ジャータカ物語五五
これは師が祇園精舎に滞在されたとき、盗みの罪に関連して語った話である。コーサラ国の森に住むある修行者が、蓮池のそばで流れてくる花の香りをかいでいると、森の女神があらわれて言った。「尊者よ。あなたは盗みの罪を犯しています。あなたは香り盗人(ぬすびと)です」
驚いた修行者は、本当にこれが盗みの罪になるのか世尊にたずねようと、祇園精舎にやって来た。世尊が修行者にたずねた。「修行者よ。なぜ急にやって来たのか」
「私が蓮池のそばで香りをかいでいると、森の女神があらわれて私を香り盗人だと言うのです。本当に盗みの罪になるのか知りたくてやって来ました」
「修行者よ。女神に香り盗人と言われて驚かされたのはそなただけではない。昔の賢者もそうであった」。そう言って世尊は過去の話をされた。
昔バラナシでブラフマダッタ王が国を治めていたとき、菩薩はカーシ国のあるバラモンの家に生まれ、成長するとタキシラの町であらゆる学問を学んだが、やがて欲を捨てて出家し、森に住む仙人になった。ある日、仙人が蓮池のほとりにたたずんで流れてくる香りをかいでいると、森の女神があらわれて詩をとなえた。
「友よ。与えられてもいない
花の香りをかぐことは
花の香りを盗むこと
あなたは香り盗人です」
仙人も詩をとなえた。
「傷つけることも、持ち去ることもなく
流れてくる香りをただかいでいるだけ
それなのになぜ
盗人だというのか」
そのとき一人の男がその池で蓮根を掘っていた。菩薩はそれを見て言った。「私を盗人だと言うなら、なぜあの男には何も言わないのか」
女神がまた詩をとなえた。
「汚れが染みついた
恥じる心のない人に
言うべき言葉はすでにない
まだ汚れのない人に私は忠告する」
仙人はそれを聞いてよろこび、詩をとなえた。
「女神よ。憐れみの心から
そなたは忠告してくれた
私が罪を犯すことがあれば
また忠告してほしい」
女神が詩でこたえた。
「私は尊者に仕える身ではない
ともに生きる者でもない
自ら反省し自覚せよ
そして至福の道を行くがよい」
そう言って女神は姿を消し、仙人はやがて梵天の世界に生まれ変わって行った。最後に世尊が言われた。「そのときの女神はウッパラバンナーであり、仙人は実にわたくしであった」
出典「ジャータカ全集一〜十。中村元監修。春秋社。一九八四年」第三九二話
もどる