日本語はむずかしい

日本語はむずかしいとよく言われる。これは日本語を学ぶ外国人だけでなく、日本人自身もよく言うことである。

ならばそう言われる原因は何かというと、それは日本語が優秀な言語であることに起因している、語彙の豊かさ、繊細なる表現力、ものごとを細かに分析して表現できる論理性、といった日本語のもつ長所が日本語をむずかしくしている、というのであれば結構なことであるが、残念ながらそうではない。日本語がむずかしいといわれる原因の多くは、日本語のあいまいさと法則性のなさ、人の知らない言葉をむやみに使いたがる日本人の性格、といった短所に起因しているのである。

私は福井県小浜市に住んでいる。この市名の読みは「おばま」であるが、人名の場合これは「こはま」と読むことが多い。ところが小浜の読みはこの二つだけではない。「おはま、こばま、しょうはま、しょうばま、しょうひん、こひん、おひん、ちいはま」などとも読めるし、まだほかの読み方もできる。しかもどれが正しいということはなく、どう読むべきかという法則も日本語にはない。

仏教語にしても同じ言葉でありながら宗派によって読み方の違うものがたくさんある。人名にしても最近の子供の名前は半分ぐらいは読み方が分からない。それでは名前として役に立たないのであるが、みんな工夫してわざと読めない名前を子供につけている。

要するに漢字の読み方に関して、日本語はまったく混沌無秩序の状態なのであり、このあいまいさが日本語がかかえるいちばん大きな問題なのである。

日本語はきわめて言葉かずの少ない言語である。そのことは中国語と比べてみるとよく分かる。たとえば「みる」という日本語を漢字で書くと、「見る、観る、視る、看る、診る、覧る、窺る、瞠る」などと書くことができ、それぞれみる方法や内容に違いがある。漢和辞典の字通によると「みる」と訓することのできる漢字は二百あるという。

また「めでたい」を意味する漢字には、「吉、佳、嘉、祥、瑞、慶」などがある。中国人は状況や内容によってめでたさを分類しているのである。

また「さとる」には、「悟、覚、暁、醒、了、会、知、省、哲、得、解」などの字がある。これなども、さとりの内容や深さによって字を使い分けているのである。

このように中国語はきわめて細かな表現のできる言語であり、漢字を並べただけの言語だから繊細な表現などできないと思うのは大まちがいである。そしてそれと対極にあるきわめて語彙の少ない言語が日本語であるから、日本語は分かりやすく覚えやすい言語でなければならないはずであるが、実際はその逆なのである。

また無秩序なカタカナ語の使用も日本語を分かりにくくしている。カタカナ語が多用される理由の一つは日本語の語彙の少なさにあると思うが、わざと分かりにくいカタカナ語を使いたがる日本人のくせも大いに影響している。

また最近は「ヴ」の字がよく使われるようになり、テレビでもさかんに出てきて、日本語をわかりにくくすることに貢献している。ヴの字を使うと何かいいことがあるのか、何か役に立つのかと、私はこの字を見るたびに思う。

日本語にはBとVの区別、つまりブとヴの区別は存在しないので、ブとヴを書き分けたとしても発音は同じになる。しかもブとヴの違いどころか、ヴの字の読み方も知らない人が多い。ところが文章を読むときには、黙読するときであっても必ずその文章を心の中で読み上げている。そうしなければ黙読もできないのであるから、ヴの字を読めない人はヴの字が出てくる文章を読むことはできない。また言語は考えるための道具でもあるから、ヴの字を読めない人はヴの字が含まれることを考えることもできないのである。

だからこうした字を使うことは大きく見れば国にとっても大きな損失である。そもそも私は学校でヴの字など習ったことはなく、しかもウを濁らせるとヴではなくブの発音になるのである。

ヴを使う人は、Vの字をすべてヴで表記したらどれほどの問題と混乱が起きるか、考えたことがあるのだろうか。テレビもテレヴィと表記しなければならないのである。ある外国人音楽家の名前にヴの字が三回使われているのを見たことがあるが、そんな名前とても読めたものではない。

瞑想法の一つにビパサナ瞑想というのがある。この瞑想はヴィパッサ-ナと表記されることが多いのであるが、これもきわめて発音しにくい表記であり、この瞑想法が広まらない原因はこの表記にあると私は思っている。ヴを使用するとこうした問題が限りなく起きてくるのである。

要するにここで言いたいことは、日本語の長所と短所をよくわきまえましょう、そして長所は伸ばし短所は目立たないように日本語を使いましょう、ヴの字の使用はやめましょう、ということである。

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