ジャータカ物語二六

これは師が祇園精舎に滞在されたとき、あるバラモンの息子に関連して語ったことである。舎衛城に住むあるバラモンの息子が、バラモン教の聖典ベーダを習得してバラモンや王族の子弟に教えていた。

ところが結婚するとベーダの順番をまちがえるようになり、やがて内容も思い出せなくなってきた。衣服や装身具のこと、息子や娘のこと、召使いや畑や家畜のこと、など思い煩うことが多くなってきたことや、貪りの心、怒りの心、愚痴の心といった煩悩を放置していたことで、心が濁ってきたからである。彼はある日、香と花をたずさえて祇園精舎へ行き、それらを世尊に贈り、礼拝し、一隅に坐した。世尊がたずねた。

「若者よ。そなたはベーダを教えているそうだが、まだベーダを熟知しているか」

「尊師よ。以前私はベーダを熟知していましたが、家庭生活が心を濁らせたのか、今は熟知しているとは言えなくなりました」

「若者よ。そなたは過去にも同じ経験をしたことがある」。そう言って世尊は過去の話をされた。

昔バラナシでブラフマダッタ王が国を治めていたとき、菩薩はバラモンの豪族の家に生まれ、成長するとタキシラでベーダを習得し、名高い先生となってバラナシでバラモンや王族の子弟にそれを教えていた。その教え子の中のあるバラモンの若者は、一語として疑わしいところもなく三ベーダに精通し、人に教えるようになった。ところが結婚すると家庭生活の煩いから心が濁り、ベーダを誦することができなくなってきた。そのため先生がたずねた。

「そなたはまだベーダを熟知しているか」

「家庭をもってから誦することができなくなってきました」

「熟知していても濁った心でははっきりとは思い出せないものだ。心が濁っていないなら思い出せないはずはない」。そう言って先生は詩をとなえた。

「濁った水の中では

 貝も小石も魚の群れもよく見えないように

 心が濁っていれば

 自分のことも他人のこともよく見えない

 澄んだ水の中では

 貝も小石も魚の群れもよく見えるように

 心が澄んでいれば

 自分のことも他人のこともよく見える」

話がおわると、世尊は四つの真理を明らかにし、真理の説明が終わったとき、若者は聖者の最初の境地に達した。さらに世尊が言われた。「そのときの若者はそなたであり、先生は実にわたくしであった」

註。この話はベーダがまだ成文化されていないとき、つまり口伝えで継承されていたときの話だと思う。仏教経典も初めの三百年ほどは口伝で継承されたのであった。

出典「ジャータカ全集一〜十。中村元監修。春秋社。一九八四年」第一八五話

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