げ出す過激な礼拝であり、これが本当の五体投地ではないかと思う。仏様の前に全身を投げ出すのであるから、一回ごとに執着の薄皮が一枚ずつはがれていくだろうと見ていて思った。ただし体を痛めないように布団のようなものを下に敷いており、膝や手にもクッションを付けていた。

中国に禅を伝えた達磨(だるま)大師から数えて六人目の祖師に、六祖慧能(ろくそえのう)禅師がいる。禅宗は六祖のころ中国各地に広まったとされ、その六祖の弟子に法達禅師という人がいる。法達禅師が初めて六祖にお目にかかったとき、六祖に向かって三拝したが、頭が地に着いていなかった。六祖はそれをとがめて言った。

「頭が地に着かないのは慢心がある証拠だ。心に何か持っているだろう」

「私は法華経の学者で、これまで何千回も法華経を読んでおります」

六祖は字が読めなかったとされるから、法達禅師は六祖を軽く見たのかもしれない。すると六祖が言った。

「礼拝をするのは高慢な心を折るためだ。頭が地に着かないような高慢の心では、そこから様々な罪が生まれてくる。慢心を捨て無心に礼拝しなければいけない」。そして法達禅師は六祖の法を嗣いだのであった。

合掌する姿は美しいものである。背筋を伸ばして、しっかりと合掌すると、全身の気のめぐりが良くなり、心もすっきりとする。五体投地とまでは言わないが、時にはひとり静かに坐って合掌し無心の世界に遊んでほしい。

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