天界の話
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天、という六つの世界を衆生は輪廻するといわれている。そして布施をおこない五戒を守るものは天に生まれ、慈悲喜捨の四無量心を修するものは大梵天に生まれるという。また釈尊のお母さんの摩耶夫人(まやぶにん)は、仏となる子供を産んだ功徳で「とう利天」に生まれたという。弥勒菩薩は現在、兜率天(とそつてん)で修行中だという。天の世界のいちばん上にあるのが有頂天(うちょうてん)だという。
このように天という言葉は仏典にしばしば登場するが、天というのはどのような世界なのか。それはどこにあるのか。いくつあるのか。そこにはどのような神が住むのか。
インド古来の宗教であるバラモン教(これが民衆化したものがヒンズー教)には、多くの神々が存在し、その多くは自然現象を神格化した神々である。仏典に登場する神々の多くは、そうした神々を仏教守護の神として取り入れたもので、取り入れた時期には二つの山がある。それは仏教が誕生したときと、密教が成立したとき。
ただしそうした神々は、仏教では比較的低級な存在として扱われている。そのことは、それらの神々が住む天界の上に、仏道修行で到達する境地に対応した仏教独自の天界がおかれていることからも分かる。
倶舎論(くしゃろん)によると天界は二七天からなり、欲界の六天、色界の十七天、無色界の四天、に大別され、上位の天ほど高いところにあって、その世界は広く、住むものの体は大きく、寿命も長い。ただし無色界は物質を超越した世界なので広さや大きさはなく寿命だけがある。
以下に天界を下から順に説明するが、天という言葉は場所と神の両方の意味で使われているから注意を要する。つまり帝釈天という言葉は、神の名前でもあり、その神が住む天の名前でもある。
六欲天(ろくよくてん)
これはまだ欲を離れていない神々が住む六つの天界。そして六欲天最下の二つの天界の神々は、須弥山(しゅみせん)山上の地上に住むため地居天(じごてん)と呼ばれ、それより上の天界の神々は、空中に懸かる天宮に住むため空居天(くうごてん)と呼ばれる。つまり空居天はまさに架空の世界の神々。
欲があるとはいえ六欲天の神々の欲は人間より小さく、六欲天における性行為は、地居天では精をもらさずに根を交え、夜摩天ではただ抱きあい、兜率天ではただ手をとりあい、楽変化天ではただ笑みを交わし、化他自在天ではただ相見るのみという。
一、四大王衆天(しだいおうしゅてん)。須弥山の中腹にある天界。四天王とその眷属が住む。須弥山の東側に持国天(じこくてん)、南に増長天(ぞうじょうてん)、西に広目天(こうもくてん)、北に多聞天(たもんてん。毘沙門天とも)が住み、その下方に配下の夜叉などが住む。なお禅宗寺院の庫裏にまつられる韋駄天(いだてん)さまは、増長天の八将の一人、また四天王三十二将の主将とされ、その本籍はシバ神の子スカンダ。トイレでまつられる烏芻沙摩明王(うすさまみょうおう。火頭金剛とも)の本籍は火の神アグニ。
二、三十三天(さんじゅうさんてん)。須弥山の頂上にある天界。帝釈天を首長とするインド古来の三三種の神々が住む。とう利天(とうりてん。とう:立心偏に刀)とも呼ばれる。頂上の四方に峰があり、その峰ごとに八天あって全部で三二天、中央の帝釈天を加えて三三天となる。帝釈天の本籍は雷を神格化したインド古来の神インドラ。阿修羅と戦ってこれを下した神、万民の善行を喜び悪行をこらしめる神、とされる。善見城(喜見城)に住む。
三、夜摩天(やまてん)。焔摩天(えんまてん)、あるいは炎摩天(えんまてん)ともいう。
四、兜率天(とそつてん)。と史多天(としたてん。と:者の右に見)ともいう。兜率は知足、喜足、妙足と意訳される。私たちが住む世界に仏さまが下生(げしょう)する前に滞在する場所として知られ、今は弥勒菩薩がここで修行中。弥勒菩薩は釈尊滅後五六億七千万年後に弥勒仏として私たちの世界に下生するが、それまで待っておれないと、弥勒菩薩がおられる兜率天へ、自分の方から生まれ変わることを目的とする信仰もある。これを上生(じょうしょう)信仰という。
五、楽変化天(らくへんげてん)。ここでは神々が自ら望むものを作りだして自ら楽しむという。
六、化他自在天(けたじざいてん)。第六天ともいい、ここでは他の神々が作りだしたものも自在に楽しむことができるという。天魔・波旬(はじゅん)はここに住む。
色界十七天(しきかいじゅうしちてん)
色界は諸欲を超えた世界。ただしまだ物質的な要素が残っている。色界は静慮(じょうりょ。禅定)の深さによって十七の天界に分けられ、その十七天は禅定の深さによって以下の四段階に分類される。
最下の初禅天は、初静慮(初禅)の段階のものが到達できる三つの天。その上の二禅天は、第二静慮(二禅)のものが到達できる三つの天。その上の三禅天は、第三静慮(三禅)のものが到達できる三つの天。最後の四禅天(しぜんてん)は、第四静慮(四禅)のものが到達できる残りの八天。なお色界十七天の全体を四禅天と呼ぶこともある。
そして初禅は欲と悪を離れた喜と楽の離生喜楽(りしょうきらく)の境地、二禅はあれこれと分別する心を離れた、禅定から生ずる喜と楽の定生喜楽(じょうしょうきらく)の境地、三禅は喜を離れた正知と楽の離喜妙楽(りきみょうらく)の境地、四禅は苦も楽も離れた清浄なる非苦非楽の境地、とされる。
一、梵衆天(ぼんしゅてん)。梵天の配下が住むところ。ここから三つが初禅天。
二、梵輔天(ぼんほてん)。梵天を補佐する神が住むところ。
三、大梵天(だいぼんてん)。初禅天の王である梵天(大梵天王)が住むところ。梵天は宇宙の根本原理ブラフマンを神格化した神。仏に法輪を転ずることを勧める梵天勧請(ぼんてんかんじょう)の話で知られる。四無量心を修するものはここに生まれる。
四、少光天(しょうこうてん)。二禅天の中では光明の少ないところ。ここから三つが二禅天。
五、無量光天(むりょうこうてん)。無量の光明に満ちたところ。
六、極光浄天(ごくこうじょうてん)。清らかな光明にあふれたところ。
七、少浄天(しょうじょうてん)。三禅天の中でいちばん浄の少ないところ。浄は精神的な快楽をいう。ここから三つが三禅天。
八、無量浄天(むりょうじょうてん)。無量の浄に満ちたところ。
九、遍浄天(へんじょうてん)。浄があまねくゆき渡っているところ。
十、無雲天(むうんてん)。この天から上では神々が雲が密集するようにひしめくことがない、としてこの名がある。ここから八つが四禅天。
十一、福生天(ふくしょうてん)。すぐれた福(功徳)を作った凡夫が生まれるところ。
十二、広果天(こうかてん)。凡夫が果報としていたる最高のところ。
無想天(むそうてん)。ここに無想天をいれて色界十八天とする説もある。
十三、無煩天(むぼんてん)。無欲の聖者が煩悩の垢をすすぐところ。
十四、無熱天(むねつてん)。熱悩を離れているところ。
十五、善現天(ぜんげんてん)。禅定の徳が現れてくるところ。
十六、善見天(ぜんけんてん)。見る働きの清らかなところ。
十七、色究竟天(しきくきょうてん)。物質界における最上のところ。法華経ではここを有頂天とする。
無色界四天(むしきかいしてん)
無色界は欲も物質的な束縛も超えた精神的要素のみの世界。無色界の四天も禅定の深さの順に並んでおり、無色界の四つの禅定を四無色定(四定)という。そして色界の四禅と無色界の四定を一まとめに四禅八定と呼び、それに滅尽定(めつじんじょう)を加えたものを九次第定(くしだいじょう)と呼ぶ。
一、空無辺処天(くうむへんしょてん)。欲と物質的な束縛を超越した、一切の作為のない無限の虚空を観ずる空無辺処定を体得したものが住むところ。無色界には空間的な場所は存在しないが区別のために処と名づける。
二、識無辺処天(しきむへんしょてん)。外なる虚空の相を超越し、内なる心識(認識作用)の無限を観ずる識無辺処定を体得したものが住むところ。
三、無所有処天(むしょうしょてん)。何ものも存在しないと観ずる無所有処定を体得したものが住むところ。
四、非想非非想処天(ひそうひひそうしょてん)。想(表象)があるのでもなく、ないのでもないという、非想非非想処定を体得したものが住むところ。色界のような粗想の煩悩がないから非想といい、細想の煩悩がないわけでもないから非非想というとされる。ここが三界の最高所すなわち有頂天。外道はここを涅槃の境とするが、仏教ではまだ生死の境であるとし、この上に、声聞、縁覚、菩薩、仏、という四つの聖者の位をおく。
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