トルクメニスタンの話

二〇一九年九月、トルクメニスタンを旅してきた。イランの北東に位置するこの国は、一九九一年のソ連崩壊のときに独立した中央アジア五ヵ国のうちの一つ。国名のトルクメニスタンはトルクメン人の国を意味している。

旅の行程は、関西空港出発、韓国の空港乗りつぎでウズベキスタンの首都タシケント、陸路で国境を越えてトルクメニスタン、観光の後また陸路で国境を越えてタシケント、関西空港へ帰国、であった。

日本では国名を知る人も少ない国トルクメニスタンは、正式国名もトルクメニスタンといい、国土の広さは日本の約一・三倍、人口は約五二〇万人、政体は共和制、宗教は大半のイスラム教スンニ派と少数のキリスト教ロシア正教、民族構成はトルクメン人八一パーセント、ウズベク人九パーセント、ロシア人三・五パーセント、カザフ人一・九パーセントなど、という国である。

     
最西の仏教遺跡

今回の旅の目的は、最西の仏教寺院遺跡と、その遺跡から発掘された仏像を見ることであった。この国は仏教寺院遺跡のある最西の国、つまり仏教が伝わった最西の国とされているのである。

インドで生まれた仏教は、やがてインドからあふれ出るように周辺地域へ伝わって行ったのであるが、現在、仏教が広まっている国はインドの東に位置する国ばかりである。そのため昔から仏教は東漸(とうぜん。東に広がる)するといわれてきたのであるが、ならば西側はどこまで伝わったのかというと、それが今回の旅行で訪ねたトルクメニスタンのメルブ遺跡とされているのである。

中央アジア最大の遺跡とされるメルブ遺跡は五つの遺跡からなる。ここでは古い町が捨てられると、その上ではなく隣接したところに新しい町が作られたので、丘に登ると五つの異なる時代の遺跡を一望できる。それだけ土地が広いということであろう。

仏教寺院の遺跡があるのは、その中の一つギャウル・カラ遺跡。この遺跡として残る都市は、セレウコス朝(前四〜前一世紀。シリアの王国)から、パルティア国(前三〜後三世紀。パルティアはイラン北東部の地方名)を経て、ササン朝ペルシア(後三〜七世紀)に至るまで使われ、仏教寺院が作られたのはササン朝のときとされる。この王朝ではゾロアスター教が信奉されていたが、仏教やキリスト教やマニ教など他宗教の活動に寛大な王の時代があったのだという。

ササン朝は七世紀にアラブのイスラム教徒によって滅ぼされ、そのときこの仏教寺院も破壊されたのだと思うが、メルブが廃墟になったのは近くにマリの町が作られた一八二四年以降のこととされる。

仏像が発掘されたのは、そのギャウル・カラ遺跡の中にある仏塔の遺跡。この遺跡は高さ十メートルほどの乾燥した泥の盛りあがりのような遺跡なので、上に登ってもそれが仏塔であったとは分からないが、その後ろに三三の小部屋が並ぶ遺跡があって、その僧院跡と思われる遺跡は小部屋の跡がまだ残っている。

中央アジアの遺跡の多くは日干しレンガで作られている。日干しレンガは、型の中に粘土を入れて形を作り、それを日に干して仕上げただけものなので、雨にあうと少しずつ溶けていく。そして砂漠の中といえど雨は降るから、日干しレンガの建造物は放置すればやがては溶けて土の固まりになってしまう。そのため中央アジアの遺跡はみな同じように見え、後で写真を見ても見分けのつかないことが多い。なお最近の家にも日干しレンガを使うことがあるという。壁の外側を焼きレンガ、内側を日干しレンガにすると、冬暖かく夏涼しい家になるというのである。

首都アシガバードの国立博物館に、最西の仏教寺院から発掘された仏像などを展示する一角があった。仏像および仏像のかけらは全部で八点、その中でいちばん大きなものは台座を含めた全高が三〇センチほどの頭部のない仏像、これは黒い石でできている。

なお発掘された仏像の中で一番大きなものは、坐像とすれば全高三・五メートルと推定される仏像の頭の部分であるが、この高さ七五センチの仏頭は展示されていない。この仏像はインドから運ばれてきたもの、柔らかい石でできているとガイドが言っていた。

偶像を否定するイスラム教国でありながら、国立博物館の一角に仏像が展示されているのだから、形あるものの力は大きいと思う。このことからも仏像による仏教の伝播力の大きかったことが分かる。なおメルブの近くにあるマリの町の博物館は見学しなかったが、ここには仏教関係のものはほとんどないとガイドが言っていた。

     
地獄の門

今回の旅の目的は、私に限っていえば最西の仏教遺跡であったが、このツァーの呼び物は「地獄の門」と「石灰岩台地ヤンギ・カラ」の二つ、しかもこの二ヵ所とも砂漠の中でのテント泊、それも五人用のテントに一人ずつ、そのうえ設営も料理もすべてやってくれるという王様待遇のキャンプであった。今回の旅をふり返るとこのテント泊のときがいちばん楽しかった。

「こだまの庭」を意味するというヤンギ・カラは、砂漠の中の石灰岩台地にできた広大な天然の石庭。ここではその台地の上でキャンプし、見渡すかぎりの砂漠と、そこに沈む夕日、そこから昇る朝日、そして星空を眺めた。月のない星空観察には最適の夜だったので天の川がきれいに見えた。

地獄の門というのは、中で天然ガスが激しく燃える直径六〇〜七〇メートルのクレーターのこと。このクレーターはソ連占領時代に、天然ガス探査のボーリングをしていたとき地盤が陥没してできたもの。おそらく地下に空洞ができていたのであろう。そして噴出する天然ガスになぜか火が付き、それから五〇年間も燃え続けているという。最近それを観光資源として利用し始めたのである。近くには水のクレーターと泥のクレーターもあり、この三つは同じような大きさと形をしている。なお形状からすると、地獄の門より地獄の入口と呼ぶ方がふさわしいように思う。

国土の大半が砂漠という国なので、移動中のトイレはいつも青空トイレ、男は右、女は左という具合であった。もちろんキャンプ地でも同様であるが、トイレ中にサソリが近づいてきて逃げるに逃げられず困ったという人がいた。砂漠の砂は穴を掘るのに都合のよい細かくてさらさらとした砂であった。

旅行中は快晴続きで雨は一度も降らなかった。こういう天気が続くのだからこの国の天気予報は簡単だと思うが、風が吹くと砂塵が舞い上がるのでこの国では風の予報が大事だと思う。

     
砂漠の中の豊かな国

ガイドの説明によるとこの国の国土は、七五パーセントが砂漠、十七パーセントがオアシス、残りの八パーセントが山地だという。国の中央部は広大なカラクム砂漠、周辺部は山岳地帯、そしてその山麓のオアシス地帯に人が住む、というのがこの国の見取り図である。

なおオアシスと聞くと砂漠の中に湧く泉を思い浮かべたりするが、水があって農業のできる土地をオアシスと呼ぶのだという。カラクムは黒い砂を意味するというが、カラクム砂漠の砂は黒ではなく黄色である。それを黒い砂の砂漠と呼ぶ理由は聞き忘れた。

全域にまばらに低木が生えているから、カラクム砂漠はそこそこ雨の降る砂漠なのだろうが、この国の夏の暑さは半端ではなく、砂漠の中では気温が六〇度に達し、そのときには車のボンネットの上で目玉焼きが二分でできるとガイドブックにあった。そのぶん冬の寒さは厳しくないという。

砂漠ばかりの国なので貧乏国だろうと思いたくなるが、この国はきわめて豊かな国である。そしてその豊かさの源泉は天然ガス、この国は世界四位の天然ガスの産出国であり、ソ連の占領下ではガスはすべてソ連に持って行かれていたが、独立後はそれがこの国に大きな富をもたらしたのである。

この国の産業は九〇パーセントが天然ガス、残りの十パーセントが石油と綿花だというから、首都アシガバードの近代的にして豪華絢爛たる街並みは、天然ガスの収入で作られたと言っても過言ではない。ただしこの国のホテルは、どこも見かけは立派だが部屋はよくなかった。見かけは立派だがどこか欠陥がある、細かいところがどこか抜けている、というのがこの国の現状だと感じた。

なお石油はカスピ海沿岸で採れるということで、今回そのカスピ海を初めて見た。アジアとヨーロッパの境にある世界最大の湖カスピ海は、水面の標高が海面下二八メートルという湖なので、流入河川はあるが流出河川はなく、流れ込む水はすべて蒸発によって消滅している。そのため塩湖になっていて、塩分濃度は平均すると海水の三分の一程度という。

この国の幹線道路は潤沢な資金のお陰で、どこも片側五車線もある立派な道路になりつつあるが、砂漠の中の遺跡を見に行くときには、未舗装の道から舞い上がる砂塵のひどさに驚いた。とくに風の強いときはすさまじく、前車の巻き上げる砂塵のため前がまったく見えなくなるのである。そのため遺跡よりもそこへ行くときの砂塵の方が印象に残っている。

この国では、街角にも、ホテルにも、郵便局にも、雑誌の中にも、必ず大統領の大きな写真があった。しかも道路の至るところに検問所があって人の移動を監視していたし、撮影禁止の場所や建物もやたらと多かった。こうしたことから判断すると、この国が独裁国家であるという評価は当たっていると思う。なおこの国の男には十八歳から二年間の兵役が課せられている。

この国にはソ連が支配していたときに作ったカラクム運河という世界最長の運河がある。ガイドの説明によると、この運河は中央アジア最大の川アムダリアから取水している、この運河がなくなると多くの町が消滅する、この国の九〇パーセントの人はアムダリアの水で生きている、ということであったが、そのかわりにアムダリアの水が流れ込まなくなったアラル海が消滅の危機に瀕している。

トルクメニスタンにもウズベキスタンにも、シベリアから送られてきて強制労働をさせられた日本人の墓地が残っている。日本人捕虜がトルクメニスタンで作ったものはトルクメンバシ市の駅、ウズベキスタンで作ったものは首都タシケントのナボイ・オペラ劇場であるが、このオペラ劇場は一九六六年のウズベキスタン大地震にもびくともしなかったことで有名になった。なお一九四八年にはトルクメニスタンでも大地震が起きている。

車で移動中、大きなメロンとスイカを道路脇に山積みにして売っているのをよく見かけた。この二つはホテルの朝食にも必ず出ていたので、これらはこの時季の旬の果物なのであろう。メロンの果肉は白、スイカは赤、両方とも甘くておいしかった。

今回は風邪もひかずお腹もこわさずで、順調に旅が終わったと思っていたら、帰国した三日目から風邪の症状が出て一日寝こんだ。砂漠の中で風邪をもらうことはないから、帰国するとき空港か飛行機の中でもらったのであろうが、旅行するたびに風邪をひくようになってしまった。

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