隠居の話
二〇一九年度末で寺の住職の仕事を引退し、隠居の身となった。この一年間は本当に忙しかった。隠居場所の用意、引っ越し、寺務の引き継ぎ、といった仕事の上に、葬儀や法事などの仕事もひっきりなしに入り、ひと月ぐらい寝て暮らそうかと思うほど疲れた。
ところが隠居すればひまになることは分かっていたはずなのに、まだ片付けも残っているというのに、隠居してまだひと月しか経っていないのに、ずいぶんと気の抜けた状態になってしまった。その原因の一つは、電話も来客も激減して時間がごっそりとできたのに、それに対応する新しい生活法がまだ確立していないこと。
隠居してからのひと月間をふり返ってみると、退職すると急にぼけるということが体験としてよく理解できた。しかもその急というのが、月単位とか週単位という短期間での急だということも。そして仕事の忙しさ、仕事上の悩み、人間関係における不愉快なでき事、といったことが、苦くはあっても認知症防止のいい薬になっていたこと、ストレスはある程度は必要なものなのだということにも気がついた。
また私は法要のときには必ず法話をするようにしていたが、ときには負担であったそうしたことも、考えていた以上に老化防止に役立ち、生きがいにもなっていたことにも気がついた。
そして文章を書くという仕事よりも、人前で話をしたり、人とおしゃべりをすることの方が、認知症防止の効果が高いのではないかとも感じた。先日、久しぶりに人前で話をしたとき、しばらく使っていなかった脳の回路に信号が流れるような、脳の部位に血液が流れるような感覚があったからであり、使わなくなった脳の部位は予想以上のはやさで衰えていくようである。
ところがまずいことに、隠居生活の始まりと新型コロナウィルスの感染拡大の時期が重なったため、時間はあってどこにもいけない、人と会うこともままならない、という状態になってしまった。これはまったく予想もしなかった番狂わせであり、終息どころか収束さえまだ見えない状況なので、今年は認知症の人が激増するのではないかと心配している。
とはいえ、夢にまで見た隠居生活というほどいい生活が始まった訳ではないにしろ、有終の美を飾るというほど仕事をしてきた訳ではないにしろ、無事に区切りをつけられたのだから感謝あるのみ。隠居生活の味は隠居しなければ分からない、ということを知ったことにも感謝。そして新たな修行、新たな世界への旅が始まったことにも感謝あるのみ。
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