ジャータカ物語三五
これは師が祇園精舎に滞在されたとき、一人の女性に関連して語ったことである。舎衛城に住むある信者の家に美しい娘がいた。彼女は年ごろになったとき同じ階級の家に嫁いだが、夫は妻に関心を示さず別の女のところに通っていた。
ところが彼女は夫の無関心を気にせず、仏弟子を招いて教えをきくことに励み、やがて聖者の最初の境地に達した。そして道の喜びと果報の喜びにひたって日を送っていたが、「夫が私を望まないなら家庭生活をしている理由はない。私は出家したい」と考えて、父母の許しを得て出家し、ついに聖者の最高の境地に達した。
ある日、修行者たちが、美しい女が生きがいを求めて出家し、ついに聖者の最高の境地に達した、と話しているところに世尊がやって来た。
「修行者たちよ。ここで何の話をしているのか」
「これこれのことです」
「修行者たちよ。彼女が生きがいを求めて出家したのは今だけのことではない」。そう言って世尊は過去の話をされた。
昔バラナシでブラフマダッタ王が国を治めていたとき、菩薩は出家して仙人の生活に入り、神通と禅定を得てヒマラヤ地方に住んでいた。そのときバラナシ国で、王子に対して恐れをいだいた国王が、ブラフマダッタ王子とその妃のアシターブーを国外に追放するということが起こり、王子と妃はヒマラヤ山中の木の葉でふいた小屋で暮らすようになった。
ところがある日、王子は、ヒマラヤに住むキンナラという天女に心を奪われ、その後を追いかけて行った。そこでアシターブーは考えた。「王子はキンナラに心を奪われ、私には関心がない。ならば私も王子に何の用があるだろう」。こうして王子に対する執着を捨てた妃は、仙人のところへ行き、礼拝して教えを請い、カシナ瞑想を実践して神通と禅定を得た。
一方、天女を追いかけていった王子は、天女を得られず落胆して小屋に帰ってきた。それを見たアシターブーは空中に浮遊して言った。「あなたのおかげで私は禅定の喜びを得ることができました」。そしてさらに詩をとなえた。
「あなたに対する愛はなくなりました
のこぎりで切られた象牙のように
二度と結びつくことはありません
これはあなたがなさったことです」
そう言って上昇し見えなくなった。王子も泣きながら詩をとなえた。
「欲に目がくらんで
人は大事なものを失う
私がアシターブーを失ったように」
こうして王子は一人で森の中に住んでいたが、父王が亡くなると王位につくことができた。最後に世尊が言われた。「そのときの王子と妃は今の二人であり、苦行者は実にわたくしであった」
出典「ジャータカ全集一〜十。中村元監修。春秋社。一九八四年」第二三四話
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