超能力の話

正法(しょうぼう)に不思議なし、の言葉のように、仏教は超能力とか奇蹟といった要素の比較的すくない宗教である。とはいえ六神通(ろくじんずう)という超能力がしばしば仏典に登場するし、釈尊はすぐれた超能力者だったという説もあるから、超能力と無縁ではない。しかし超能力は修道における低い次元のこととされており、また超能力を得ることを目的に修行することは否定されている。

仏道修行は超能力を得るためではなく、真理にめざめ、真理を自らの人格とし、日常生活が真理と一つになるまで鍛錬し、人々に真理を伝えることを目的におこなうものである。

仏典に次のような話が載っていた。十六羅漢のひとりビンズル尊者(いわゆるオビンズル様)は、神通力と説法にすぐれていることで有名であった。彼は生まれつき欲の深い性格であり、仏弟子になって修行しているときも、それが邪魔をして修行が進まなかったが、精進努力して貪りの心を滅ぼして悟りを開くことができた。

ところがあるとき尊者が町を歩いていると、ある金持ちの男が高価な香木で作った鉢を竿の先につり下げ、「飛びあがって取ることができた人に鉢を与えよう」と道行く人々に呼びかけていた。その鉢を見て尊者はつい欲を出してしまい、空中高く飛びあがるという神通力を人々に見せてしまった。

それを聞いた釈尊が尊者に言った。「それは銭のために芸を見せるのと同じであり、出家にふさわしいことではない。信なきものに信をあらしめ、信あるものを更に進ませることではない。弟子たちよ、在家の人々に神通を示してはならぬ。これは僧伽(そうぎゃ。修行者の集まり)のおきてである」

     
六神通

六神通というのは以下の六種の能力をいう。

一、神足通(じんそくつう)。空を飛んだり、水の上を歩いたり、壁を通り抜けたり、といった移動に関係する超能力をいう。だからビンズル尊者が見せたのは神足通ということになる。

オウム真理教の教祖も神足通を備えていたらしく、坐禅の姿勢で空中に浮かんでいる写真がテレビでくり返し放送されていたが、足を組んでとび上がることは私にもできる。坐禅の姿勢は初めての人は足を組むだけでも大変だが、慣れてくると足を組んだまま反動をつけてとび上がれるようになる。それを下から撮ると、宙に浮いているように写るのである。

なお「神通ならびに妙用、水を運び柴を運ぶ」という禅語がある。無心であれば日常生活の活動すべてが神通力のあらわれだというのであり、これが神通力に対する禅の立場であろう。

二、天眼通(てんげんつう)。未来を見通す力、特に来世を知る力をいう。この世界は因果の法則に従って動いているのだから、因果の法則をよく知る人は未来を見通せるかもしれない。

三、天耳通(てんにつう)。あらゆる音や声を聞くことのできる力。観音菩薩は救いを求める人々の声を聞き逃すことなく、すぐに助けに来てくれる菩薩であるから、天耳通の持ち主である。

四、他心通(たしんつう)。他人の心を見通す力。自分の思いにとりつかれている人は、驚くほど他人の心が理解できないが、無心であれば鏡に映すようによく分かるものである。お寺に住んでいるといろんな電話がかかってくる。「これは絶対に儲かります」と儲け話を教えてくれる電話もある。しかしおいしい話が向こうから転がり込んでくるはずがないのであり、こうした判断も他心通になるかもしれない。

五、宿命通(しゅくみょうつう)。過去世のことを見通す力。あの人は前世でよほど善い事をしたのだろうとか、はるかな過去から修行を続けてきたのだろう、と思いたくなる人がいる。そうしたことが分かる力。

六、漏尽通(ろじんつう)。煩悩を滅し、解脱を得て、威徳を具足する力。漏(ろ)は煩悩を意味する。屋根の作りが悪いと雨が漏るように、心が調えられていないと煩悩が漏れ出てくる。そのため煩悩を漏というのである。だから漏尽通は仏教の目的そのものであり、他の神通力は悟っていない人でも得られるが、漏尽通は悟らないと得られない。

     
百事如意

禅の書物にこんな話が載っていた。ある和尚が昼寝をしているところへ、弟子の一人がやってきた。目を覚ました和尚がさっそく調べにかかった。「わしはいま夢を見ていた。どんな夢か分かるか」。するとその弟子は洗面器に水を入れて持ってきた。

顔を洗っているとき別の弟子が来たのでまた同じ質問をすると、その弟子はお茶を入れて持ってきた。そのお茶の入れ方が実にいい。和尚は感心して言った。「おまえたちの神通知恵は、舎利弗(しゃりほつ)尊者や目連(もくれん)尊者よりも上だ」

今風にいえば「気ばたらきの勧め」といった内容の話であるが、大事なのは無心ということである。相手の心が分かるのは自分の心の中に何も無いからであり、この無心の働きが禅の目ざすところである。

二宮尊徳翁の教えに百事如意(ひゃくじにょい)、全てのことが思いのままになるという教えがある。「すべて世の中のことは、恩に報いるということをしっかりと弁えていれば、百事おもいのままになる。恩に報いるとは、借りたものには利を添えて返して礼を言い、世話になった人にはよく謝礼をし、買い物をしたら速やかに代金を払い、人を雇えばきちんと給料を払うなど、すべて恩を受けたことは、よく考えてよく報いるようにすれば、世界のものは実に我がものの如くに何事も思い通りになる」

超能力を「自分の能力を超えた仕事ができる力」と考えるなら、他人の知恵やお金や力を、自分のものとして使っていくのは大いなる超能力である。それには恩に報いよというのである。

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