気づきの瞑想

気づきの瞑想は、二千五百年前にブッダが説いたとされる瞑想法、これを実践すれば、悩みや苦しみを取り除き、心を清らかにし、不動の安らぎを得て、涅槃にいたる、という瞑想法である。なお瞑想とは心を調える修行のこと。

気づきの瞑想は、「今ここ」に心を注ぎとどめる瞑想であるから、「今ここ瞑想」と呼ぶこともできる。今ここに心を集中すれば、たちまちのうちに不安や不満、いら立ちや怒り、などの人生の重荷を下ろすことができる。そういう魔法のごとき力を今ここ瞑想は持っている。

この瞑想のもう一つの重要な教えは、何か問題が起きたときには、目をそむけることなく静かにその問題を観察するということ。目をそむけて逃げたりするとどこまでも追いかけられることになる。自分の心がかかえている問題から、自分が逃げることなどできないのである。

ここでは気づきの瞑想を、「マインドフルネス。気づきの瞑想。バンテ・H・グナラタナ著」を参考にご紹介する。なおマインドフルネスは、はっきり気づいていること、心が充分に集中できていること、を意味する言葉。

     
気づきとは

気づきの瞑想は、物事をありのままに観察する力を育てる瞑想法。無執着の心で、認識の起こり、思考の起こり、それらに対する反応、などを観察していると真実が見えてくる。私たちは目の前にあることをよく見ていない。絶えざる思考という障害物に邪魔をされて、真実が見えていないのであるが、そうして見たものを真実だと思いこんでいる。

そして楽しいことや、気分良く過ごすことを追い求め、嫌いなことや苦痛なことから逃げ回っている。人は楽を好み苦を嫌うが、楽は長く続かず、苦は早く消えずで、心はいつもいら立っている。執着すれば楽も苦のタネになるのである。

苦しみの原因、苦しみの連鎖の先端、それは「好きと嫌い」にある。何かの現象が出現すると、心はそれをつかまえようとするか、拒絶しようとする。美しいもの楽しいことは受けいれ、美しくないもの楽しくないことは拒絶する、という機能が心に備わっている。これが、貪り、怒り、嫉妬、などの反応を引き起こすのであるから、心を育てていない人は常にこうした感情に苦しめられる。そうした泥沼から抜け出すための、特効薬にして予防手段となるのが気づき。

世界すべてが絶え間なく変化している。わずかの時間にも体は老化し、手にしている本は色あせ、家は古びていく。そうした宇宙の本質に気づいていないと、ある日、突然、肌にしわを見つけて驚いたり、失われた青春を懐かしんだりすることになる。だからそうした絶え間なく変化する現象を観察し、その本質を明らかにすることが真の安らぎにつながる。それをおこなうのが気づき。

気づきは訓練することで育っていく。そして気づきが育つにつれて、不変だと思っていたものが、心が追いつけないほどの速さで変化していることに気づくようになる。すると、変化に対する不満、嫌なことに対する怒り、楽しいことや自分に対する執着、といったものが、無常、苦、無我という宇宙の本質を知る智慧に変わり、欲があれば失望と不満がある、欲を捨てたとき真の安らぎが現れる、ということも分かってくる。

気づきは心を妄想から解放してくれる。そして妄想から解放されれば、明晰な心と感覚で現象を観察できるようになる。すると心はますます今に留まり、純粋な気づきの中で心はますます落ち着き、全てが輝いて見えるようになる。安らぎを得るには今の瞬間に心を留めておかねばならないのである。

気づきには二つの面がある。それはありのままに見ることと、ありのままに見ていない時そのことに気づくこと。だから気づきは、気づきの瞑想の目的地であり、そこへいたる手段でもある。気づきがあれば煩悩妄想は現れることができない。そして煩悩妄想がなければ、今起きていることを見逃すことはなくなり、欲は無執着に、憎しみは慈しみに変わる。心に何が起こっているかを常に気づいている人は究極の目的に達するのである。

気づきの訓練の一つに、ゆっくりと体を動かしながら、体と心の動きを細かく観察する方法がある。人は誰しも段取りよく仕事を片づけようと、先のことばかり考えてあくせく動いているが、ゆっくりと味わいながら動いてみると、驚くほど大きな発見がある。

歩きながら体の動きを観察するのもよい訓練になる。私たちは日常生活の行動のほとんどを、習慣化することで意識せずに行動できるようにしている。歩くときもほとんど体の動きを意識することなく機械的に歩いているのであるが、これは経済的ではあっても気づきとは正反対のことなので、心ここにあらずの状態になりやすい。

しかも頭の中では常に妄想が鮮やかに働いているため、全身から送られてくる感覚に無関心になっている。歩いたりすわったり飲んだり食べたり、といった体の感覚の多くを、人は無視して生活しているのであるが、そういう感覚に意識を集中すると、妄想を止めることができる。体の動きや感覚に心を集中しながら、同時に心配事をしたり、怒ったり、人目を気にしたり、などできないからである。

気づきは一日二四時間おこなうのが理想であるから、気づきを実践する人は時間を無駄にすることがない。心が乱れているときも、待たされてイライラしているときも、夜中に目ざめて眠れないときも、それを気づきの対象にできるからである。

     
呼吸

瞑想の対象には様々あるが、基本の対象は呼吸。ただし気づきの瞑想では、基本的な集中力を得ることを目的として呼吸に心を集中させるのであって、心を完全に呼吸に集中させるのが目的ではない。

気づきの理想は、認識世界で起こっている現象を、起こった瞬間に、起こった通りに気づくことであるが、これは非常に高い目標であってすぐにできることではない。そのためまず呼吸に集中することから始めるのである。

心は何か対象がなければ集中できない。そして集中する対象として最も身近にあるのが呼吸。姿勢を正して坐り、すべての生き物に慈悲の心をふり向け、三度深呼吸し、それから自然な呼吸にもどり、呼吸を気づきの対象にする。このとき呼吸を制御したりせず、「吸っている」とか「吐いている」と言語化したりせず、ただ呼吸に気づくようにする。そして気づきが呼吸からそれたら後悔も反省もせず呼吸にもどす。

瞑想の対象にするには、まず呼吸を見つけなければならない。呼吸は、息が鼻孔に触れる感覚、腹部や胸部の動きの感覚、吸うときと吐くときの間にある一瞬のすき間、などで見つけられる。

観察するときは一度に一つの呼吸を観察する。吸うときは吸い終わるまでずっと観察し、吐くときは吐き終わるまでずっと観察する。一回ごとに決意を新たにし、終わった呼吸のことは忘れ、次の呼吸のことは考えない。このように訓練することで気づきは育っていく。だからこの瞑想の基本は随息観ということになる。

呼吸は今の瞬間におこなわれている。呼吸には今以外の時間はない。だから呼吸に気づくことは今の瞬間に気づくこと、呼吸を観察しているとき心は自ずと今ここにいる。私たちはたいてい今を生きていない。過去や未来を思い煩うことに、多くの時間を使っているのである。

そして呼吸から心をそらす現象があらわれて来たら、今度はその現象を気づきの対象にする。それは何か、どれぐらい強い現象か、どれぐらい続いているか、ということを言葉を使わずに観察し、その現象が消えたらまた呼吸に気づきをもどす。呼吸を第一対象とし、心の散乱を第二対象にするのである。

心は今の瞬間にしか集中できない。そしてすべての瞬間には何かの現象が起きている。現象がなく瞬間だけ通り過ぎるということはない。だから現象に心を集中すれば、瞬間が過ぎ去るとき心は遅れずに付いていく。つまり瞬間ごとに現象に気づき、どんな瞬間にも執着せず、瞬間とともに変化し、瞬間とともに現象も気づきも消える、ということである。心をある瞬間にとどめようとするといら立ちが生ずる。

今の瞬間に心を留めるには、ある程度の集中力が要る。そしてこの集中力が身につくと、様々な感覚や思考が現れては消えること、それらが瞬間しか持続しないことに気がつく。

気づきと集中力は密接に関連している。気づきは集中力を方向付け、集中力は心の深層を観察する力を気づきに与える。この二つが協力して働くことで智慧が現れてくるのだから、バランスよく育てなければならないが、全体としては気づきに重点を置き、心が沈み込んだら気づきに重点を置き、心が混乱したら集中に重点を置き、落ち着いてきたら気づきにもどす。

気づきと集中力が身についたら、どんなときも修行の場になる。難しい数学の問題を解いているときも、サッカーの試合をしているときも、ひどく腹を立てているときも、気づきの場になるのである。

    
無意識の世界

欲、怒り、喜び、などの現象を完全に経験するには、その現象が生じたときに気づき、それをありのままに感じ、そして忘れなければならない。呼吸に初めと中間と終わりがあるように、心にも生起、成長、消滅の段階がある。それを始めから終わりまで明確に観察できれば、私たちが経験していることの本質が無常であると納得できる。

心に何かの現象が現れるときには、まず無意識の領域に現れ、一瞬のちに意識の領域に出てきて少し留まり、そして消えていく。私たちは思考や感情が意識の領域に留まっているとき、それを認識するのである。

たとえば欲が生じるときは、まず無意識の領域に欲が生じ、それから意識の領域に湧き上がってくる。そのため意識の領域に出てきたときには、すでに欲を追いかける状態になっている。だから私たちが欲にとらわれるのは当然のことなのであり、そして追いかければ追いかけるほど束縛される。

現象が最初に現れるのは無意識の領域であるから、現象が生まれるときをつかまえるには、気づきを無意識の領域にまで及ぼさなければならない。ところが無意識の領域のことは意識できないのだから、これは簡単なことではないが、集中力が高まるにつれて、思考や感情が泡のように現れてくるのを見る力がついてくる。

何かを認識するときには、現象を概念化する直前に一瞬の気づきの瞬間がある。「あ、犬だ」と概念化する前の一瞬、この一瞬は瞬間に消えてしまうので、ふつうはこの一瞬があることに気づかず、その後の概念化や思考の作業の方に目が向いてしまうが、このすぐに消え去る一瞬に目を向けるのが気づき。

即ち気づきは思考以前の認識であるから、思考や感情に関係せず、識別はするが比較も分析もせず、記憶にもとらわれない。だから思考や感情の影響を受けることなく、今起こっていることだけを、起こっているままに、批判や判断を入れずに、鏡に写すように認識できる。そのため気づきを実践すると物事の見方が根本から変わる。盤珪禅師が説く「不生の仏心」は、この「今ここ」に気づく心のことだと思う。

なお瞑想をしていると、幸福感、穏やかさ、慈悲深い心、などが現れてくることがある。こうした感情に執着してはならないが、拒絶する必要もない。これらは瞑想を続けていると頻繁に現れるようになるが、現れては滅するだけのものにすぎない。

     
問題が起きたら

嫌な問題が起きても、逃げたり目をそむけたりしてはいけない。しかし戦いをいどむ必要もない。誰しも何らかの問題をかかえているが、それがどんな問題であれ、それに対処する一番いい方法は、正しく向き合うこと。問題は、避けるものではなく利用するべきもの、学びの機会を与えてくれるもの、自分を成長させてくれる好機なのである。

問題から目をそむけていては、悩み苦しみの罠から抜け出せない。罠から抜け出すには罠の構造を知らなければならない。罠を分解してしまえば二度と罠にはかからない。たとえば心には比べるというクセがある。このクセから高慢心や劣等感、ねたみや憎しみが生まれてくることに気づけば、そのクセをなくしたり、違いではなく共通点を見るように変えることができる。

人間は感情を抑圧することが得意。不快なことに向き合うよりも埋めこむ方が楽だと思っている。ところがこの方法ではたいていうまく行かないし、少なくとも完全ではない。心の中に残る抑圧された不快感が、いつか表面に出てくるからである。不安やいら立ちとなって、それが出てくることもある。だからそうした不快な感情が現れてきたときには、抑圧したり追い出したりせず、静かに観察するべきである。すると抑圧されていた感情が表面に出てきて、自分を悩ませていたものの正体が分かる。

不快な感情の治療に気づきを利用することもできる。たとえば腹が立ったときには、怒りを静かに観察していれば怒りは力を失う。不快な感情も快い感情も、すぐに過ぎ去る衝動にすぎないのであるが、それなのに人がそれに束縛されるのは、その正体をよく見きわめないから。心の束縛を解くために必要なことは、現象をよく見ること、静かに観察すること。

気づきの瞑想では、不完全な自分を観察したり、不快なことに向きあったりしなければならない。私たちは、わがままで、欲張りで、うそつきであるが、それでも自分は偉いと思っている。そうした自分の欠点も、失敗した経験も、思い出したくないことも、心に現れてきたものすべてを受けいれて観察するのでなければ、気づきは育たない。だから気づきの実践には忍耐が必要である。

     
痛み

明日、配偶者を失うかもしれない。子供を失うかもしれない。自分が事故で両足を失うかもしれない。重い病気で死に直面するかもしれない。そうしたことに自分は耐えられるだろうか。そのようなとき、体の痛みは避けられないかもしれないが、精神的な苦しみを避けることはできる。仏教はその方法を教えている。

避けられない痛みがあるのだから、体の痛みに対処する方法を身につけることも必要なことである。痛みに対処するには二つの方法がある。それは痛みを取り除くことと、痛みを気づきの対象にすること。取り除ける痛みは取り除き、それができなければ痛みを味わうようにするのである。

すると痛みに二種類あることが分かる。それは痛みの感覚そのものと、拒絶反応から来る痛み。そして拒絶反応の痛みにも二種類あることが分かる。それは肉体的なものと精神的なもの。

肉体的な拒絶反応は、痛みの部分とその周辺に緊張となって現れる。だからその緊張をほぐしてやると痛みはかなり楽になる。

精神的な拒絶反応は、痛いのは嫌だ、早くなくなって欲しい、と拒絶する心の抵抗。よく観察するとこの抵抗が見つかる。この抵抗が自分と痛みとの間に横たわっている境界線。ところが痛みを味わうように観察していくと、この抵抗感と境界線が消滅し、自分と痛みが一つになる。すると驚くべきことが起きる。「私」がなくなり、痛みはあるが苦しみはないという状態になるのである。

この方法は初めは小さな痛みに対処できても大きな痛みには対処できないが、訓練すればできるようになる。これはほかの不快なでき事にも適用できる、きわめて有効な方法である。

現象に何かを付け加えてはいけない。足が痛いときは、「私の足が痛い」のではなく、ただ痛みを感じているだけ、「私の」は後で付け加えた概念である。気づきの智慧で痛みを見れば、痛みは単なる感覚にすぎず、そこから不安や怒りなどの感情は生まれてこない。

     
無我

人は常に不安を感じている。病気や老いや死に対する不安。欲しいものが得られない不安。得ているものを失う不安。得ているものに満足できない不安。などなど人の不安には限りがない。そして不安を解決するために確かなものを手に入れようとするが、確かなものは手に入らない。

こうした問題に本気で向き合えば、存在の本質が無常であり、苦であり、無我であると納得できる。苦には明らかに分かる苦から、苦と認識していない微細な苦まで様々あるが、苦の問題に本気で向き合えば、人生が苦に満ちていること、欲があればかならず苦があることを理解できる。

気づきが完全に育ったとき、心は完全に無執着になる。そして無執着になれば、人生の浮き沈み、欲、怒り、恐れ、などで心が揺れ動くことはなくなる。清らかで自由な心が現れてくるのである。

気づいているとき、心は悩み苦しみにとらわれていない。そしてそのときには何が起ころうと、うろたえたり考えこんだりすることなく、即座に無駄なく対処する智慧が私たちには備わっている。たとえ解決法がない状況に陥ったとしても、悩むことなく気づくべき次のことに気づき、先へと進むことができる。

気づきの瞑想を続けていくと、事実をゆがめていたものの正体が分かる。それは「私」という概念である。あらゆる認識に私が入っている。そして他とのつながりを忘れた私という錯覚から、すべての悪い行為、冷酷なでき事が生まれてくる。私のためにもっと多くを手に入れなければ、となるからである。

だから私をなくせば世界はすっかり変わるが、生涯をかけて作り上げてきた私を、一瞬のうちになくすことなどできない。しかし時間をかけて気づきを充分に注げば、私という概念は少しずつこわれていく。日常生活では私という概念を使わねばならないときもあるが、私に対する執着や衝動がなくなれば、私を使う使わないの選択ができるようになる。

こうした智慧を得るには努力を必要とするが結果はすばらしい。一瞬一瞬が改善され、心は清らかになり、苦しみは消滅し、すべての命を慈しむようになる。

終わりなく流れる心の集合体の中に見つかるのは、前の現象によって引き起こされた変化の流れのみ、そこに実体は見つからない。思考は見つかるが、思考する人は見つからない。感情は見つかるが、それを抱く人は見つからない。家の中は空っぽなのである。新聞の写真を拡大鏡で見ると、新聞写真は小さな点の集まりにすぎないことが分かる。同様に心を精密に観察すると、私という存在は分解し消滅するのである。

そして私が消滅すると、相互に関係しあう実体のない無数の現象だけが残る。欲は消え、重い荷物は下ろされ、抵抗も緊張もない、苦も楽もない、流れだけが残る。大きな安らぎ、作られたものではない究極の安らぎ、涅槃が実現するのである。

参考文献
「マインドフルネス気づきの瞑想」バンテ・H・グナラタナ著 出村佳子訳 2012年 株式会社サンガ
「呼吸によるマインドフルネス」ブッダダーサ比丘著 浦崎雅代、星飛雄馬訳 株式会社サンガ 二〇一六年
「アチャン・チャー法話集」アチャン・チャー著 出村佳子訳 株式会社サンガ 二〇一六年

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