ジャータカ物語三二
これは師が祇園精舎に滞在されたとき、出家前の妻に誘惑された修行者に語ったことである。世尊がその修行者にたずねた。
「修行者よ。そなたが女のために出家生活がいやになったのいうのは本当か」
「本当です。世尊」
「誰に誘惑されたのか」
「もとの妻にです」
「そなたがその女を愛したのは今だけのことではない。過去にもその女を愛して苦しんだことがある」。そう言って世尊は過去の話をされた。
昔カーシ国のポータリという町で、アッサカという王が国を治めていた。王にはウッバリーという見目うるわしい第一王妃があり、彼女の美しさは女神には及ばないながらも、人間の美しさをはるかに超えていた。ところがその王妃が若くして亡くなったため、嘆き悲しんだ王は、最愛の王妃の遺体をゴマの油かすを詰めた棺に入れて寝台の下に置き、食事もせずに臥していた。そして親族、友人、バラモンなどが慰めても効果がなく七日が過ぎた。
そのとき菩薩は五種の神通と八種の禅定を得た苦行者となってヒマラヤに住んでいた。ある日、苦行者は、天眼通(てんげんつう)で世界を見渡し、アッサカ王が嘆き悲しんでいることを知った。そこで王を救ってやらねばならぬと、神足通(じんそくつう)で空を飛んで王の庭園へおり立ち、岩の上に黄金の像のように腰を下ろした。そこへ一人のバラモンの若者がやって来て、苦行者を見ると丁寧に挨拶をした。苦行者が言った。
「若者よ。この国の王は立派な方ですか」
「はい。王さまは立派な方です。しかし王妃が亡くなってからは悲嘆にくれて臥しておられます。今日でもう七日になります。あなたはなぜ王を苦しみから救ってあげないのですか。あなたのような徳のある方なら救うことができるはずです」
「私は王に会ったことがありません。しかし会うことができれば、王妃が生まれ変わった先を王に教えることも、王妃に話をさせることもできます」
バラモンの若者はさっそく王に会って苦行者の言葉を伝え、王は「ウッバリーに会えるかもしれぬ」と大喜びでやって来て、苦行者に挨拶し腰を下ろした。
「尊者よ。そなたは妃の生まれ変わった先を知っているというのか」
「存じております。大王」
「どこへ生まれ変わったのか」
「大王よ。お妃さまは生前、容姿を誇り、怠慢で、善行を積むこともなかった。そのためこの庭園で牛のふんを食べる虫に生まれ変わりました」
「そんなことは信じられぬ」
「その虫をお見せしましょう。そして王妃に話をさせましょう」。そう言って菩薩はフンのかたまりを転がしている二匹の虫を指さした。
「大王よ。この後ろの虫が王妃の生まれ変わりです。前の虫は新しい夫です」
「ウッバリーともあろうものが、ふんころがしに生まれるとはとても信じられぬ」
「大王よ。王妃に話をさせてみましょう」。そう言って菩薩は虫に呼びかけた。
「ウッバリーよ」
「何でございますか」
「お前の前世は何であったのか」
「アッサカ王の第一王妃のウッバリーでした」
「お前はいまでもアッサカ王がいとしいか。それともフンを食べる夫がいとしいか」
「今の私にとってアッサカ王が何だというのでしょう」
王妃はそう言って詩をとなえた。
「ここはアッサカ王と私が
たがいに愛し愛され
そぞろ歩きをした庭園
されど新たな楽しみと悲しみに
過去の想い出はすべておおわれた
今は王よりも虫の夫がいとしい」
王妃に対する執着から解放されたアッサカ王は、王妃の遺体を火葬にし、頭を浄め他の女を第一王妃にして正しく国を治めた。
話が終わると世尊は真理を明らかにし、説き終わったときその修行者は聖者の最初の境地に達した。最後に世尊が言われた。「その時のウッバリーはそなたの元の妻であり、アッサカ王はそなたであり、若者は舎利弗尊者であり、苦行者は実にわたくしであった」
出典「ジャータカ全集一〜十。中村元監修。春秋社。一九八四年」第二〇七話
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