気づきの瞑想二
 
これまでに作った話の中でこれがいちばん大事な話だと思うので、短くしてもう一度ご紹介したい。なお339の「気づきの瞑想」も参考にしてほしい。
 
気づきの瞑想は二千五百年前に釈尊が説いたとされる瞑想法、これを実践すれば、悩みや不安をとり除き、心を清らかにし、不動の安らぎを得て涅槃にいたる、という瞑想法である。なお瞑想という言葉は心をととのえる修行の意味で使っている。
 
瞑想法は二つに大別できる。その一つは心の活動を止めることで心をととのえる瞑想法、これをインドの言葉でサマタという。精神を統一して心の働きを抑制し、最終的には心の働きを完全に止めた状態、滅尽定(めつじんじょう)という死んだような状態になる瞑想法である。
 
もう一つは心の動きに従いながら心をととのえる瞑想法、これはインドの言葉でビパサナという。これが気づきの瞑想であり、最近ひろまっているマインドフルネス瞑想はこの瞑想法である。なおマインドフルネスは、はっきり気づいていること、心が充分に集中できていることを意味する言葉。
 
それではこの瞑想は何に気づく瞑想かというと、「今ここ」に気づく瞑想である。心はたいてい今ここに気づいていない。心ここにあらずで勝手に動きまわり、取りこし苦労や持ちこし苦労で自分自身を苦しめている。それが整備不良の心の状態であるが、今ここに心を集中すれば、そうした苦労をいっぺんに消滅させることができる。だからこの瞑想は「今ここ瞑想」と呼ぶこともできる。
 
それではなぜそんなことができるのかというと、人間の心は基本的には一度に一つのことしかできないようになっている。だから二つのことを同時におこなうと、二つとも中途半端になる。迷いや悩みがあると、仕事をまちがえたりする。逆にいえば今ここにしっかりと気づきを集中すれば、悩みや迷いが入りこむ余地がなくなる。それが気づきの瞑想の基本原理である。
 
しかし今ここに集中するといっても、何に気づきを集中したらいいのかもう一つよく分からない。そこで登場するのが呼吸である。古来、心を集中するための基本の対象とされてきたのが呼吸、そして誰しも生きている限りは必ず呼吸をしているし、呼吸に気づきを集中すれば必ず今ここに集中できる。だからこの瞑想法の基本は随息観(ずいそくかん)である。
 
呼吸は、息が鼻孔に触れる感覚、腹部や胸部の動きの感覚、吸うときと吐くときの間にある一瞬のすき間、などでつかまえられる。ただし呼吸を制御したり、「吸っている。吐いている」などと言語化したりせず、気づきが呼吸からそれたら後悔も反省もせずに呼吸にもどす。
 
呼吸に気づきを集中するとき大事なことが二つある。一つは、吐くときは吐き終わるまでしっかり集中し、吸うときは吸い終わるまでしっかり集中すること。吐きはじめや吸いはじめに集中するのはたやすいが、たいてい途中でうやむやになってしまう。それを最後までを気を抜かずに集中するのである。すると吸う息と吐く息が一つにつながり、その状態で三呼吸もすれば心の状態がガラッと変わる。これははっきりと自覚できる。
 
もう一つは、心を調えようとか、心をこういう状態にもっていこう、などと思わずただ呼吸に集中すること。調えようなどと思いながら集中すると心が二つになる。わずかな違いであるが天地ほどの違いがある。そしてあとは実行あるのみ。釈尊いわく。汝みずから実行せよ。
 
それでは何か嫌なことがあってものすごく腹を立てている、とても呼吸に気づきを集中することなどできない、というときはどうするのかというと、そういうときはその嫌なこと、自分がムカついていることに気づきを集中する。いいことも悪いことも今ここの現実であるから、それをそのまま受け入れて静かに眺めるのである。
 
誰しも嫌なことがあると、目をそむけたり逃げたりしたくなるが、逃げてはいけない、逃げるとどこまでも追いかけられる、自分の心から自分が逃げることなどできない、というのである。かといって自分から追いかける必要はなく、戦いを挑む必要もない。ただ静かに観察するのである。
 
するとどうなるかというと、うまくすればいい解決策が見つかるかもしれない。このまま受け入れるしかないとなるかもしれない。自分の方が悪かったと気づくかもしれない。少なくとも放置して手遅れにすることはない。静かに眺めていれば冷静になることもできる。
 
それに人間の心は、その場その場で生じては滅するということをくり返している。そのため心はよく数珠にたとえられる。数珠は玉と紐でできているが、心の働きは紐のように一続きのものではなく、玉のように前後が断絶したものだというのである。
 
見たり聞いたり喜んだり悲しんだり、といった様々な心の働きが集まって意識の流れはできていが、その一つ一つの心の働きは数珠玉のように断絶したものなので、自分でその心をつなげていかない限りその心はすぐに消滅する。そして消滅したらまた呼吸に気づきを集中するのである。だから心の働きでいえば人間はつねに生死をくり返している。
 
このやり方を体の痛みに利用することもできる。体の痛みもやはり逃げることはできず、逃げてもどこまでも追いかけられる。だから逃げずに痛みになりきるのである。痛みを味わうように受け入れていく。すると痛みと自分が一つになってきて、完全に一つになると痛みはあるが苦しみはないという世界が開けてくる。そしてこのやり方に習熟すれば、いかなる痛みにも耐えられるようになるという。逆になんで自分だけこんな目にあうのだ、などと反発したりすると、苦しみは耐えがたいものになる。
 
また漠然とした不安とか心配といったものを誰しも抱えて生きている。そうした不安や心配も今ここに気づきを集中することで解決できる。
 
あるいは、あれも気に入らない、これも気に入らない、世のなか気に入らないことばかりだと腹を立てる、ということもある。そうしたイライラも今ここに気づきを集中することで解決できる。待たされてイラついているときなど試してみてほしい。
 
歳をとると夜中に目が覚めて眠れないことがある。そういうとき私はこの瞑想を実行している。呼吸に気づきを集中するだけのことなので、寝たままでもおこなうことができ、実行すればたいていすぐに眠ってしまうが、眠れないときはそれこそいい修行になる。
 
誰しも生まれてきたからには死んでいく。ということは、いつか自分の死と真正面から向き合うことになる。そうなる前に認知症で分からなくなるとか、意識不明になってしまうかもしれないが、そうならなければ死刑囚と同じような立場に立たされることになる。そういうときも、ひと呼吸ひと呼吸に気づきを集中して歩みを進めていくのである。
 
そして痛みがあるなら痛みになりきっていく。断末魔の苦しみという言葉があるから、死ぬときには苦しむことになるらしいが、それを受け入れていくのである。もっとも断末魔の苦しみもあるところを過ぎると急に楽になり、極楽浄土に遊ぶようないい気持ちになる、そういう状態で死ねるように人間の体はできている、というからそれほど心配することはないと思う。
 
ついでにいうと死後のことも自分なりに納得しておくべきだと思う。死ぬとどうなるのか、ということは誰にも分からないと思うが、ならば自分なりに得心しておけばいいと思う。仏さまが迎えに来て極楽浄土へ導いてくださるとか、会いたかったあの人と会うことができるとか、光明に包まれてぐっすり眠ることができる、というような、明るい死後の世界を思いえがき心にすり込んでおくのである。
 
私自身はこう信じている。宇宙は一つの大きな命のあらわれ、私たちはその根源の命から生まれてきて、その命に帰って行く。だから死とは命のふるさとに帰ること、その光に満ちた大きな命を極楽浄土とか阿弥陀さまと呼んでいるのだと。

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