イスラエル、ヨルダンの話
平成三〇年二月の初め、イスラエルとヨルダンを旅してきた。この旅行のいちばんの目的は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、という三つの宗教の聖地になっているエルサレムを見学することであったが、この旅行でいちばん興味を引かれたのはイスラエルという国であった。
一九四八年に建国された新興国イスラエルは、正式国名をイスラエル国といい、国土の広さと緯度は四国と同じくらい、政治形態は議会制民主主義、人口は約八七〇万人、民族構成はユダヤ系七五パーセント、アラブ系二〇パーセントなど、宗教はユダヤ教が七五・四パーセント、イスラム教が十八・九パーセント、キリスト教が二パーセント、という国である。
イスラエルへ行くと聞いてみんな心配してくれたが、この国の治安は悪くはなかった。治安に関しては現地ガイドの日本人がこんなことを言っていた。私は四〇年間この国に住んでいるが危険な目に遭ったことは一度もない、夜間の散歩もまったく問題ない、これは警備態勢が調っているからであり、空港での検査も時間をかけてしっかりおこなっているので、この国を出発した飛行機がハイジャックされたことは一度もない、と。
イスラエルにはテルアビブの空港から出入国したが、たしかに検査は厳重であった。出国のときには乗客すべてに対して一人ずつ、荷物の中身はすべて自分の物かとか、空港内で人から物を預かってはいけない、などの質問や警告をしていたし、検査機器も高性能のものを使用しているように見えた。
テルアビブの空港というと、一九七二年におきた岡本公三らの乱射事件を思い出すが、この事件は彼らが搭乗したフランスのドゴール空港で、きちんと荷物検査をしなかったことが事件発生の原因であった。つまり彼らは荷物受けとり場で受けとったスーツケースの中から、自動小銃を取りだして乱射したのであった。
今回の旅行におけるいちばんの収穫は、イスラエルは中東の覇者になりつつある、ということを知ったことであった。いま中東でいちばん輝いている国はイスラエルである。経済力においても軍事力においても、イスラエルに対抗できる国は中東には存在しない。教育水準や生活水準も群を抜いているし、町も道路もよく整備されているし、道路にゴミも落ちていない。この輝きがいつまで続くか分からないが、少なくとも当分は続くだろう。そう感じたのであった。
日本人の現地ガイドは、イスラエルとサウジアラビアを中心として中東の新たな秩序が作られていくだろう、と言っていたがその通りかもしれないと思った。
これまでに四回、「イスラエル人を地中海に追い落とせ」を合い言葉に、周囲のアラブ国が連合してイスラエルに戦いを挑んだが、すべてアラブ国側が完敗したという。イスラエルの強さの秘密は負ければ後がないというところにある。負ければ千九百年ぶりに建国したユダヤ民族の国が消滅し、再び流浪の民になってしまうのである。そういう背水の陣を守るイスラエル軍には、国土をゴミだらけにしても何とも思わない国民が住む国の軍隊では、太刀打ちできないだろうと思った。
なお現地ガイドは四回の中東戦争はすべてアラブ国側が仕掛けたものであり、イスラエルは防衛上の必要からその戦争のとき敵国の領土を占領したに過ぎない、と強調していた。今回の現地ガイドは、この国の大学を卒業し、この国に四〇年住んでいるという日本人、彼はこの国に惚れこんでいるらしくイスラエル寄りの発言が多かった。
周囲は敵ばかりという国なのでイスラエルには徴兵制度がある。兵役義務は男は三年、女は二年であるが、キリスト教徒やイスラム教徒は志願制になっているという。
ヨルダン川西岸やガザ地区に住むパレスチナ人のことがよく問題になるが、パレスチナ人という民族は存在しない、住んでいるのはアラブ人だとガイドは強調していた。パレスチナの地というのは、イスラエル国とヨルダン川西岸とガザ地区を合わせた地を指しており、これが聖書に出てくるユダヤ人への約束の地カナンである。だからパレスチナ人という言い方をするならば、ユダヤ人もパレスチナ人だというのである。
この地で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、という三つの宗教が生まれたのだから、中東人には宗教的に優れた人が多いのかとガイドにきいたら、中東人はすぐに弱音を吐く弱い人間であり、そのため神を求めたのだと思う、日本人の方がはるかに粘り強い、と意外なことを言っていた。
イスラエルとドイツの関係をきくと、今は両国間に問題はないという。ドイツは大戦中に六百万人ものユダヤ人を虐殺したが、戦後処理を完全に行ったので過去の確執は残っておらず、ドイツ人もたくさんイスラエルにやって来るという。ドイツは第一次大戦にも負けているので敗戦時の処理に慣れていたのである。
ここからは観光の話。エルサレムの旧市街では、ユダヤ教の聖地である嘆きの壁(西紀七〇年にローマ軍に破壊されたエルサレム神殿の西の壁)、イスラム教の聖地である岩のドーム(中に預言者マホメットが昇天したという岩がある)、キリスト教の聖地であるゴルゴダの丘(キリスト磔刑の地。刑死の三日後にキリストが復活したことでキリスト教が成立したのだから、ここは最重要の聖地。劇画ゴルゴ13の名はこの丘の名からきているとか)、ビアドロローサ(キリストが十字架を担いで歩いた道)などを見学した。これらはきわめて狭い範囲に集中している。ビアドロローサでは十字架を担いで歩くキリスト教徒の姿を見た。その十字架はかなり使いこまれたものだったので、おそらくどこかで借りてきたものなのだろう。
それ以外にも、キリストが生まれた場所、マリアさまが亡くなった場所、最後の晩餐の部屋、ペテロに関係する鶏鳴教会、ダビデ王の墓、モーセ終焉の地ネボ山(ヨルダン)、などの聖書に関係する場所も見学した。
こうしたキリスト教の聖地が多く含まれているので、今回の旅の参加者にはキリスト教徒が多いのではないかと思っていたら、一人もいなかった。ガイドにそのことをきいたら、以前はイスラエルに来るのはキリスト教徒が多かったが、最近はそういう傾向はないという。
イスラエル最後の夜、エルサレムの宿でナンキン虫に食われた。あまりの痒さに夜中に目が覚め、これはナンキン虫に違いないと探したら一匹いた。虫は一匹であるが二十ヵ所ほども食われていた。この虫はそういう食い方をするのであり、久しぶりのせいか一週間以上も痕が残った。ただし泊まったのはナンキン虫が出るような宿ではない。
ユダヤ教
以下は平凡社の百科事典からの引用である。
ユダヤ教は古代オリエントに発生した、現在も約一五〇〇万人の信徒を擁する世界最古級の宗教である。ユダヤ教では神の存在は証明を必要としない自明の真理とされ、その唯一の神の統一された意思のもとに宇宙が創造されたとする。またユダヤ人の定義については、モーセの教えを信じる人がユダヤ人という定義と、ユダヤ人の子供はみなユダヤ人という定義の二つがあるという。
なお旧約聖書を聖典とするのがユダヤ教、旧約聖書と新約聖書を聖典とするのがキリスト教、旧約聖書と新約聖書とコーランを聖典とするのがイスラム教であるから、ユダヤ教はキリスト教やイスラム教の母体となった宗教である。
ユダヤ教の信仰によると、ユダヤ教とは神に選ばれ、神の啓示を受けたユダヤ民族がたどった歴史の軌跡とされ、事実、ユダヤ教の教義は民族史の中で起こった事件と関連して形成されてきた。だから民族史を語らずにユダヤ教を説明することはできない。
ユダヤ民族の歴史は、紀元前二千年ごろ神に選ばれたヘブライ人(ユダヤ人)のアブラハムが、カナン(パレスチナ)の地に移住したことに始まる。遊牧民アブラハムは、カナンの地を与えるという約束を神から授かったというのであり、この約束(アブラハム契約)によりカナンはユダヤ民族の約束の地になったとされる。
ところがアブラハムの孫のヤコブ(別名イスラエル)の時代に、パレスチナの地が飢饉に襲われたためユダヤ人はエジプトへ移住したが、そこで待っていたのは奴隷の生活であった。そのため神に導かれたモーセがユダヤ人を率いてエジプトを脱出し、紅海でエジプト軍の追跡を奇跡的に逃れ、シナイ山で神と契約を結んだ(シナイ山は特定されていない)。このシナイ契約によりユダヤ人は神の選民となり、このとき神から与えられた十戒を根本とする律法がユダヤ人の生き方を決定する基本法となった。
紀元前十三世紀末に、ユダヤ人はカナンの地に侵入して定着、紀元前千年ごろ南ユダ王国出身の王ダビデが、パレスチナとシリア全域にまたがる王国を建国し、エルサレムを首都に定めた。そしてその子ソロモンが、エルサレムのシオンの丘にエルサレム神殿を建立すると、神は「ダビデ家をユダヤ人の支配者として選び、シオンを神の名を置く唯一の場所にする」という約束をしたという(ダビデ契約)。このことからエルサレム(シオン)を最重要の聖地とする信仰が生じた。
しかし北部のユダヤ人はこのダビデ契約を認めず、ソロモン王が死ぬとダビデ家の支配から独立して国を建てた。そのため王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、北イスラエル王国は前七二二年にアッシリアに滅ぼされ、残った南ユダ王国は前五八六年にバビロニアに滅ぼされ、そしてエルサレム神殿は破壊され、ユダヤ人の指導者たちはバビロニアに連行された(バビロン捕囚)。
紀元前五三八年、バビロニアの支配者となったペルシアのキュロス二世が捕囚民を解放、ユダヤ人はパレスチナに帰りエルサレム神殿を再建した(第二神殿)。
紀元前六三年、パレスチナの地はローマの属領となり、ユダヤ人はヘロデ王の過酷な支配をうけ、ついでローマ人総督の過酷な支配を受けた。そのためユダヤ人は大反乱を起こし(第一次ユダヤ戦争。後六六〜七〇)、一時はローマ軍の排除に成功したが、結局反乱は鎮圧されエルサレム神殿は再び破壊された。その後、第二次ユダヤ戦争が起きたがやはり鎮圧され、敗れたユダヤ人はエルサレムへの立入りを禁じられ、祖国を追われることになった。
こうして国を持たない流浪の民となったユダヤ人は世界各地に分散して居住したが、やがて宗教的差別が人種的差別に発展したため、ユダヤ人は市民社会の矛盾を転嫁するかっこうのいけにえ的存在となり、ついには世界各地で迫害の対象となった。
イスラエル建国の功労者の一人にオーストリアのジャーナリスト、テオドール・ヘルツェル(一八六〇〜一九〇四)がいる。彼は「ユダヤ人迫害は、ユダヤ民族の団結と各国政府の協力によってパレスチナにユダヤ人国家が建設されるまで止むことはない」と主張して奔走した人。そしてこの主張に呼応して主にロシアや東ヨーロッパのユダヤ人の間から、パレスチナの地に移住して独立国家を建国しようというシオニズム運動がおこり、十九世紀後半から数十年にわたり移住と建国の運動が続けられた。
そのころパレスチナを含むアラブ東部はオスマントルコの支配下にあった。そして第一次大戦のときイギリスは、一方では敵対するオスマントルコの勢力をそぐため、アラブの指導者に対してアラブの独立を約束してオスマントルコへの反乱をそそのかし、他方では在欧米のユダヤ人の支持を得るため、パレスチナにユダヤ人国家を樹立することを支持するバルフィア宣言を発した。このバルフィア宣言でシオニズム運動は大いに勢いづいたのであるが、後にこうしたイギリスの二枚舌外交がアラブとイスラエルの紛争を激化させることになった。
また第二次大戦中にナチスドイツが行ったユダヤ人の大量虐殺は、ユダヤ人に対する世界的同情を呼びおこし、ユダヤ人国家の樹立を促進させることになった。そしてついに一九四八年、夢物語を思われていたシオニズム運動がイスラエル国の独立として実を結んだのであった。
しかし長年パレスチナに住み続けてきたアラブ人にとっては、大昔そこにユダヤ人の国があったからといって、ヨーロッパなどから大量のユダヤ人がやってきてそこに国を作ることなどとうてい受け容れがたいことであり、両者の間に争いが起きて当然である。そしてその争いは今も続いている。
ヨルダン
ヨルダンは、正式国名をヨルダン・ハシミテ王国といい、国土の広さは日本の約四分の一、人口は約六五〇万人、政治形態は世襲の立憲君主制、民族構成は九八パーセントがアラブ人、宗教はイスラム教スンニ派が九三パーセント、公用語はアラビア語、という国である。
陸路でイスラエルからヨルダンに入ると、とたんに道が悪くなり、家も貧相になり、道路も畑もゴミだらけの状態になった。両国民の経済力と公衆道徳心の違いは明らかである。ただしさすがに世界遺産になっているナバタイ人の都、ペトラ遺跡だけはきれいに掃除されていた。
ヨルダンでいちばん嫌だったのは、道路のいたるところに車の速度を落とさせるための段差が設置されていて、バスの乗り心地がきわめて悪かったこと。町に入るとこの段差が五〇メートルか百メートルごとに設置されているのだから、たまったものではない。こういうことをする国、あるいはしなければならない国は発展しないだろうと思った。
ヨルダンには日本語ガイドは二名しかいないとガイドが言っていた。以前は七名いたが仕事がないので二名に減ってしまったという。たしかにヨルダンでもイスラエルでもほかの日本人の団体には会わなかったから、このあたりを旅する日本人は多くないようである。そのためだと思うがイスラエルのガイドブックはいくら探しても入手できなかった。
参考文献
「もっと知りたい、イスラエル」平岡真一郎 2017年 株式会社エフ・エル・リンク
「地球の歩き方。ペトラ遺跡とヨルダン」2017〜18年版 ダイヤモンド・ビッグ社
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