いろは歌の話

いろはにほへと ちりぬるを

わかよたれそ  つねならむ

うゐのおくやま けふこえて

あさきゆめみし ゑひもせす 

いろは歌は弘法大師の作とされているが、実際はもう少し後代に作られた歌のようである。七五調の四句の中に、当時使われていた四十七文字の仮名のすべてが使われており、しかも同じ字が二度出てこないので、ながく仮名の手習いに利用されてきた。この歌を漢字を使って書くと次のようになる。

色は匂へど 散りぬるを

我が世誰ぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見じ 酔ひもせず

有為という言葉は、今は「ゆうい」と読んで前途有望という意味に使われるが、仏教語としての有為は迷いの世界を意味しており、読みも「うい」である。有為の迷いの山々を越えて、無為の悟りの世界へ行くのが、仏教の目的なのである。この歌を現代語にすると次のようになる。

匂うがごとき楽しみも、すぐ散りはててしまう

世のうつろいを誰がとめられるだろう

迷いの山々を今日越えゆけば

もう浅はかな夢を見ることも、夢に酔いしれることもない

     
ヒマラヤの歌

いろは歌は大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)巻十四に出てくる雪山偈(せっせんげ)を歌にしたものといわれる。「雪山」はヒマラヤ山、「偈」は詩歌の形式の聖句であるから、雪山偈は「ヒマラヤの歌」を意味しており、それは以下の四句からなる。

諸行無常(しょぎょうむじょう)

是生滅法(ぜしょうめっぽう)

生滅滅已(しょうめつめつい)

寂滅為楽(じゃくめついらく)

雪山偈は臨終まじかの釈尊が、一番弟子の摩訶迦葉(まかかしょう)尊者に語った過去世の因縁話のなかに出てくる。その因縁というのは釈尊がこの世で悟りを開くにいたった因縁である。

はるかな昔、ヒマラヤ山中に真理を求めて修行する若者がいた。そのひたむきに修行する姿に感動した帝釈天が、道心を確かめてみようと鬼の姿で修行者の前にあらわれ、雪山偈前半の二句をとなえた。「諸行は無常である。これが生滅の法である」

これを聞いた修行者は大きな悦びを感じ、さらにその続きを聞きたいと、恐ろしい鬼に話しかけた。「今の言葉はお前がとなえたのか。もしそうなら続きを聞かせて欲しい」

「となえたのは私だ。もちろん続きも知っているが、どうにも腹がへってとなえることができない」。鬼はそう言って、いくら頼んでも教えてくれなかった。

「それならお前の食べ物を私が探してこよう。一体何が食べたいのだ」

「人間の温かい肉を食べ、血をすすりたい」

修行者は真理のために命を捨てることを決意して言った。「それでは私の体を食べさせるから、先に続きを聞かせてもらいたい」

そこでやっと鬼は続きをとなえた。「生滅を滅し尽くした、寂滅をもって楽と為す」

修行者はこの偈を木や石に書きのこし、木のうえから身を投げて、約束どおり鬼に体を与えると、鬼は帝釈天の姿にもどって静かに修行者の体を受けとめた。その修行者というのが前世における釈尊であり、はるかな過去からこうした修行を積み重ねてきたことで、釈尊は仏になることができたというのである。

この偈は諸行無常偈とか、夜叉説半偈(やしゃせつはんげ)とも呼ばれ、有為から無為へ、無常の世界から寂滅の世界へ、という仏教の根本をあらわす偈として知られている。この話でもう一つの大事なのは、真理のためには身をも命をも捨てるという心構えである。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、これが修行の秘訣なのである。

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