ネパールの話

平成三〇年十一月、四一年ぶりにネパールへ行ってきた。今年の秋は、九月にトルクメニスタンの仏教遺跡を見に行く予定をしていたが、関西空港が台風のために水没して飛行機が飛ばなくなったため、時期を二ヵ月遅らせ、行先もネパールへ変更したのであった。このネパール旅行の目的は、ヒマラヤの高峰を見ることと、ジョムソン街道のトレッキングであった。

ヒマラヤ山脈を横切ってチベットから流れ下ってくるカリガンダッキという川がある。ジョムソン街道はその川ぞい作られた古い街道であり、ネパール第二の町に成長したポカラから入り、ジョムソン、ムスタン王国、チベットへと通じている。ジョムソンは五分もあれば歩ける小さな町であった。平地の少ない山中ということで、町の中心の一番いい場所が飛行場になっていた。

ジョムソン街道は車にとってはきわめつけの悪路で、川の中を水しぶきを上げて走るようなところもあったが、さかんに道路工事がおこなわれていたので、遠からずネパールとチベットを結ぶヒマラヤ・ハイウェイが完成するだろうと思った。カラコルム山脈を越えてパキスタンと中国を結ぶカラコルム・ハイウェイはすでに完成している。

この旅行の最大の見ものは、世界第七位の高峰ダウラギリ(八一六七メートル)の雄姿であった。ナウリコットという小さな村で泊まった宿は、屋上に出るとすぐ目の前にダウラギリ第一峰とダウラギリ氷河、その右にトゥクチェピーク(六九二〇メートル)、というダウラギリ観峰の最適地に建っていた。この村はダウラギリから落ちてくる斜面に作られた、ダウラギリが裏山という村なのである。そして反対側に目をやると、ニルギリ連山(七〇六一メートル)の雪峰と、その稜線の向こうに世界第十位のアンナプルナ第一峰(八〇九一メートル)の山頂があった。

今回の山歩きのガイドは、日本に来たことがあるというシェルパ族の男であった。日本へ行ったとき槍ヶ岳から唐沢まで歩いた、日本の山はみんな小さかった、などと彼は言っていたが、たしかにこんな景色をいつも見ていたら、日本の山が小さく見えてもしかたがない。なお八千メートルを超える山は世界に十四座あって、そのうちの八座はネパール国内か、ネパールとチベット、あるいはネパールとインドとの国境上にある。エベレストがあるのはチベットとの国境上である。

ネパールは、正式国名をネパール連邦民主共和国といい、国土の広さは日本の四割弱、人口は約二六五〇万人という国である。国土は北部のヒマラヤ山脈、南部のタライ平原、中央部の丘陵地帯、の三つに分けることができ、産業は農業が主体であるが、ヒマラヤ観光を主とする観光業も盛んである。なおカトマンズから帰国するとき、空港や機内でネパール人に何度も日本語で話しかけられ、日本で仕事をしているネパール人が思いのほか多いことを知った。この国は世界で唯一、長方形ではない旗、三角形を二つ組み合わせた形の旗を国旗とする国である。

日本とネパールの時差は三時間十五分であるが、国の時間は三十分単位でずれていくのが普通なので、十五分という半端な時差の国は世界中探してもネパールしかないと思う。ちなみに日本とインドの時差は三時間三〇分である。なぜ十五分という半端な時間になっているのかとガイドにきいたら、国の違いを強調するためだという。ネパールはインドの属国のように見られ勝ちな国なので、時差を作って国の違いを強調しているというのである。

ネパールは国の東と西と南でインドと国境を接する、インドとの関係のきわめて強い国であるが、最近は中国との関係も強くなっている。中国が武力占領したチベットと北側で国境を接しているからである。

ネパールはつい最近までネパール王国という王制の国であったが、二〇〇六年に始まった民主化運動により、二〇〇八年にネパール王国ゴルカ朝は消滅し、ギャネンドラ国王は王宮を去り、王室との結びつきの強かったヒンズー教は国教の地位を失った。

ネパールの宗教別の人口割合は、二〇一一年の国勢調査によると、ヒンズー教徒八一・三四パーセント、仏教徒九・〇四パーセント、イスラム教徒四・三九パーセント、キリスト教徒一・四二パーセント、その他三・八一パーセントとなっているが、国内線の航空会社に、ブッダ航空とかターラー航空という仏教的な名前の会社があったので、九パーセントの人口にしては仏教は頑張っていると感じた。ターラーはチベット仏教で人気のあるターラー(多羅)菩薩のことである。なおイエティ(雪男)航空というのもあった。

ネパールは民族と宗教とカーストが複雑にからみ合う多民族、多宗教、多言語国家であり、この国の宗教分布を大まかに言うと、平地にはヒンズー教徒が多く、山地にはチベット仏教の影響で仏教徒が多いということで、シェルパ族だというトレッキングのガイドも、自分は仏教徒だと言っていた。この国古来の仏教は大乗仏教と真言密教の混合したものとされるが、それらがいつどのように伝わってきたかは分からない。なお最近は東南アジアから上座部仏教も入ってきている。

ネパールにある仏教聖地で重要なものは、南部にある釈尊生誕の地ルンビニ、カトマンズ盆地にあるスワヤンブナートとボダナート、盆地のはずれにあるナモブッダ、などである。

ルンビニはアショカ王が自ら出向いて釈尊生誕の記念碑を建立した四大仏教聖地のひとつであり、法顕三蔵や玄奘三蔵もここを訪れている。

大日如来を本尊とする大乗仏教寺院のスワヤンブナートは、ネパールで一番古い仏教寺院とされるが創建年代ははっきりしない。

ネパール最大の仏塔があるボダナートはチベット仏教の聖地であり、周辺には多くのチベット人が住み、多くのチベット寺院がある。ここの創建年代も不明であるが、現在の仏塔は十五世紀にイスラムに破壊されたあと創建されたものとされる。

捨身餌虎の伝説の地とされるナモブッダは、過去七仏などの巨大な金銅仏が並ぶ聖地だというが、交通の便の悪さから行く人は少なく、私も行ったことがない。

ポカラの町を見下ろす山の上に日本山妙法寺があった。この寺は、前回来たときは建設計画があるといううわさだけの存在であったが、今ではすっかりネパールの風土にとけこみ、ネパール人もたくさんお参りに来ていたし、参道にはみやげ物屋が並んでいた。藤井日達上人なきあとも妙法寺の人たちは頑張っているらしい。妙法寺では月初めの三日間、断食断水で題目をとなえる修行をおこなっている。

ガイドの説明によると、中国がチベットを侵略し占領したため、十万人以上の亡命チベット人がネパールに住んでいるという。ネパール政府はそうしたチベット人に対して寛大な政策をとっている、チベット人はまじめな仏教徒ばかりなので放置している、そのためボダナートなどはひさしを貸して母屋を取られる状態になった、などとガイドは言っていたが、最近は中国の影響力が増大したため、あまり寛大ではなくなってきているらしい。

釈尊は釈迦族の皇太子であったとされるが、その釈迦族の末裔とされるシャキャ姓を名乗る仏教徒の一族がカトマンズ盆地に住んでいる、というのでガイドにそのことをきいたら、仏教祭祀をおこなうカーストとしてシャキャ族は存続している、元は南部のルンビニのあたりに住んでいたが、イスラムに追われてカトマンズに来た、という説明であった。

ネパール最大のヒンズー寺院、パシュパティナートを見学したとき、寺院裏を流れる川の岸に作られた火葬場で火葬を見た。たくさんの観光客がカメラを構えて見守る中、遺体の下に積まれた薪に、息子と思われる男が点火していた。またその横では火葬が終わったあとの遺骨や薪の燃え残りを川に流していた。この川に流せば聖なる川ガンジスへと流れていくのである。

     
河口慧海記念館

ジョムソン街道沿いにあるマルファ村に河口慧海記念館なるものがあった。狭い一室のみの、慧海師に関係するのは彼の写真ぐらいという、ほとんど何もない記念館であり、壁一面に経本が積まれていたから、ここは近くにある仏教寺院の別院ではないかと思った。この記念館のある建物が慧海師がマルファで滞在した家かもしれないとも思ったが、説明書きからするとそうでもないらしい。

慧海師の「チベット旅行記」には、マルファ村は山村マルバとして出てくる。彼がこの村に三ヵ月ほど滞在したのは、チベット密入国の準備をするためであった。彼はここからチベットへ向けて出立したのである。

慧海師がチベット入国のために最初に滞在したのは、マルファやジョムソンのずっと北にあるムスタン王国のツァーラン村であった。彼はこのチベット国境に近い村で一年ほど過ごし、チベット語やネパール語を学びながらチベットへ入る方法を探したのであるが、チベット兵が警備していて街道を行ったのでは入れないことが分かった。当時のチベットは外国人の入国を厳しく禁止していたのである。そのため彼はマルファまでもどり、そこからダウラギリ北側の山々を北西方向に越えして密入国したのであった。

明治三三年、夏の初めの六月十二日に慧海師はマルファ村を出立した。彼が通った間道は六、七、八の三ヵ月間のみ通行が可能であった。まず一里ほどカリガンダッキ川ぞいに行ったところで雨に降られて一泊。そこから山越えにかかり、ダンカル村であまりの疲労のため二泊。それからムカラ坂という恐ろしい崖道を登り、サンダーという十軒ほどの山村で体を休めるために三泊。この村は夏の三ヵ月間だけよその村と通行ができる、そのよその村に通じる道というのは慧海師が通ってきた道とはいえない道のみ、とある。

次の日はターシータンという美しい渓谷を歩いて雪山の岩陰で一泊。次の日はターシンラという大きな雪山の坂にかかり、その日も寒さのなか岩陰で一泊。東南方向にはダウラギリの雄大な姿があった。六月二三日にトルボという村に着きそこで二泊。この村の人はボン教を信じていた。

それから日本の妙義山を広大にしたような巍々たる山を進み、七月一日に荷物運び兼道案内の男を帰らせた。その男にはチベットに密入国するとは言えないので、「私はこれからダウラギリ山中にある桃源郷へ行く。だからお前はここから帰ってくれ」と説明した。すると男はびっくりして言った。「それはいけません。あんな所は仏様か菩薩でなければ行けやしません。あそこへは昔から一人か二人しか行ったことがないという話ですから、行けば必ず死んでしまいます」と言って、一心に親切に止めてくれた。そして止められないと分かると涙を流して立ち去った。

それから慧海師は重い荷物を背負い、雪のなかや岩の陰で宿りながら、事前に仕入れた山の形などの情報と、磁石を頼りに北へと進み、予定通り七月四日に国境の雪山頂上に到達したのであった。

疲労が激しかったので休みたかったが、雪ばかりで坐る場所がない。とにかく食事をしようと、ツァンパという麦焦がし粉を椀に入れ、それに雪とバタを加えてよくこね、もう一つの椀に入れた塩と唐辛子をそれに付けて食べた。そのうまさは極楽世界の百味の飲食も及ばぬほどであった。

椀はかなり大きなものであるし、かの地の麦はよほど成分に富んでいるらしく力が強いので、椀に二杯も食べると腹が太くなった。これがその日の最後の食事であった。彼はこうした過酷な旅のときにも非時食戒(ひじじきかい)を守り、午後は食事をしなかったのである。

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