臨死体験の話

臨死体験というのは事故や病気のために仮死状態になった人が、死後の世界とおぼしき光景をかいま見るといった体験のことである。たとえば体から離脱して自分が横たわっている姿を上から見下ろすとか、暗い洞窟をぬけて光の世界に入っていくとか、かって味わったことのない至福の恍惚感を味わうとか、すでに亡くなった人や自分を見守ってくれている霊的な存在に会うとか、美しい花園に遊ぶとか、この世とあの世の境にある三途の川を見る、などの体験である。

そして自分がまだ死ぬ時ではないと告げられてこの世にもどり、意識を取りもどすという結末になることが多く、アメリカでの調査によるとこうした体験は、普通に考えられているよりも、はるかに多くの人が体験しているという。この体験を立花隆氏は、様々な角度からを調べあげて、「臨死体験」という上下二冊の本にまとめているので、主にこの本をもとにして臨死体験のことを説明したい。

まず最初に例を一つ。これはペニシリンの副作用で危うく死にかけた前東大医学部教授、豊倉康夫氏の体験である。

「いま意識を失ったらこのまま死んでしまう。なんとしても頑張らなくては駄目だと自分に言い聞かせながら、それはもう死の恐怖にたいする必死の格闘であった。ついに刀おれ矢つき、ああこれで我が一生は終わる。それにしても短い一生だったなと一瞬おもった。それから先が問題である!

だらかな坂を下るように、地面に吸い込まれるように意識がなくなったのだが、問題はその短いあいだに味わった何ともいえない恍惚感のことだ。まず頭に浮かんだのはお茶の水の聖橋のあたりの光景、結婚後まもなかった河田町のせまい借家の様子、そのあとは、ただ極楽の花園をさまよい、天上の光を浴びるといったような恍惚の境地だけである。

もはや呼吸停止の苦しみも死の恐怖も一切感ずることはなかった。もし死んでいれば伝えることのできなかった不思議な体験である。倒れてからここまでの時間がどれほどであったのか、その記憶も実感もまったくない」

     
臨死体験とは何か

私たちは最後の最後まで苦痛と恐怖におそわれながら死を迎えるのかというと、そうでもないらしい。臨死体験の内容から判断すると、実際にはある地点を通過すると苦痛はなくなり、かって体験したことのない快さや、満ち足りた安らぎを感ずるようになる、と考えていいようである。人によっては、神々しい光にあふれた、筆舌に尽くしがたいほど美しい、永遠の真理に満ちた世界に遊ぶ、という体験をすることがあり、それこそが死後の世界にまちがいないと断言する人もある。だから体験者のほとんどはこの世に戻りたくなかったと言っている。

そのため臨死体験をした人は死を恐れなくなる。それは必ずしもあの世の存在を信じるようになったからではなく、臨死体験は幻覚だと思っている人でも死を恐れなくなるという。死は苦痛と恐怖に充ちたものではないということを、自らの体験ではっきりと知ることができたからであり、だから来世を信じている人が体験した場合には、完全に死の恐怖から解放されるという。

そうした影響は研究者にまで及び、立花隆氏もその一人であるが、体験者の話を聞いているうちに死ぬのが恐くなくなったという人が少なからずいる。中には自分はどのような体験をするかと、死ぬのを楽しみにしているという人もいる。

ただし不安や恐怖を体験する人も極めて少数存在するが、そのほとんどは浅い臨死体験の人だという。人が亡くなるときの表情を調査した記録によると、七割以上の人が安らかな表情で亡くなっており、苦痛がつづく末期ガンでもこの値はほとんど変わらず、苦しみの表情で死ぬ人は一割程度という。

それでは臨死体験はなぜおきるのだろうか。臨死体験がおきる理由としては、死後の世界を見てきたという説と、断末魔における幻覚説の二つがあり、立花隆氏は幻覚説に傾いているがどちらとも結論は下していない。どちらからでも説明できるし、どちらにしても矛盾は残るというのである。

ただし最近の研究によると、人間の脳には臨死体験をする機能が備わっており、それが脳のどの部分にあるのかも特定されつつあるという。つまり死ぬときには脳に組みこまれた臨死体験の機能がはたらき、苦痛や恐怖から解放された安らかな死を迎えられるようになっているというのである。

立花隆氏は人が死を恐れる理由を三つあげている。それは、断末魔の苦痛に対する恐怖、自分という存在が無くなることに対する恐怖、死後の世界に対する恐怖、の三つである。人は未知のことや初めてのことには恐怖心を抱くものであり、一人旅をするのでも初めてのときはかなり不安を感じるのだから、未知の死の世界へ旅立つとき恐怖心を抱くのは当然であるが、臨死体験にはこれら三つの恐怖心すべてを解決する力があるという。

     
臨死体験の事後効果

それでは臨死体験をした人は、死ぬことにあこがれを持つようになるのかというと、決してそうではなく、反対にほとんどの人は生きることに対して積極的になるという。それは死の過程を体験し死を理解することで、生の本質が見えてくるからであり、私たちは死を恐れなくなったとき生の本当の意味が理解できるという。

私たちは生きることに慣れすぎていて、自分がいつか死ぬことを頭では分かっていても実感できなくなっている。しかし臨死体験をすると、命には限りがあること、遠からず死が必ずおとずれることを切実に感じるようになる。そして自分は本当は何をやりたいのか、何をやらねばならないのか、何がいちばん大切か、といったことを真剣に考えるようになり、生きている間にできるだけ多くのことを知りたい、多くのことを体験したい、多くの人と会いたい、という積極的な人生観を持つようになるという。

臨死体験をした八一歳の老人が猛烈な知識欲に目覚め、大学に入って博士号をとった例もあるというから、臨死体験は植物のタネのような力を持っているらしい。地に落ちたタネが芽を出して大きく成長するように、臨死体験も時間とともに成長していくのである。

ただし臨死体験の事後効果は、たんに死を実感することで起こった人生観の変化とはいえないという。死にかけた人は世の中にたくさんいるが、死にかけても臨死体験をしなければ大きな影響はあらわれないからである。また自殺をはかって失敗した人は、二度三度と自殺をくり返すことが多いが、そのとき臨死体験をした人は二度と自殺をくり返すことがなく、その後の人生観や宗教観にも大きな影響が見られる。また臨死体験の話をきかせるだけでも自殺予防の効果があるという。夢と臨死体験との違いは、夢はすぐに忘れるが臨死体験は決して忘れないことである。

臨死体験をしたことで人生観が激変したという人は多く、しかもみんないい方向に変化している。つまり物質的なものよりも精神的なものを求めるようになり、お金や物よりも心を大切にするようになり、他人への愛情にめざめ、利己的な生き方を改めるようになるのである。

さらには頭が良くなるとともに感覚も鋭くなり、他人の思惑が気にならなくなって毎日の生活が充実し、体内の活力が増大して病気が治る、という人もある。そのため臨死体験は、人類進化の方向を示しているのではないかという説もあるぐらいなので、まちがって死ぬ心配がなければ私も一度体験してみたいと思う。しかし臨死体験の効果を知るために死にそこなう必要はない。話を聞いたり本を読むだけでも大きな効果があるとされるからである。

     
臨死体験と宗教体験

臨死体験をしたときに、非常に深い宗教体験をする人がいる。愛に満ちた聖なる光に包まれて神を実感するとか、全ては自分の中にあり自分は全ての中にあるという全一感を体験するとか、神と自分が一体であることを体験するとか、真理や正しい生き方をはっきり理解する、といったことを体験するのであり、そしてそういう体験をした人は普遍的な宗教観をもつ傾向があるという。つまりすべての宗教の純粋な部分は同じだと考えるようになり、他宗教に対して寛容になるのである。

日本と欧米の臨死体験を比べたとき、気になることが一つある。それはキリスト教文化圏では深い宗教体験をする人がたくさんいるのに、日本にはほとんどいないことである。神仏に会ったという人でも宗教体験と呼べるものはほとんどなく、日本の体験者の特徴は無宗教的なことと、お花畑や三途の川を見る人が多いことだという。

その理由として立花隆氏は、「キリスト教の伝統では、神は真理を啓示する者であるとするのに対し、日本の神仏はもっぱら現世におけるご利益と、来世における極楽往生の面倒を見てくれる存在でしかないという違いが、臨死体験に現れているのではないか」と述べている。仏教は智慧と慈悲の教えであるから、真理において不足するところはないと思うが、当たっている面もあると思う。

     
バーバラ・ハリスの臨死体験

最後に代表的な臨死体験を二つご紹介したい。バーバラ・ハリスはアメリカでもっともよく知られた体験者である。彼女は裕福な実業家の妻であり、三人の子供に恵まれたいわゆる有閑マダムであった。彼女は三二歳のときに受けた脊髄の手術のときに二度、臨死体験をし、一回目のときは体外離脱して、寝台に横たわる自分の姿を見おろしたり、病院の中を飛びまわったりした。苦痛から解放されて気分はかってなかったほどよく、亡くなった祖母の愛に包まれていることを強く感じたという。

二回目のときは神の存在を身近に感じながら三十二年間の生涯を再体験し、そのときの自分の心だけでなく、そこに居た人々の心の中も手にとるように理解することができた。彼女は母親にいじめられて育ったと思いこんでいたが、病弱で情緒不安定な母親の心を知ることで、母親も苦しんでいたことを理解できたのであり、さらに過去に出会ったすべての人の喜び、悲しみ、苦しみを自分のことのように理解することで、すべての人を許せるようになった。

そして何よりも重要なことは、そのときの事情と自分の心を理解することで、自分自身を許せるようになったことである。彼女は子供のころから自分はだめな人間だ、悪い人間だと思っていたが、客観的に自分の過去を見ることで、それがまちがっていたことに気づいたのである。そして生まれてきたことの本当の意味を理解し、生まれ変わったように生きる喜びに満ちあふれ、すべての人に対してあふれるような大きな愛を持つようになった。

その後、彼女は病気の人や、死にゆく人への援助活動をするようになり、臨死体験の研究もするようになった。ところがそれは物質至上主義の夫や友人との間にみぞを作り、夫とはやがて別れることになる。成功した実業家の夫とは、住む世界があまりにかけ離れてしまったのである。

立花隆氏がバーバラ・ハリスに取材したとき、いちばん強く感じたのは彼女の人柄の良さだったという。やさしさといたわりにあふれた実に誠実な人なのである。彼女はこう言っている。「死を目前にした人の友人になりたいのです。信じられないかもしれませんが、人は死ぬまぎわの十分間に顔色が戻ってきて、とても安らかになります。長い闘病生活の間に一度もなかったような健康的な顔色になるのです。そしていよいよというとき、患者はそばにいる人に慰めを与え、そばにいる人は患者にさあ行ってらっしゃいというのです」

     
ハワード・ストームの臨死体験

画家のハワード・ストームは、完全な物質万能主義の自己中心主義者であり、自分しか信じないという人間だった。妻や子供に対しても独立した人格を認めず、自分の延長としか見ていなかった。世俗的な成功と名声、富と快楽にしか興味がなく、他人は自分が成功するための道具としか考えていなかった。そしてそれなりに成功をおさめて贅沢な暮らしをしていた。

そのハワード・ストームが十二指腸に穴が開いて重体になり、臨死体験をした。彼は暗闇のなかに連れて行かれ、そこで彼をにくむ無数の人間から袋だたきの目にあわされた。そのとき、どこからか、「神に祈りなさい」という声が聞こえ、何十年ぶりかで祈りらしきものを唱えると袋だたきから救われ、闇の世界から光の存在へ向かって上昇して行った。

その光に近づくにつれて心の中が愛と力に満たされ、それとともにこれまでの自分の利己的な生き方が恥ずかしくなってきた。彼はとても自分にはそれだけの値打ちがないのに、はかり知れない大きな愛情に包まれていることを感じ、うれしさでついに泣き出してしまった。そして霊的な存在の前で過去を一つずつふり返って点検し、自分の人生が落第であったことを痛感した。

人生回顧が終わってから「何か質問はないか」と聞かれ、彼は考えつく限りのありとあらゆる質問をし、その全てに答えを与えられた。彼は「愛と善と知識」しかない天上にそのまま留まりたかったが、残念ながら地上にもどされ意識を取りもどした。彼はこの体験ですっかり人間が変わり、もっぱら追求していた世俗的なことには目もくれず、ひたすら善なるものを追求し、人助けと社会奉仕に生涯をささげ、哲学や神学の本を読むようになり、ついには神学校に入って牧師になろうとしている。

彼が聖者になったことを妻や子供が喜んでいるかというと、必ずしもそうではない。妻は「私が結婚したハワードは死んでしまった」といい、子供や友人達も「馬鹿なことをしている」と冷たい目で見ている。たしかに聖者を夫や父にもつことは面倒なことかも知れないが、彼は周囲の反応をまったく気にせず、元気いっぱい自分の道を突き進んでいる。

この体験から彼は普遍的な宗教観を持つようになり、「真の神はあらゆる宗教の上にいる一なるものである」という考えを持っている。それでも伝統的な宗教の牧師になろうとしているのは、「アメリカは伝統的にキリスト教社会なので、アメリカで神の道を伝え、人を救い、社会を救おうと思ったら、キリスト教を通じて行うのがもっとも手っ取り早い」と考えたからという。

参考文献
「臨死体験」立花隆 1994年 文芸春秋
「死ぬときに見る光景」高田明和 1995年 PHP研究所
「バーバラ・ハリスの臨死体験」立花隆訳 1993年 講談社

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