カニシカ王の話

アショカ王と並ぶ仏教の保護者として知られるカニシカ王は、一世紀中頃から三世紀中頃にかけて栄えたクシャーナ王朝(クシャン王朝とも)の王である。インドから中央アジアに及ぶ広大な領土を支配したこの王朝とカニシカ王のお陰で、仏教は中央アジアに爆発的に広まることができたのであり、この王朝がなければ中国や日本にまで伝わることはなかったかもしれない。ということで感謝の気持をこめて、カニシカ王とクシャーナ王朝のことをご紹介したい。

前二世紀の後半、匈奴(きょうど。前三世紀末から約五百年間、モンゴル高原で繁栄した遊牧騎馬民族)に追われて東方から移動してきたイラン系遊牧民族とされる大月氏(だいげっし)が、バクトリアと呼ばれる地域(アフガニスタン北部からウズベキスタン南部にかけての地。アム川中流域)を征服し、領内に五侯を置いた。

その五侯の一人であるクシャーナ族のカドフィセース一世が、他の諸侯を倒してクシャーナ王朝を建て、一世のときすでにガンダーラ地方にまで勢力を拡大し、カドフィセース二世のときには北インドの中部にまで領土を広げた。

そして第三世(四世の説もある)のカニシカ王のときが王朝の最盛期であり、王は都をガンダーラ地方のプルシャプラ(現パキスタンのペシャワール)に移し、そこから大帝国を統治した。そのときクシャーナ王朝の領土は、東はガンジス川中流のパトナ、南はデカン高原、西北はソグディアナ(アム川とシム川に挟まれた地域。ウズベキスタン中央部)にまで及んだが、その影響力はさらに広大な地域に及び、とくに中央アジアの東側方面には大きな影響力を持ち、タリム盆地東端の楼蘭(ろうらん)王国にまで支配が及んだこともあった。

仏教はこうしたクシャーナ王朝の膨張する勢いに乗って、中央アジアを東へ伝わっていったのであった。

ところがそのような大帝国でありながら、クシャーナ王朝に関する文献は極度に少なく、出土したコインなどによって王の名前や勢力圏を推定しているような状態だという。そのためカニシカ王の年代も確定しておらず、西紀七八年の即位説、西紀一四四年から一七三年にかけての在位説、などが本に紹介されていた。

カニシカ王は多くの寺院や仏塔や仏像を作ったと伝えられており、ペシャワールのカニシカ大塔はとくに有名であった。この塔は高さが百メートルを超えるインドでいちばん高い仏塔とされ、遺跡を調査したところ基壇の一辺は八七メートルあったという。そのため法顕伝や大唐西域記にも、塔が建てられた由来などが記されていて、その遺跡も近年まで残っていたが、今は破壊され遺跡のあった場所は宅地になっているという。

なおガンダーラという地名は、狭義にはペシャワール盆地とその周辺を指しているが、広義には東はタキシラ、北はスワトーの谷、西はカイバル峠を越えたアフガニスタンの一部にまで及ぶ広い地域を指している。この広義のガンダーラの範囲というのは、ガンダーラ美術圏の範囲のことではないかと思う。

クシャーナ王朝は、ギリシア文明、ローマ文明、インド文明、中国文明、が交錯する中央アジアに大帝国を建国したことで、商業的にも経済的にも発展し、宗教や文化の交流にも大きな貢献をした。クシャーナ王朝ではゾロアスター教が奉じられていたが、この王朝は他宗教に対しても寛容であり、さまざまな文化を吸収したり融合したりすることにも長けていたのである。

クシャーナ王朝が都を置いたガンダーラの地に仏教が伝わったのは、マウリヤ王朝のアショカ王の時代、西紀前三世紀といわれる。そして前二世紀後半には、この地を治めたギリシア系のメロンドロス王と、インド僧ナーガセーナとの問答を記録した「ミリンダ王の問い」という経が成立しているから、そのときすでに仏教はこの地で大きな影響力をもっていたと考えられる。

クシャーナ王朝時代の西北インドは仏教史の上でとくに重要な場所である。インド全体から見ると辺境というべき地でありながら、ガンダーラは西紀一世紀以降、仏教の一大中心地として繁栄し、とくに部派仏教のひとつ説一切有部が優勢であった。また新たに起こった大乗仏教も栄え、大乗仏典の編集もこの地でおこなわれた。そのため中国の西域求法僧の多くはガンダーラを目ざして旅をしたのであるが、ガンダーラ仏教が衰退した六世紀以降は中インドや南インドを目ざすようになった。

仏教の東アジアへの爆発的な広まりは、仏像に対する信仰がなければあり得なかったという。中国や日本への仏教の伝播は、その教えが受けいれられて広まったというよりも、仏像の伝来とその受容によって広まったという面が強いのであり、仏像誕生後の仏教の伝播には仏像が大きな役割を果たしたのである。キリスト教やイスラム教が偶像崇拝の否定を強調するのは、仏像による仏教の伝播力の大きさに恐れを抱いたのも理由の一つではないかと思う。

ならば仏像は、いつ、どこで、どのように、誕生したのだろうか。仏像誕生の時期ははっきりしていないが、ガンダーラの地で西紀後一世紀ごろに誕生したのではないかといわれる。この地でギリシア・ローマ文化の影響のもとにギリシア風の仏像が作られ、それがインド、中央アジア、中国、日本の美術に大きな影響を与えたガンダーラ仏教美術に発展したというのである。だからガンダーラ仏教美術誕生の最大の要因は、アレキサンダー大王の東征によって伝えられたギリシア文化が、この地にすでに根付いていたことであったといえる。そしてやや遅れてクシャーナ王朝のインドにおける中心都市マトゥラーで、インド様式の仏像が作られたとされる。

クシャーナ王朝はササン朝ペルシアの属国のような状態になって、三世紀の中ごろ滅亡した。ところがローマとの抗争のためにササン朝の東方政策にゆるみが生じたとき、クシャーナ族は国力を回復、バクトリアからガンダーラにいたるキダーラ王朝を建国したが、この国も北東からのエフタルの圧力で五世紀半ばに滅亡、クシャーナ族は歴史から姿を消した。そのエフタルは西紀五一三年に滅亡した。

参考文献
「仏像を読み解く」宮治昭 2016年 春秋社
「文明の十字路。中央アジアの歴史」岩村忍 2007年 講談社学術文庫
「ガンダーラ大唐西域記の旅」高田好胤 1988年 講談社
「三蔵法師のシルクロード」三蔵法師の道研究会 1999年 朝日新聞社
「新シルクロード百科」長澤和俊 平成6年 雄山閣
「バーミヤーン遙かなり」宮治昭 2002年 NHKブックス
「張騫とシルクロード」長澤和俊 2017年 清水書店
「仏教史研究ハンドブック」仏教私学会 2017年 法蔵館

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