般若心経の話

般若心経はたいていの人が名前ぐらいは知っているお経であるが、難解なお経の代表でもあるので、よく読誦されている割には内容を理解している人は少ない。そこで分かりやすい心経訳を作ってみようという大それたことを考えてみた。

心経の初めの方に度一切苦厄(どいっさいくやく)という言葉がある。これは「一切の苦しみやわざわいを解決する」という意味の言葉であるから、心経は一切の苦厄から私たちを救ってくれるお経なのである。ところがこの語はインド語の原典には存在せず、翻訳するとき玄奘三蔵が付け加えたものとされる。それではなぜ玄奘三蔵がこの語を付け加えたのかというと、それは読誦する者を苦厄から救うことが、この経の一番の御利益であると彼が信じていたからだと思う。ということでこの言葉を手がかりにして心経を訳してみようと思う。

心経はつぎの四つのことを明らかにしていると思う。

一切皆空というこの世界の根本原理を明らかにしている。

一切皆空であるから「私」なるものは存在しないことを明らかにしている。

「私」がなければ全て解決、一切の苦厄も消滅することを明らかにしている。

そして一切の苦厄を消滅させる真言を明らかにする。

なお心経には意味の分かりにくい部分がある。なぜ分かりにくいのかとくり返し読んで追求した結果、中ほどにある以無所得故(得る所なきを以ての故に)の一節が分かりにくい原因になっていると気がついた。この語をなくすと前後の意味がはっきりするのである。

   般若心経

観音さまが完全なる智慧を身につけて
一切は空であると見きわめたとき
すべての苦厄は消滅した

完成された智慧でこの世界を見れば
この世界はすべて夢まぼろし
すべて夢まぼろしの世界であるから
本来、苦しみもなければ災いもない

体があると思うのも
心があると思うのも
見たり聞いたりすることも
おいしいも、いい匂いも、気持ちいいも
暑いも、寒いも、うれしいも
さまざまな願いも、習い覚えた知識も
すべて夢まぼろし
だからたとえ百年生きたとしても
すべては一瞬の夢のまた夢

すべて夢の中のでき事だから
生ずることもなければ、滅することもない
汚れることも、きれいになることも
増えることも、減ることも
迷いも、迷いがなくなることも
知ることも、得ることも、失うことも
老病死も、老病死がなくなることも
苦しみも、苦しみがなくなることもない

一切皆空であるから
私というものはどこにもない
そして私がなければ一切の苦厄もない
これが究極の智慧の完成

この智慧によって観音さまは
一切のとらわれと迷いから自由になり
恐れと悪夢を離れ、涅槃を得た

この偉大なる般若の智慧
明らかで、無上の
並ぶものなき完成された智慧によって
すべての仏が悟りを開いた

最後に一切の苦厄を解決する
究極の智慧の言葉を説こう
この言葉を称えて執着を離れれば
一切の苦厄は消滅する

私が、がなくなれば
ここがすなわち極楽浄土
この身すなわち仏なり

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