五戒の話
五戒(ごかい)というのは在家の人のために説かれた五つの戒である。釈尊は初めて説法する人に対しては、まず布施をおこなうことを勧め、次に五戒を守ることの大切さを説き、そしてそれらを得心できた人にさらに深い教えを説いていかれたという。布施をおこない、五戒を守れば、天に生まれるといわれており、これを施戒天(せかいてん)の教えという。

戒というと窮屈な邪魔なものと思われがちだが、心身を守るために必要なものであり、そのため戒は「よろい兜」にたとえられてきた。昔は戦いをするときには、重く窮屈なよろい兜に身にかためて出陣したのであり、いくら身軽な方が楽だといっても普段着では戦場で戦えないのである。戦場におけるよろい兜のように心身を守ってくれるもの、それが戒なのである。

第一不殺生戒(ふせっしょうかい) 殺すなかれ

「一切の生きとし生けるものよ、幸福であれ、安楽であれ、安泰であれ」。お経の中にくり返し出てくるこの言葉が不殺生戒の基本である。しかしいくら慈悲心があっても生き物を殺さずに生きていくことはできない。漁業も農業も殺生をしなければ成り立たず、菜食主義者であっても植物の命を奪っている。呼吸するだけでも小さな生物を吸いこんで大量に殺しているのであり、食うか食われるか、殺すか殺されるか、というのがこの世界の一面の真実である。

それでいて生き物を殺すと心が痛むのは、すべての生き物は深い所で一つの命に結びついている兄弟姉妹であり、殺生が心の本質に背いているからであろう。だから完全に守ることはできないが、できる限り守っていきたい、というのがこの戒の目ざすところである。

川口慧海(えかい)師は、大正時代にチベットの仏教を研究するため、鎖国をしていたチベットに密入国して仏教を学び、多くの経典を持ち帰った人である。彼はこの旅行の出発に際し、友人や信者さんからお金の餞別をもらうことを辞退し、その代わりに魚釣りや投げ網などの殺生をしないことを、餞別にしてほしいと頼んで実行してもらったという。危険きわまりないチベット旅行から無事に帰国することができたのは、みなが不殺生戒を守ってくれたお陰であると、彼はチベット旅行記に書いている。この本を読むと不殺生を守る慧海師に対しては、泥棒や追いはぎまでが慈悲の心で接してくれたことが分かる。

日本の夏には蚊が付き物であり、とくに寺は蚊が多い。そして蚊に対しては不殺生戒を守るのが難しい。蚊に食われてもかたきをとると余りかゆさを感じないが、逃げられるとかゆさが身にしみる。そのためつい叩いてしまうからである。殺生はしたくないが蚊には食われたくない、という人のためにホッス(払子)というものがある。法要のときに導師が手にしている馬の尻尾のようなものがホッスで、これは蚊を殺さずに追い払う道具が法要に使われるようになったものであるから、不殺生戒の象徴というべきものである。

不殺生戒を守っていると、人間だけでなくあらゆる生き物から親しみをもって迎えられ、野鳥なども向こうから寄ってくるという。

第二不偸盗戒(ふちゅうとうかい) 盗むなかれ

物を盗まれるのは不愉快なことだが、物を盗むのも思い出したくない嫌な経験である。私が修行していた道場で、坐禅に来た人の荷物が盗まれたことがあり、犯人が捕まったとき現場検証にきたので境内を案内して回ったが、その若い男の泥棒は私の顔をまともに見ることができなかった。悪事は結局はその人自身をいちばん傷つけるのであり、お金が落ちていても拾わないと決心すれば、この戒はほぼ守ることができる。

不偸盗戒を守っていると、必要なお金や物は求めずして集まってくるという。

第三不邪淫戒(ふじゃいんかい) 浮気するなかれ

仏教のふる里のインドでは、性的な行為が修行の邪魔になると考える傾向が強い。また快楽が人の心を弱くするのは確かなことであるし、真剣に修行している時にはそうした欲望は出てこないものである。そのため釈尊は出家修行者に対しては、不淫戒(ふいんかい)を制定して一切の性的行為を禁止したが、一般の人にはそこまで厳しいことはいわず、道にはずれた男女関係を戒める不邪淫戒を説いた。

不邪淫戒を守っていると心身ともに強い力が備わるという。

第四不妄語戒(ふもうごかい) うそをつくなかれ

うそは自他ともに傷つけ、一度のうそで信用は失われる。真理とうそは相容れないから、うそのある人は決して悟りを開くことができない。うそほど面倒なことはなく、またいくら小細工しても、うそはいつかばれるものである。状況が変わったり、後から考えてみたりすると、何だあれはうそだったんじゃないかとなるのであり、結局は正直が最良の策なのである。

不妄語戒を守っていると、その人の言ったことは全て実現されていくという。

第五不飲酒戒(ふおんじゅかい) 酒を飲むなかれ

日本ではお酒を飲む機会が多く、仏教に不飲酒戒があるとは信じられないほどだが、在家の人もお酒はだめなのである。この戒は日本では守りにくいが、酒が手に入らないインドやイスラム教の国では破る方が難しい。律の中に十の飲酒の短所が書いてあった。

一、顔色が悪くなる。

二、力が無くなる。

三、眼が悪くなる。

四、腹を立てやすくなる。

五、財産を失う。

六、病気をしやすくなる。

七、争いごとが増える。

八、悪いうわさが流れる。

九、智恵が少なくなる。

十、死んでから悪い所に生まれ変わる。(四分律。九十単堕法。第五一)

酒を飲むと意思の力が弱くなって、つい無分別なことをしたり、もめ事の原因を作ったりするのであるが、未曾有経(みぞうきょう)というお経は、「もし酒を飲みて、心を悦ばしめ、善を生ずることあらば、飲むも戒を犯さず」というように飲酒を認めているという。百薬の長になるような飲み方なら、戒を犯したことにならないというのであるが、勧めている訳ではないから、飲まないのが一番、飲むなら節度を守ってということである。

酒がだめならタバコもだめかというと、吸ってはいけないという戒はない。釈尊の時代インドにタバコは存在しないから禁煙戒もないが、存在したら五戒が六戒に増えていた可能性は高い。理由はタバコを吸うと呼吸が調わなくなるからであり、一本吸うと一時間、二本吸うと二時間は影響するから、愛煙家であっても坐禅の前には禁煙しなければならない。

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