ジャータカ物語五六
これは師が祇園精舎に滞在されたとき、女の誘惑に関連して語ったことである。舎衛城のある良家の息子が、「家庭生活をしていては修行ができない。出家して苦しみを終わらせよう」と考えて、財産を妻と息子に分け与えて出家した。
ところが新参者であるし、ほかに修行者がたくさんいることもあって、托鉢をしても充分な食べ物をもらうことができなかったので、しかたなく元の家へ行くと、鉢を受けとった妻が中身を捨てて上等な食べ物を入れてくれた。そんなことをくり返していたので、彼は妻を忘れることができなかった。
ところがある日、妻が言った。「尊者よ。あなたは完全な悟りを開いて下さい。私は夫のいない家にいつまでも居ることはできないので、ほかへ行きます」
驚いた修行者が言った。「頼むから行かないでくれ。私は還俗する。すぐに鉢と衣を返してもどってくる」。そして規範師と親教師に鉢と衣を返しに行くと、二人が彼にきいた。
「なぜ返すのか」
「私は妻を捨てることができないので還俗します」
そこで二人は世尊のもとに修行者を連れて行った。世尊がたずねた。
「どうして嫌がる者を連れてきたのか」
「尊師よ。この者は女のために還俗すると言っています」
「それは本当か」
「本当です。世尊」
「相手は誰か」
「もとの妻です」
「その婦人はそなたに不利益をもたらす者である。過去にもそなたはその婦人のために、四つの禅定を失い大きな苦しみを受けたことがある」。そう言って世尊は過去の話をされた。
昔バラナシでブラフマダッタ王が国を治めていたとき、菩薩はカーシ国のあるバラモンの家に生まれ、成長するとタキシラであらゆる学問を修めたが、欲を捨てて出家して仙人になり、修行をして禅定と神通力を身につけ、数千人の修行者の師となった。その弟子のの中のひとりナーラダという修行者が、ある日、美しい女が川で沐浴をしているのを見て心を奪われ、禅定と気力を失って食事もとらずに七日間寝ているということがあった。仙人がナーラダにきいた。
「ナーラダよ。そなたは情欲に支配されているのか」
「そうです。先生」
「ナーラダよ。情欲に支配された者は、禅定と神通力を失って多くの苦しみを受け、来世は地獄に落ちる」。そう言って仙人は詩をとなえた。
「情欲のために
気力を失った者は
この世では禅定と神通を失い
来世は天と人の世界から去って行く」
ナーラダが言った。「先生。欲に親しむことは楽しみです。どうして苦しみだなどと言われるのですか」
仙人はまた詩をとなえた。
「楽のあとには苦がある
苦のあとには楽がある
目先の楽よりも
無上の楽を求めよ」
さらに仙人は、「ナーラダよ。欲によって生じた苦しみは耐え忍ばねばならぬ」、そう言って詩をとなえた。
「苦しみに耐えて
逃げない者は
苦を終わらせて
禅定の楽を得る」
するとまたナーラガが言った。
「先生。欲の楽しみは最高です。私は捨てることができません」
「いかなる理由があっても法は守らなければならぬ」。そう言って仙人はまた詩をとなえた。
「欲に支配にされ
無益な目先の楽しみのために
安楽へと導いてくれる正法を
捨ててはならぬ」
(以下略)
出典「ジャータカ全集一〜十。中村元監修。春秋社。一九八四年」第四二三話
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