山の修行

昔の人は山に登っても山頂を踏まなかったといわれる。山の頂きは神の住むところ、踏んで汚してはならぬ聖域、とされていたからであり、時代が下って山頂を踏むようになってからも、精進潔斎して心身を浄めてから入山することを怠らなかった。こうしたことは初期の修験道ほど厳しかったという。

山を歩いているとよく分かるが、日本の山のふもとはどこもゴミ捨て場になっている。わずかばかりのゴミ処理費用や手間を惜しんで、山にゴミを捨てる人がいるのである。そのためゴミ捨て禁止の看板がいたる所に立っているが、この看板自体が目ざわりな存在なので、看板より掃除のために税金を使うべきだと思う。看板を立ててこれで責任は果たしたではいけないと思う。

ところが修験道がおこなわれている山はどこもゴミが少ない。もちろん奉仕活動などでゴミ拾いをしているのも一つの理由であろうが、ここはゴミを捨ててはいけない山だという歯止めがかかっているのも理由の一つだと思う。

昔から日本では、山も、海も、巨岩も、古木も、滝も、神の宿るところあるいは神そのものと見なされてきた。そして重要な場所はまちがっても汚すことがないようにと、祠を建てたりしめ縄を張って守ってきた。山には山の神、海には海の神がまつられてきたのであり、とくに山は神聖視されてきたので、山は日本の宗教の原点といわれる。山が特別視された理由は自分の足で山の登ってみれば納得できる。

なお山の神は神道では大山祇神(おおやまずみのかみ)とされるが、一般には女性の神とされていて、俗に妻のことを山の神というのはここから来ている。ひょっとするとカミさんという言葉も山の神から来ているのかもしれない。

そしてそのような大自然の神だけでなく、台所には火の神、トイレにはトイレの神、庭の隅には屋敷神、水のある処には弁財天や竜神、田んぼには田んぼの神をまつり、家を建てるきには土地神を鎮めるための地鎮祭をおこなってきた。

また動物でも植物でもみな魂を持つものだから、みだりに殺したりいじめたりしてはならず、食料として利用するときも必要以上に命を奪ってはならないとし、感謝の心を表わすために獣や魚や米や野菜に対しても、さらには命を持たない針や茶筅などに対しても、供養のための法要をおこなってきた。

万物に精霊(せいれい。しょうりょう)が宿っている、だからたとえ命を持たないものであっても大切にしなければならない、という精霊崇拝、自然崇拝をアニミズムという。アニミズムというと原始的な宗教、未開の人々の宗教と思いたくなるが、今では自然保護の観点からもアニミズムは見直されてきている。だから自然破壊が行われたとき真っ先に立ち上がるのが修験道である。

     
修験修行

大自然を神とし、その根源を仏とし、その礼拝の対象である大自然の中に飛びこんで、決死の苦行で神や仏と一体になる、そして身につけた験力(げんりき)をもって人々を救う、それが修験道である。験力とは神通力のような力のことをいい、験力を得るための修行が修験修行である。

そのため原始回帰が修験道の根本理念の一つになっている。つまり自然界は清浄なる仏と神の世界、人間界は汚れと罪に満ちた不浄な世界、だから神や仏に同化して験力を身につけるには、大自然のまっただ中に身を置いて原始的な生活をしなければならぬ、原始の生活に回帰して大自然と交流すれば、心身の罪や汚れを浄めて大きな力を得ることができるとするのである。

孤独な岩屋ごもりや木食草衣が重視されたのはそのためであり、岩屋ごもりのための洞窟を室(むろ)ともいい、室堂とか室戸岬という地名はこれから来ている。そうした岩屋の中でもっとも有名なのが大峰山中にある笙の窟(しょうのいわや)、ここでは雪に閉ざされる冬の半年間こもる修行がおこなわれてきた。

修験道のもう一つの根本理念は苦行を尊ぶこと、その目的もやはり心身の罪と汚れを浄めることにある。山を歩くのはなかなかの苦行である。登山好きの人なら誰しも一度や二度は、なんでこんなシンドイことをしているのかと思いながら山を歩いたことがあると思うが、それなのにたくさんの人が山に登るのは、苦行にはやった者にしか分からない良さと功徳があるから。汗を流してシンドイ思いをすることで身心が浄められるのである。

修験道では三昧に入るためにおこなう修行を禅定と呼び、禅定修行にはさまざまあるが、その第一はやはり歩くこと、そしてそのための道を禅定道と呼ぶ。歩く修行は行道(ぎょうどう)と呼ばれ、行道の文字通りの意味は道を行くことであるから、行場をめぐって山を歩くのも、寺や聖地をめぐって歩くのも、只管(しかん。ひたすら)行道の修行であり、歩々是れ道場の歩く坐禅である。遍路は修験道の行道から始まったといわれ、有名な比叡山の回峰行も行道修行である。

そうした禅定道では、山頂、景色のいい所、岩場や水場、石仏や石塔のあるところ、など道の要所が行場になっている。そこへ到着したらほら貝を吹き、読経や礼拝をして、さらに三昧を深めるのである。

そうした場所に到着したとき私がしているのは、姿勢を正して合掌し、心を集中して三昧に入り、気を発しながら一呼吸あるいは三呼吸することである。これは、ひと息坐禅というべきもの、本当は般若心経ぐらい読誦したいと思うし、読誦することもあるが、山を歩いているとなかなかそれができないのである。

人間は命の危険にさらされると一心不乱になれる。そのため修験道ではあえて危険な岩場で行をおこなうこともある。大峰山の山上ヶ岳(さんじょうがたけ)に平等岩という岩がある。山上ヶ岳には表(おもて)と裏の二つの行場があり、表行場の断崖には「西の覗き」と「日本岩」、裏行場の断崖には「東の覗き」と「平等岩」の行場があって、ここの平等岩は百メートルほどの断崖の上に突き出たこぶのような岩である。

ここでは今でも突き出た岩をまわる行がおこなわれていて、しかも昔はこの岩を断崖に向かって前向きにまわっていたという。この行は失敗すれば落ちて死ぬという命がけの行であるから、やるたびに一心不乱の三昧に入れる。そのため平等岩は修験の山に付きものの行場とされ、平等岩の名は行道岩のなまったものとされる。

最近「フリーソロ」という映画を見た。米カリフォルニア州ヨセミテ国立公園に、エル・キャピタンという垂直に九〇〇メートルそびえる巨岩がある。その岩を道具を一切使わずに登るフリークライミングの単独行を記録したのがこの映画、特撮や仕掛けなど一切なしの実録映画であり、アカデミー賞を受賞している。

もちろん事前に岩登りの道具を使用して登って全行程を徹底的に調べあげ、むずかしい部分はくり返し通過の手順を考えて練習し、そして最後に一気に登ったのである。携帯するのは腰の後ろに下げた滑りどめの粉の入った袋のみ。これぞまさにアメリカ版平等岩めぐりである。修験道の極意をひと言でいうと擬死再生、つまり死んで生まれ変わること、平等岩はそのための行場でもある。

参考文献「五来重著作集、第五。修験道の修行と宗教民俗」二〇〇八年。法蔵館
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