三蔵法師の話

中国の四大奇書のひとつに西遊記(さいゆうき)という書物がある。三蔵法師(さんぞうほうし)と呼ばれる僧が、仏教を学ぶためにインドへ行くことを決意し、その旅のお供に孫悟空たちを連れていくという物語である。

この物語は実在の人物、玄奘(げんじょう)三蔵のインド旅行が素材になっている。玄奘三蔵は「玄奘という名の三蔵法師」を意味しており、三蔵法師は仏教文献に精通した人にたいする尊称である。

仏教文献は「お経」と「戒律」と「論と呼ばれる仏教哲学」の三種に分類されていて、それぞれが蔵を一杯にするほどたくさん文献があることから、経蔵、律蔵、論蔵、と呼ばれており、その全体は「経律論の三蔵」と呼ばれる。その三蔵のすべてを学び尽くした人が三蔵法師さまであるから、この尊称で呼ばれる人はほかにもいる。

玄奘三蔵のインド旅行は、唐王朝が建国されたばかりの七世紀前半におこなわれ、旅の第一目的地は北インドのナーランダ寺であった。今も広大な遺跡が残るナーランダ寺は、五世紀に作られ、それから千年ものあいだインド仏教の中心として栄えた寺である。当時この寺は、ここへ来ればすべての仏教宗派の教えが学べるという総合大学になっていたのであり、彼はここに五年間滞在した。

西暦六四五年に玄奘三蔵は多くの文献をたずさえて帰国した。修行と巡礼の旅は十七年におよび、出発したときは国禁をおかしての密出国であったが、帰国したときは国をあげての大歓迎を受け、王朝の庇護のもと大がかりな翻訳活動を開始し、般若心経をはじめとする一二三五巻の経典を翻訳した。とくに晩年に翻訳した大般若経は、数ある仏典のなかでも桁はずれの全六百巻、字数五百万字という長大なお経である。

そして彼が翻訳した仏典をもとに、法相宗(ほっそうしゅう)や倶舎宗(くしゃしゅう)が成立した。奈良の薬師寺や京都の清水寺はその法相宗に属する寺であり、倶舎宗の教義は今は法相宗の中に含まれている。ところが玄奘三蔵の旅行から七百年後の十三世紀に、仏教は生まれ故郷のインドから消滅することになる。

     
旅のお供

三蔵法師のお供の筆頭は猿の孫悟空である。般若心経に「色即是空、空即是色」とあるように、空は大乗仏教の中心になる教えであるから、空を悟る猿をまずお供に加えたのである。

そのつぎが浄を悟るという沙悟浄(さ・ごじょう)で、やはり般若心経に不垢不浄(ふくふじょう)と浄の字が出てくる。沙悟浄は日本の映画ではカッパのような姿をしているが、揚子江のイルカが素材ではないかといわれる。

最後の猪八戒(ちょ・はっかい)は名前からイノシシだと分かる。八戒という言葉は般若心経に出てこないが、これは八つの戒を意味している。釈尊は在家の人に対しては、「殺すなかれ。盗むなかれ。浮気するなかれ。うそをつくなかれ。お酒を飲むなかれ」の五戒を守ることをすすめ、さらに月に六日間は「身を飾ることをせず歌舞を見にいかない。ぜいたくな寝台で寝ない。昼を過ぎたら食事をしない」の三つを足した八戒を守ることをすすめた。つまり八戒は在家者のための戒である。

八戒をお供に連れて行った理由は、日本の三蔵法師といわれた河口慧海師の旅行記を読むとよく分かる。彼は明治時代に、チベット仏教を研究するため単身チベットに密入国し、首都ラサの寺で仏教を学び、多くの貴重な経典を持ちかえるという快挙をなしとげた人である。

当時のチベットは、自然環境のきわめて厳しい、道がまったく整備されていない、いたる所に盗賊が出没する、という危険きわまりない国であり、そのうえ鎖国をしていたので日本人であることが役人にばれると殺される恐れがあった。そういう国をたった一人で、しかも徒歩で旅したのである。その危険な旅が成功した理由の一つは、彼が戒をきびしく守ったことにあった。

彼は体力を消耗する標高五千メートルをこえる高地を旅するときも、「昼を過ぎたら食事をしてはならない」という非時食戒(ひじじきかい)を守っていた。そのためチベット人から非常に尊敬され、それが災難を未然に防いだり、窮地から救われることにつながったのであった。だから戒を守ることは旅の最高の道づれなのである。

     
旅の苦労

私は学生時代にインドとその周辺国を半年ほどかけて旅行したことがある。そのとき玄奘三蔵の足跡をたどって、アフガニスタンのヒンズークッシュ山脈の中にある有名な仏教遺跡、バーミアンの遺跡まで足をのばした。玄奘三蔵は往路でここに立ち寄っている。中国からインドへ行くには、ヒンズークッシュ山脈、カラコルム山脈、ヒマラヤ山脈、のどれかを越えねばならなかったのである。

ヒンズークッシュ山脈はヒマラヤ山脈から続く巨大山脈であり、木のほとんど生えていない荒涼とした岩ばかりの山脈である。その山を見ていたら、「山高きが故に尊からず。木が生えていればこそ尊い」という言葉を思い出した。日本のように山に木がたくさん生えていれば、人々の暮らしももっと良くなると思ったのである。

アフガニスタンでは暑さに苦しめられたと思うかもしれないが、冬のことなので寒さにこごえながらの旅だった。手前にある峠の雪がもう少し深かったら、バーミアンにはたどり着けなかった。インドで道づれになった日本人は、雪のためにこの峠が通過できずバスが引き返し、三度目にやっとバーミアンにたどり着いたと言っていた。しかもバス代は返してくれなかったとか。ここは夏の暑さも厳しいと思う。

自然環境が厳しいだけに住む人の性格も厳しい。インド人は口は出しても手はあまり出さないが、アフガン人はすぐに手を出すから彼らとはケンカをするなと言われている。十歳ぐらいの子供が鉄砲をかついで歩いていたり、小さな子供に父親が鉄砲の打ち方を教えているのを見たことがあるから、アフガン人は子供の頃から手ごわいのである。だから旅行者が行方不明になったというような話がよく話題になった。食べ物も悪くパキスタンやアフガニスタンでは一度も米を食べられなかった。このあたりでは肉食が主であるから私と同様、玄奘三蔵も食べ物で困ったと思う。

私はもちろん列車やバスを利用しての旅だったが、それでも体力的にきつかった。玄奘三蔵は徒歩による移動だから、旅の苦労は私とは比較にならないほど大きかったはずである。しかも彼が旅をした千三百年前は、治安、道路、宿、食べ物、どれをとっても今より格段に悪く、そのため多くの求道者が殺されたり、事故や病気で命を落としているのである。もちろん危険なのはアフガンだけではない。

仏教はこうした道を通ってインドから、中央アジア、中国、そして海を渡って日本へ伝えられたのであり、私たちが手にする経本は血と汗の結晶なのである。経本を汚れた手で持ったり、畳の上にじかに置いてはいけないというのは、こうしたことも理由の一つである。

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