お釈迦さまの話

禅の目的は仏祖の悟りを追体験することにある。そのため禅宗でまつられる本尊さまはほとんどが坐禅姿のお釈迦さまである。仏祖はお釈迦さまの名で親しまれているが、シャカというのは実は仏祖が属していた部族の名であり、仏祖の本当の名前はゴータマ・シッダールタという。ゴータマは「最上の牛」、シッダールタは「目的を達した者」を意味しており、ゴータマは釈迦族の姓とされる。

臨済宗では仏祖を釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)と呼んでいる。これは、釈迦族の牟尼(むに。聖者)であるところの仏さま、を意味しており、こうした回りくどい呼び方をするのは、本名を口にするのはおそれ多いとして避けたからだと思う。ただし釈迦牟尼仏では長くて不便なので、文中では釈迦牟尼世尊を省略した釈尊(しゃくそん)がよく用いられる。

それでは釈尊は、いつ、どこで、どのような生涯を送った人なのだろうか。

釈尊が生まれたのは今から二千五百年ほど前、日本では縄文時代の末期にあたる紀元前五世紀から六世紀ごろのことであるが、インドの古代史には不明な点が多く、釈尊の生存年代もはっきりとはしていない。季節の変化の少ない所に住んでいると歴史感覚が発達しにくいといわれ、それがインド人があまり歴史を残さなかった理由とされる。

釈尊が、生まれ、活動し、亡くなったのは、ガンジス川中流域に広がる平野地帯であり、そこには今も釈尊に関係する遺跡が残っていて、それらの位置を地図で確認すると釈尊の活動範囲がおおよそ分かる。その範囲はそれほど広くはなく、それらの遺跡の中で重要な八ヶ所を八大聖地、その中でとくに重要な、降誕(ごうたん)、成道(じょうどう)、初転法輪(しょてんぼうりん)、涅槃(ねはん)、の地を四大聖地と呼んでいる。

また仏教徒にとって大切な記念日である降誕と成道と涅槃の日には、降誕会(ごうたんえ)、成道会、涅槃会の法要がおこなわれており、これらの法要はまとめて三仏会(さんぶつえ)と呼ばれる。ただし東南アジアの仏教国ではこれらはすべて五月の満月の日のでき事とされており、五月の満月の日に三つをまとめたウエサク祭が行われている。なお初転法輪は日も決まっておらず法要もおこなわれていない。なぜ初転法輪を加えて四仏会にしなかったのかと疑問に思う。

     
誕生

釈尊は釈迦族の皇太子として生まれ、父は浄飯王(じょうぼんおう)、母は摩耶夫人(まやぶにん)、と呼ばれている。欧米の仏教徒は女の子が生まれるとマヤという名をよく付けるというが、マヤは釈尊の母の名あり、これはキリスト教徒が女の子にマリアと付けるのと同じ発想である。誕生したのは四月八日とされ、この日には降誕会とか灌仏会(かんぶつえ)、お花祭りと呼ばれる法要がおこなわれている。クリスマスとまでは言わないが、仏祖の誕生日にももっと目を向けて欲しいと思う。

降誕の地ルンビニーは八大聖地のなかで唯一、インド国外に位置しており、インドとの国境に近いネパールのタライ盆地の中にある。地図で見るとルンビニーはヒマラヤ山脈のふもとにあるように見えるが、三六〇度どちらを向いても地平線という場所であり、いまは公園のようにきれいに整備されている。

ルンビニーは釈迦族の居城があったとされる場所から三十キロほど離れた所にある。そのためなぜカピラ城ではなく、ルンビニーで誕生したのかという疑問が出てくる。この疑問に対しては、摩耶夫人が出産のための里帰りでルンビニーまで来たとき急に産気づいたとか、気分転換のため来ていたとか、出産を汚れとする習慣から居城を出てここで出産した、などの説が出されており、この中で有力なのが「里帰りのとき」説である。

ルンビニーの場所は一八九六年にアショカ王が建てた石柱が発見されたことで確定された。石柱というのは建物の柱ではなく、上に動物の像を置いた記念碑の石柱であり、他の聖地にも同様の記念碑が残っている。ここの記念碑には馬の像が置かれていたというが、今は柱の部分しか残っておらず、円形の石柱には以下のことが彫られている。

「神々に愛せられる温容ある王は、即位ののち二十年を経て自らここにきて祭りを行った。ここでブッダ・シャカムニが生まれたもうたからである。そして石の柵を作り石柱を建てさせた。世尊はここで生まれたもうた。ルンビニー村は税金を免除され、生産の八分の一のみを払うものとする」

現在のルンビニーには、インド系とネパール系の両方の人が住んでおり、釈迦族がネパール系の人種だったとすれば、釈尊は日本人とよく似た顔立ちをしていた事になるが、どうやらインド系だったらしい。

     
誕生伝説

つぎに代表的な誕生伝説をいくつかご紹介する。釈尊は兜率天(とそつてん)から白象(びゃくぞう)に乗ってこの世界に下りてきたとされ、摩耶夫人は左わきから白象が入る夢をみて身ごもり、そのとき大地が震動したという。降誕会で子供たちが白い象を引いてまわる行事は、この伝説に由来しており、大地の震動は仏典によく出てくる重大事件の発生を意味する表現形式である。兜率天は次に仏になる菩薩が最後の修行をするところとされ、現在は弥勒(みろく)菩薩がそこで修行中であり、弥勒菩薩が弥勒仏となって降誕するのは五十六憶七千万年後とされる。

釈尊はルンビニー園で摩耶夫人が、無憂樹(むゆうじゅ)の花を手折ろうとして右腕を上げたとき、その右わきから生まれたとされる。つまり左わきから入って受胎し、右わきから生まれたことになる。生まれるとすぐ四方(十方の説もある)へ七歩あるき、右手で天を指さし、左手で地を指さし、天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ、ゆいがどくそん)と宣言したという。

降誕会でお祀りする誕生仏(たんじょうぶつ)はそのときの姿を表しており、「七歩、歩く」のは六道輪廻の世界を超えることを意味する。「天上天下唯我独尊」は「天に地に我ひとり尊し」という意味なので、たいへん傲慢な言葉のように思われるが、これはすべての人が天上天下における唯一の主人公だと宣言したものである。

誕生のとき竜王が天から甘露の雨を降り注いだとされるが、これは産湯に関連する伝説であろう。また降誕会でおこなわれる、花御堂(はなみどう)と呼ばれる小さなあずま屋に花を飾り、その中に誕生仏を安置して甘茶をかける灌仏(かんぶつ)の儀式も、この伝説に由来するかもしれない。

誕生の直後、アシタという仙人がやって来て、釈尊のからだに偉人の持つ三十二の特徴のすべて備わっているのを見て、「この王子は、家にあれば徳によって世界を征服する転輪聖王(てんりんじょうおう)になるであろう。出家すれば世界を救済するブッダになるであろう」と予言したという。

     
出家

生まれて七日後に摩耶夫人が亡くなったため、その妹のマハー・パジャパティーが後妻になり、釈尊はこの叔母に育てられた。後にこの叔母は釈尊のもとで出家して尼僧の第一号となり、世界的に見ても初の女性宗教家だった可能性がある。亡くなった摩耶夫人はブッダになる子供を産んだ功徳で「とう利天」に生まれたという。

十六歳でヤショダラーという絶世の美女と結婚し、ラゴラという男の子が産まれ、後にラゴラも出家して十大弟子のひとりラゴラ尊者になった。

生後すぐに母を亡くしたことが原因か、あるいは生まれつき宗教的な性格だったのか、釈尊は子供の頃からひとりで瞑想にふけることを好み、生老病死に代表される人生の根源的な苦しみを、何とか解決したいという願いを持っていた。そのため二十九歳のとき、真理を求めて出家修行することを決意し、深夜、愛馬カンタカにまたがり、家来のチャンナにたずなを取らせてカピラ城を抜けだした。

そしてチャンナに馬と服を持って帰らせ、その後は、三衣一鉢(さんえいっぱつ)に身を託し、樹下石上(じゅかせきじょう)を住み家とし、托鉢(たくはつ)によって食を得る、沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者として生きたのであった。

妻子を捨て、城と皇太子の身分を捨て、修行にすべてを打ちこむ生活を選んだのであるが、それでは捨てられた家族がかわいそうという意見もある。しかし残された家族が生活に困ることはなく、跡取りができてからこうした生き方をすることは当時のインドでは認められていたという。

     
成道(じょうどう)

出家後、まずアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人について修行の基礎を学び、それから六年間、断食や呼吸停止などの苦行をおこなった。その経験から苦しいばかりの修行をしても得るところは少ないとして、中道を説くことになったという。

パキスタンのラホール博物館に、断食ブッダと呼ばれる有名な苦行の釈尊像がある。断食修行でやせ細った体と、異様な眼の輝きに圧倒される像であるが、まだ成仏する前であるから正確には「断食の菩薩」と呼ぶべきである。

断食をやめたのは修行を始めてから六年後の三十五歳のこととされ、それからブッダガヤを流れる尼連禅河(にれんぜんが)で沐浴し、セーナーニー村の長者の娘スジャータからミルク粥の供養をうけて体力を回復した。スジャータは成道するまえの最後の食べ物を供養した人としてその名が伝わっており、スジャータの屋敷跡という場所も残っている。

それから菩提樹の下に草を敷いて座を作り、禅定に入った。その草はそれ以後、吉祥草(きちじょうそう)と呼ばれるようになった。そして十二月八日の未明、暁(あかつき)の明星を見たとき悟りを開き新たな仏さまが誕生した。ここから仏教の大河が始まるのである。

十二月八日は太平洋戦争開戦の日であるが、戦勝を祈ってこの日に開戦したという説もある。暁の明星は夜明けまえに東の空に出ている金星であり、日没後に西の空に出ているときは宵(よい)の明星と呼ばれる。明星と呼ばれるように金星は非常に明るい星であり、地球から見える星のなかで一番明るいのが太陽、つぎが月、そのつぎが金星である。

仏教徒にとって最も重要な聖地ブッダガヤは、ガンジス川支流の尼連禅河のほとりにある。ブッダガヤの中心には高さ五十二メートルの大塔がそびえており、そのうしろに大きく枝を伸ばして茂る一本の菩提樹がある。その菩提樹の枝の下に置かれた石の柵で囲まれた金剛宝座(こんごうほうざ)が成道の場所である。

釈尊が沐浴をした尼連禅河は、川幅が一キロメートルほどもある大河であるが、私がお参りした一月は乾季のため、川の中ほどに数メートル幅の水が流れていただけであり、もうすぐ水はなくなるという話であった。ところが雨季になると岸からあふれるほどの水が流れ、そこを川イルカが泳ぎ回るという。川の向こう岸には、スジャータの屋敷跡、悟りを開く前に修行した前正覚山(ぜんしょうがくさん)、ウルベーラーの苦行林などがある。

     
初転法輪(しょてんぼうりん)

釈尊は成道後もしばらくは、悟りの体験を味わいながら菩提樹の下にとどまっていた。欲にまみれた人々に、自分が悟ったことを伝えるのは不可能と考えて、初めは布教するつもりはなかったとされるが、苦しみに満ちた迷いの世界で生きる人々の姿を思いうかべることで布教を決意する。智恵の眼とともに慈悲の眼も開けてきたのである。

釈尊はまず鹿野苑(ろくやおん)へ行き、かって一緒に修行をした五人の修行者に法を説き、その五人は聖者の境地に達し、ここに六人からなる教団と呼ぶべきものが成立した。この最初の説法を初転法輪という。

転法輪は法を説くことを意味しており、それから八十歳で亡くなるまでの四十五年間、釈尊は法輪を転じ続けたのであった。釈尊がどんなにすばらしい悟りを開こうと、どんなに偉大な人であろうと、法を説くことがなければ仏教は存在しなかったのだから、これはきわめて重要なでき事である。

釈尊は世界で最初に布教をおこなった人といわれる。当時のインドには他にも多くの聖者がいたが、彼らは自分の子供とか弟子、あるいは国王や大臣といった一部の人にしか法を説かなかった。ところが釈尊は相手の身分やお金のあるなしに関係なく、広く法を説いて回ったのである。

現地でサルナートと呼ばれる鹿野苑は、ヒンズー教の代表的な聖地ベナレスの郊外にあり、今は公園のように整備されていて、ここから出土したライオン像はインドの国標になっている。

     
入滅(にゅうめつ)

釈尊は八十歳になったころ、八大聖地の一つであるラージギルの霊鷲山(りょうじゅせん)を出発し、最後の旅に出た。そしてその旅の途中、クシナガラを流れる跋提河(ばつだいが)西岸の沙羅の木の下で亡くなった。その旅の行程を延長していくとルンビニーに行き着くから、死期を悟って故郷をめざしていたと考えるのが自然である。跋提河はいまは川幅数メートルの小川にすぎないが、昔は大河だったと伝えられている。流れが変わったため小川になったというのである。

クシナガラからルンビニーまでは車で半日ほどの距離であり、学生時代に聖地巡りをしたとき、私はそこをバスやジープやタクシーを乗り継いで一日で移動したが、広大なインドではこれは大した距離ではなく、そのため釈尊は故郷に帰って亡くなったといわれることもある。亡くなったのは満月の日の深夜とされるが、日本では二月十五日に涅槃会の法要がおこなわれている。

釈尊は沙羅の木の下で、頭を北に向け(いわゆる北枕)、右脇を下にして横たわり亡くなった。これだと顔は西を向くことになるから、この姿勢を頭北面西(ずほくめんさい)という。インドでは今でも北枕で寝る習慣があるといわれ、それは神々が住むヒマラヤに足を向けないためだという。

右脇を下にして横たわり、右足の上に左足をかさね、右腕を枕にし、左腕は体の上に伸ばし、口を閉じて正念相続しながら休む姿勢を、ライオンが横たわる姿に見立てて獅子臥(ししが)と呼ぶ。これが修行者の正しい寝方とされるから、あるいは釈尊はいつもこの姿勢で寝ていたのかもしれない。右脇を下にして寝るのは健康に良いといわれ、疲れたときしばらくこの姿勢で横になるのは具合のいいものだが、一晩中この姿勢で寝ることは普通の人にはできない。

死因は鍛冶屋のチュンダが供養した食事による食中毒だったとされるが、鍛冶屋のチュンダの名は、釈尊が完全なる涅槃に入るまえの最後の食べ物を供養した人の名として伝わっている。釈尊は苦痛に耐えながら、獅子臥で禅定に入って安らかに亡くなった。だから入滅のときの状況を描いた涅槃図の中央に横たわる釈尊の姿は、ただ横になっているのではなく、禅定に入っている姿なのである。

涅槃図には人間だけでなくたくさんの生き物が描かれていて、それこそミミズやオケラにいたるまで集まってきて嘆き悲しんでいる。これは釈尊の慈悲が、一切の生きとし生けるものに及んでいたことを表しているのであり、ここに仏教徒が理想とする臨終の姿がある。

釈尊の最後の言葉は「すべては移ろいゆく。汝ら怠らずに努めよ」であった。四十五年にわたる説法の最後は諸行無常と精進の教えであった。死を看取った十大弟子のひとり阿那律(あなりつ)尊者の詩が伝わっている。

「心の安住せる人にはすでに呼吸がなかった。

 欲を離れた聖者はやすらいに達して亡くなられたのである。

 ひるまぬ心をもって苦しみを堪え忍ばれた。

 あたかも灯火が消え失せるように、心が解脱したのである」

     
釈尊の人柄

中村元氏の「ゴータマ・ブッダ」の中に、釈尊の人柄について述べた部分がある。「修行者ゴータマは、親しみある言葉をかたり、喜びをもって人に接し、しかめっ面をせず、顔色はいつも晴れ晴れとしていて、さあ来なさい、よく来たねと、自分の方から先に話しかける人である」

この文の出典は書かれていないが、ここには釈尊の明るく温かい人柄がよく表れている。自分の方から先に話しかけるというのは、謙虚な人柄を示している。「あいつは挨拶もろくにしない」などと文句を言う人もあるが、挨拶は自分からするものである。

仏典に出てくる事をまとめてみると、釈尊は、人付きあいのいい、取っつきやすい、思いやりのある心で教えを説く、淡々とした物静かな態度ですべての人を包容する、という人であった。また些細なことを話すときも、重大なことを話すときも、いつも同じ調子で態度が乱れることなく、声はハッキリと透き通って聞こえたという。心が安定していると落ち着いたよく通る声になるのである。

     
無憂樹(むゆうじゅ)

つぎに釈尊に関係する植物を四種ご紹介したい。無憂樹(むゆうじゅ)、菩提樹(ぼだいじゅ)、沙羅樹(さらじゅ)、の三樹は仏教の三霊樹(さんれいじゅ)と呼ばれており、これらは北インドならどこにでも生えているが、いずれも日本には自生していない。

摩耶夫人が花を手折ろうとしたとき釈尊が生まれたという無憂樹は、高さが八メートルほどになるマメ科の植物で、春の初めにダイダイ色の美しい花を咲かせる北インドの代表的な春告げ花である。

この木はインドでアショーカと呼ばれており、この名には「憂いや悲しみが無い」という意味があるため無憂樹と訳された。無憂王(むゆうおう)と訳されるアショカ王の名も同じ言葉である。

     
菩提樹(ぼだいじゅ)

菩提樹は仏教を象徴する樹木であるが、日本で菩提樹と呼ばれる木はじつは本物の菩提樹ではない。中国には菩提樹が存在せず、そのため中国人は葉の形が似ている別の木に菩提樹の名を付け、それを輸入した日本でもその木を菩提樹と呼ぶようになってしまったのである。

図鑑によると菩提樹の名を持つ木は、中国原産のシナノキ科シナノキ属の落葉高木であり、十五メートルの高さに成長し寺院によく植えられるとある。その仲間のオオバボダイジュ(大葉菩提樹)やノジリボダイジュ(野尻菩提樹?)は日本にも自生している。

名前をほかの植物に使われてしまったため、本物の菩提樹はインド菩提樹が正式名になっている。インド菩提樹はクワ科イチジク属の常緑高木であり、日本には自生せず、育てるのも難しいようである。タイを旅行したとき、インド菩提樹の小さな木が宿の庭に生えていたので、持ち帰って庭に植えたことがある。ところが常緑樹のはずなのに寒くなると落葉したので、温室に入れて何度か越冬させ、ある程度大きくしてからまた屋外に植えなおしたが、結局、屋外では育たなかった。

     
沙羅樹(さらじゅ)

お寺でよく見かける沙羅の木は、椿の仲間でありながら初夏に白い花をつける変わり者で、正式名をナツツバキといい、低山に自生しているのをよく見かける。私もナツツバキを植えて育てているが、これも本物の沙羅樹ではない。本物の沙羅樹は図鑑によると、「インド原産のフタバガキ科の常緑高木、淡黄色の小さな花をつける。材は固く建築用材などにする」とあるが、フタバガキ科の植物は日本には自生していないようであり、沙羅樹も日本で育てるのは難しいようである。

それではなぜナツツバキを沙羅の木と呼ぶようになったのだろうか。これは私の推測であるが、釈尊が亡くなったとき、「沙羅樹が季節でないのに花開き、降りそそいだ」とお経にあるのが、その理由ではないかと思う。この記述から椿としては季節はずれの初夏に咲き、その日のうちに降るように落花するナツツバキを、沙羅の木と呼ぶようになったのではないかということである。なお平家物語の「沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす」もこの記述に由来している。

沙羅双樹の双樹については二つの説がある。一つは釈尊が亡くなった場所の東西南北に二本ずつ、全部で八本の沙羅樹があったとする説で、釈尊が亡くなるとこれら四組の双樹が、鶴のように真っ白になって釈尊の体を覆ったといわれ、そのためこれらの沙羅樹を鶴林(かくりん)と呼ぶようになったという。日本の涅槃図に描かれているのはこの光景であるから、日本ではこの説が一般的なのだろう。

もう一つは南方仏教の説である。南方仏教で読まれる涅槃経(ねはんぎょう)を翻訳した中村元訳「岩波文庫、ブッダ最後の旅」にはこう書かれている。

クシナガラに到着したとき、釈尊は侍者のアーナンダ(阿難尊者)に言われた。「さあ、アーナンダよ。私のために二本並んだサーラ樹(沙羅樹)の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ、私は疲れた。横になりたい」。つまりこの経では、沙羅双樹は二本の沙羅樹を意味している。

クシナガラを旅したとき、釈尊入滅の地に建つビルマの寺に泊めてもらったことがある。そのときビルマ人の若い比丘が境内を案内してくれたが、彼が「これが沙羅の木だ」と指さして教えてくれたのは、少し間隔をあけて立つ二本の沙羅樹であった。

     
吉祥草(きちじょうそう)

成道のときに敷いた吉祥草は、イネ科に属する茅(かや。ススキ、チガヤ、スゲなどの総称)の類の南方系の植物であり、これも日本には自生していない。インドではこの草を編んでムシロを作るというが、成道に関係する草のせいか、吉祥草で編んだムシロには多くの功徳があるとされ、これを敷いていると災いが生じず、毒虫も寄って来ないという。

また吉祥草は香りが良くて清潔だが、両刃の剣のようによく切れ、居眠りなどをしてうっかり肌が触れると傷ついてしまうので、この草を敷いていると放逸にふける事ができず、そのため修行者が用いるべき植物とされているという。ススキの葉で私は何度も手を切ったことがあるから、吉祥草の葉はススキによく似ているのだろう。

参考文献
「中村元選集第11巻 ゴータマ・ブッダ」 昭和44年春秋社
「ブッダ最後の旅」 中村元 昭和55年岩波文庫

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