原因と結果の法則
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。車を引く牛の足跡に車輪がついて行くように」
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。影がそのからだから離れないように」
これは中村元訳「ブッダの真理の言葉」の第一節と第二節。「ものごとは、心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される」という教えは、仏教の核心というべきものであるが、この言葉をどのような意味にとるかは仏教内部でも一様ではない。
この言葉の解釈としてまず挙げられるのは、心は一切を創造する、この世界はすべて心が生み出したものである、存在するのは心だけである、という唯心論的な解釈。そしてその代表が一切唯心造を標榜する唯識仏教である。
あるいは、山を見れば山が生まれ、海を見れば海が生まれるというように、心が感覚器官を通じて認識することにより世界がつくり出される、という解釈もある。
あるいは、この世界は心のあり方ひとつで、清らかな世界にも、汚れた世界にもなる。楽にも苦にも、善にも悪にもなる。夜道に落ちているひもを毒蛇と見まちがえて恐怖に取りつかれることがあるように、心のあり方ひとつで世界はいかようにも変化する、という解釈もある。
あるいは、心に思い描いたことが、自らの人格も運命も、さらには環境さえも作っていく、未来はすべて思いによって形成される、思いが原因となってそれにふさわしい結果があらわれてくる、という解釈もある。
ここではこの四番目の解釈による教えを、「原因と結果の法則」という本を引用しながらご紹介したい。これら四つの解釈の中で、この教えがいちばん役に立つと思うからである。
思いは未来をつくる
私たちは自らの人格の制作者であり、環境と運命の設計者であり、それらの管理者である。私たちは自分を望み通りのものに作り上げていく力と、人生で直面するあらゆる状況に対処する力を持っている。運命を決定する神は心の中におられる。それは私たちの思いである。そのことを知れば自分と環境の主人公になれるが、自分は環境の産物だと信じていれば環境に振りまわされることになる。
だからすばらしい人生を築きたいのなら、心の庭をたがやして不純な思いを一掃し、清らかで正しい思いを植えて育てなければならない。思いと人格は一つであるから、清らかで正しい思いをめぐらし続ければ崇高な人間になり、誤った思いをめぐらし続ければ獣のような人間にもなる。思いは行動、体験、肉体、環境の源であるから、思いをきれいにすればすべてがきれいになる。
良い思いは決して悪い結果を生じない。悪い思いは決して良い結果を生じない。これはキュウリの苗にキュウリが、ナスの苗にナスがなるよりも確かなこと。苦悩はつねに誤った思いの結果であり、喜びはつねに正しい思いの結果である。だから気高い思いの人が邪悪な道におちて苦悩することはなく、邪悪な思いの人が気高い目標を達成したり、真の喜びを感じたりすることもない。
思いは行為として花開き、環境という実を結ぶ。そして良い環境も悪い環境もすべてその人のためになる。喜びからも苦悩からも人は多くのことを学ぶのである。
環境は思いから生まれ、つねに思いと釣り合いがとれている。ところがたいていの人は環境の改善には意欲的であっても、自分の思いを改善しようとはしない。それがいつになっても環境を改善できない理由である。まず自分が周囲の人々に対する姿勢を改めれば、人々の自分に対する姿勢も速やかに改まる。ところが周囲の方を無理やり変えようとするのである。
思いは現実となる
私たちは自分が望んでいるものではなく、自分と同種のものを引きよせる。環境は思いの後ろにできた影であるから、思いにふさわしい願いや祈りだけがかなえられるからである。多くの人は自分のひそかな思いを隠し通せると信じているが、それはまちがっている。思いはまず生き方としてあらわれ、つづいて環境としてあらわれてくる。
貪りに満ちた思いは、自制のきかない動物的な生き方としてあらわれ、やがて貧しさや病気に満ちた環境となって姿をあらわす。
怒りに満ちた意地悪な思いは、つねに他人を非難する生き方としてあらわれ、不安と恐怖に満ちた環境となって姿をあらわす。
利己的な思いは、身勝手な生き方としてあらわれ、敵ばかりいる環境となって姿をあらわす。
けがれた思いは、活力に欠ける混乱した生き方としてあらわれ、苦難に満ちた不愉快な環境となって姿をあらわす。
恐怖や疑いに満ちた思いは、優柔不断で臆病な生き方としてあらわれ、失敗や困難に満ちた環境となって姿をあらわす。
怠け心は、不潔で不正直な生き方としてあらわれ、よごれた貧しい環境となって姿をあらわす。
気高い思いは、自制のきいた穏やかな生き方としてあらわれ、平和で静かな環境となって姿をあらわす。
清らかな思いは、思いやりに満ちた生き方としてあらわれ、明るく快適な環境となって姿をあらわす。
勇気と信念に満ちた思いは、速やかに決断し行動する生き方としてあらわれ、自由と成功と豊かさに満ちた環境となって姿をあらわす。
活気に満ちた思いは、前向きで積極的な生き方としてあらわれ、喜びに満ちた環境となって姿をあらわす。
好意と寛容に満ちた思いは、優しさにあふれた生き方としてあらわれ、安全で安心な環境となって姿をあらわす。
慈悲に満ちた思いは、人々に奉仕する生き方としてあらわれ、永続的な繁栄と真の富に満ちた環境となって姿をあらわす。
正しく生きている人にとって、老化はゆるやかで穏やかである。彼らは沈みゆく太陽のように、円熟味を増しつつ年齢を重ねていく。
私たちは環境を直接変えることはできなくても、思いを変えることで環境を変えることができる。宇宙は思いをすぐに具体的な形にしてくれる。良い思いであれ、悪い思いであれ、それを実行する機会がすぐにあらわれてくるのである。
目標を持つべし
思いと目標が結びつかなければ価値あることは達成できない。思いと目標が結びつけば大きな創造力が生まれてくる。だから目標を持って毎日を生きなければならない。目標がなければ人生の大海原を漂流し、つまらないことで苦悩したり絶望したりすることになる。
思いを、はかない夢や空しいあこがれや妄想の上に漂わせるのではなく、大きな目標に向かって集中させるべきである。たとえそうしたとしても、弱さが克服されるまでは失敗をくり返すことになるが、そうして身につけた強さは成功の基礎となり、やがて達成できないことは何もなくなる。
目標を手に入れたら、そこにいたるまっすぐな道を心に描き、よそ見をしてはいけない。また恐れや疑いを持ってはならない。恐れや疑いは信念を失わせ、つねに人を失敗へとみちびく。
強さも弱さも、喜びも苦悩も、清らかさも汚れも、環境も、すべて自分の内側からあらわれてくるもの、自分が育てたものであるから、心を高めることによってのみ上昇と克服と達成がある。私たちは常にいるべきところ、成長を遂げるための最適の場所にいる。過去の思いが自分をここに運んできた。そして必要なことを学んだら新たな場所に前進するのである。
どんなに弱い人間であっても、自分の弱さを知り、持続的な鍛錬によってのみ強くなれることを知れば、目標に向かって奮闘努力を開始する。そして努力に努力を重ね、忍耐に忍耐を重ね、強化に強化を重ねて、強い人間になる。目標を必ず達成できるという信念がその原動力である。
気高い夢を見るべし
価値あることを達成するには、身勝手な欲望を捨てなければならない。成功をめざすなら欲望を犠牲にしなければならない。犠牲を払うことなくして進歩も成功もなく、犠牲が大きければ大きいほど成功も大きい。成功できない人は欲望を犠牲にできない人である。
欲望を捨てて美しい思いのみをめぐらし続ける人は、太陽が昇るように、月が満ちるように、気高い人格を形成し、人々の敬意をうける地位にのぼり、大きな影響をおよぼす。心を正しく制御できない人は、重要な責任を果たしたり、影響をおよぼしたりする地位につくことはできない。宇宙は表面的にはどのように見えようと、貪欲な人間、不正直な人間、不道徳な人間、を援助することはない。正義と公平が宇宙の秩序だからである。
だから世俗的あるいは精神的にすばらしい成功をなし遂げた人であっても、身勝手な汚れた思いに身をまかせるなら、たちまち弱さと卑しさのなかに降下する。多くの人が成功を果たした後で、落伍者の群れの中に転落していったことを忘れてはならない。
気高い夢を見るべきである。私たちは夢見た通りの人間になる。夢は現実の苗木、理想は未来の予言、達成された偉大な業績も初めはすべて単なる夢であった。
心を高揚させるもの、心に響く美しいもの、心から愛することのできるもの、それらをしっかりと持ち続けるべきである。そこから喜びに満ちた環境が生まれてくる。心に強く抱きつづけることは、良いことであれ、悪いことであれ、いつか現実になる。思いという原因は、いつか現実という結果になってあらわれてくるのである。
今の環境は自分にとって好ましいものではないかもしれない。しかし理想を抱き、それに向かって歩きはじめるなら、今の状況はけっして長くは続かない。より良い人生を夢見て、理想の未来を心に描き、知識を深め、能力を開発し、力をつけていくなら、より良い環境に進むことができる。そしてつねに努力を怠らないなら、やがて理想を実現することができる。
不注意な人間は表にあらわれた結果だけ見て、陰にかくれた原因を見ようとしない。そのため富を築いた人、知性にあふれた人、すばらしい人格を備えた人を見ると、その成功を幸運とか偶然とかの言葉で片づけてしまう。しかしあらゆる成功は努力の結果であり、成功の大小は努力の大小による。そこに運命や偶然が入る余地はない。
参考文献「原因と結果の法則」ジェームズ・アレン 坂本貢一訳 サンマーク出版 2003年
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