菩提達磨禅師の話
菩提達磨(ぼだいだるま)大師は、千五百年ほど前にインドから中国へ禅を伝えた中国禅宗の初祖であるが、ここで述べる菩提達磨禅師は現役のインド人の禅僧のこと。この現代の達磨禅師はインドで初めての臨済禅の寺、印度山曹源寺(いんどさんそうげんじ)を開いた人。達磨大師は西から東へ禅を伝えたが、達磨禅師はいま東から西へ禅を伝えているのである。なお達磨大師というのはいわゆるダルマさんのこと。
この臨済宗妙心寺派の海外寺院に登録された印度山曹源寺は、山田無文老師を勧請(かんじょう)開山とし、岡山市にある曹源寺の原田正道老師を初代住職としているが、開山後すぐに達磨禅師が二代目住職に就任した。
私が達磨禅師に初めて会ったのは今から五年ほど前、彼が托鉢のために私の寺に来たときのことであった。そのとき禅師は曹源寺開山の資金集めで日本中を托鉢して回っていたのであり、会った瞬間これは本物の修行者だと感じたことを覚えている。彼はいつも藍染めの雲水衣(うんすいごろも)を着ているが、それがよく似合う。日本語は達者であるが多弁ではなく、かといってもったいぶったところもなく、いたって自然体の人である。なお彼の托鉢は今も続いている。大恩あるインドのためにも達磨禅師にご協力をお願いしたい。
達磨禅師は一九六一年七月一日の生まれ、と自己紹介文には書いてあったが、実は生年月日ははっきりしていないという。禅師の両親はマハールカーストに属する不可触民(ふかしょくみん)であり、戸籍のない不可触民にはそういう人が多いという。
不可触民というのはインドの身分制度であるカースト制度の最下層の身分の人、マハールカーストは屠畜を仕事とするカーストとある。ただし彼の両親はアンベードカル博士が多くの不可触民とともにヒンズー教から仏教に改宗したとき、その改宗式に参加して改宗した仏教徒であった。なお不可触民に属する人はインドの人口の二割、差別を受ける身分に属する人は七割に達するという。
禅師の祖父は牛車を持ち、それで建築資材を運ぶ仕事をしていた。そして子供が四人に増えたとき、生活のため村からナグプールの町に仕事と暮らしの場を移し、長男であった禅師の父がその仕事を引き継ぎ、死にものぐるいで働いてトラックを二台買うところまで仕事を発展させ、大きな家も建てた。その当時、不可触民でトラックを二台持つ人は他にはいなかった。
菩提禅師はそうした恵まれた家で、五人きょうだいの四番目として生まれ、十一歳でレスリングを始めた。そして高校生のとき試合に出て優勝したが、マハールカースト出身ということでそれが認められなかった。上位カーストの者が邪魔をしたのである。
彼はそれまでカーストによる差別を受けたことがなかったので、このことは大きな衝撃となり、豊かな家に生まれた学生でさえこうした差別を受けるのだから、貧しい家に生まれた学校に行ったこともない不可触民はもっとひどい差別を受けているはずだと、インドの差別社会を直視するようになった。
そして子供のころから仏陀やアンベードカル博士に関する本を読んで仏教に傾倒していたので、インドのために何かしたいと大学を三年で退学、佐々井秀嶺(ささいしゅうれい)上人の弟子になって出家した。菩提達磨という僧名は佐々井上人の命名であり、そのとき達磨禅師は二一歳であった。
それからブッダガヤの印度山日本寺などで修行し、二五歳になった一九八六年十月五日、佐々井上人の長年の友人である神戸市、明泉寺(みょうせんじ)の富士玄峰和尚のみちびきでに来日、岡山市、曹源寺の原田正道老師のもとで本格的に坐禅修行を始めた。奇しくも来日した十月五日は達磨大師の命日であった。
現在、達磨禅師は日本で学んだ禅の教えをインドに伝えることに尽力しており、二〇一六年八月二五日に、インド中南部テランガナ州アディラバード県に印度山曹源寺を開山したのであった。
アンベードカル博士
アンベードカル博士(一八九一年四月十四日〜一九五六年十二月六日)は、インド仏教徒から師父とか菩薩と呼ばれている人。彼はイギリスの植民地支配からインドが独立したとき、初代法務大臣となって憲法を起草した政治家にして幅広い学問を身につけたすぐれた学者であり、また反カースト運動の指導者でもあった。
博士はインド中西部マハラシュトラ州ラトナギリ地方で、不可触民の十四人きょうだいの末っ子として生まれ、その生まれのためにひどい身分差別を体験したことで、反カースト運動の指導者になった人である。
「不可触民はヒンズー教を信仰していながら、そのヒンズー教のカースト制度で不当な差別を受けているのだから、こんなばかげた話はない。我々が差別から解放されるにはヒンズー教を捨てて仏教に改宗するしかない。私はヒンズー教徒として生まれたが、ヒンズー教徒として死にたくはない」
そう決意した博士は、死の二ヵ月前の一九五六年十月十四日、インドの中央にある町ナグプールで五〇万人(三〇万人とも)の不可触民とともに仏教に集団改宗し、インド仏教復興への道を切り開いたのであった。インドは仏教のふる里であるが、仏教は十三世紀ごろにはふる里のインドから完全に姿を消していたのである。その集団改宗がおこなわれた改宗広場は、今は多くの巡礼者が訪れる聖地になっている。
改宗式のときアンベードカル博士は参加者にこう呼びかけたという。「インド仏教徒たちよ。あなたたちが困っているときには、世界中の仏教徒が必ず後ろに立ちます。だから恐れずに仏教の道を歩んで下さい」
佐々井秀嶺上人
佐々井上人はアンベードカル博士の遺志を継いで、一億人以上に達したといわれるインド仏教徒を導いている人。
上人は一九三五年に岡山県で生まれ、一九六〇年に高尾山薬王院で出家、一九六五年に高尾山から留学僧としてタイへ留学、一九六六年にタイからインドへ渡りラージギルの日本山妙法寺で修行、一九六七年に龍樹菩薩の夢告によりナグプールの町で布教活動を開始、一九八八年には百万人の署名を得てインド国籍を取得、という人である。
上人の活動は多岐にわたり、毎日の勤行、信徒の求めに応じての冠婚葬祭の法要、新生児への名付け、インド各地で開かれる改宗式や仏教関係の式典の導師、といったことから、寺院、学校、診療所、孤児院、老人ホーム、などの建設や運営といったことまでおこなっており、そうした活動の資金は托鉢と寄付に頼っている。
現在、上人がいちばん尽力しているのが、ビハール州ブッダガヤにある大菩提寺の管理権返還運動。一般にブッダガヤの大塔と呼ばれている大菩提寺は、仏陀成道の地でありながら長くヒンズー教徒に管理され、ヒンズー教の儀式や装飾がなされてきた。上人はこの現状に対して真っ向から異議をとなえ、大菩提寺を仏教徒に解放することを求めて大規模デモをおこなったり、最高裁に訴えたりしているのである。
また上人は仏教遺跡の発掘や、南インドにあったという南天鉄塔の調査にも尽力している。マンセルというところにナーガールジュナ(龍樹。りゅうじゅ)連峰という山があると聞いた上人が、その地を調査したところ仏像などが見つかり、さらに発掘を進めたところ巨大な仏塔の遺跡が出てきた。そのため上人はここが南天鉄塔のあった場所ではないかと考えているのである。またやはり竜樹菩薩と関わりがあるとされるシンプル遺跡の発掘もおこなっている。
南天鉄塔は竜猛(りゅうみょう)菩薩が金剛サッタから大日経と金剛頂経を相承した場所とされ、この鉄塔相承は密教の成立上きわめて重要なでき事とされるが、密教内部にも鉄塔が実在したとする説と、鉄塔相承は心中のでき事とする説があり、もちろん存在した年代も不明である。
竜猛菩薩は密教の第三祖とされ、大日如来、金剛サッタ、竜猛菩薩の順に密教が相承されたとされるが、この竜猛菩薩と竜樹菩薩が同一人とする説が存在するのである。密教ではナーガールジュナを竜猛と訳しているのがその理由の一つであるが、竜樹と竜猛の生存時代には六〜七百年の開きがあるとする説もある。
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