ジャータカ物語三

これは師が祇園精舎に滞在されたとき、情欲に関連して語ったことである。舎衛城(しゃえじょう)に住むある良家の息子が、世尊の教えにひかれて出家し修行にはげんでいた。ところが舎衛城を托鉢しているとき美しく着飾った女性に逢い、そのとき思わず自制を失ってうっとりとその体を眺めたことで情欲に取りつかれてしまい、それ以後、彼は師の教えに喜びを見出せず、髪や爪を伸ばしたまま、汚れた衣をまとい、野獣のようにさまよっていた。それを見た仲間の修行者がたずねた。

「友よ。君はどうして以前のようではなくなったのか」

「友よ。私は楽しくないのです」

そこで仲間の修行者は彼を世尊のところへ連れていった。世尊がたずねた。

「修行者よ。どうして気の進まぬ者を連れてきたのか」

「尊師よ。この修行者は楽しくないと言っています」

「それは本当か」

「本当です。世尊」

「何がそなたを悩ませたのか」

「私は托鉢中に自制を失ってうっとりと女性の体を眺めて以来、情欲と恋情に悩むようになったのです」

「修行者よ。そなたがうっとりと異性の体を眺めたことも、そのために情欲にかられたことも、不思議なことではない。過去には情欲に打ち勝ち、五つの神通と八つの禅定を得て、天空を自由に飛び回った賢者でさえも、異性の体をうっとりと眺めたことで、禅定を失い非常な苦しみを受けたことがある。心の清らかな者でも情欲を起こすことがあり、最高の名声を得た者でも悪評を受けることもある。だからそれがどうしてそなたの恥になることであろうか」

そう言って世尊は過去の話をされた。

昔バラナシの都でブラフマダッタ王が国を治めていたとき、菩薩はカーシ国のある財産家の家に生まれ、分別のつく年齢になるとあらゆる技芸の極致に達したが、やがて諸欲を捨てて仙人としての出家生活に入り、五つの神通と八つの禅定を得て、ヒマラヤ山中で暮らしていた。

あるとき仙人は、塩と酢を得るため山を下り、夜をバラナシ王の遊園で過ごし、夜が明けると、髪を丸く結いあげ、褐色の樹皮でできた下衣(かい)と上衣をまとい、かもしかの皮を一方の肩にかけ、それから担ぎ棒を持って行乞してまわり、王宮にやって来た。すると仙人の立ち居ふるまいに心をひかれた王は、仙人を呼び寄せて立派な座にすわらせ、美味な硬軟の食物で満足させ、遊園に留まるように頼んだ。そのため仙人は王家の人々に訓戒を与えながら、その遊園に十六年間滞在した。

ある日、王は反乱を鎮めるため国境へ出陣することになり、王妃のムドゥラッカナー(優しい姿)に、仙人をもてなすように言い残して出かけた。仙人は王が出立してからは、自分の好きな時刻に王宮へ行くようになり、そんなある日、ムドゥラッカナーは仙人の食べ物を調えさせてから、「今日は尊者は遅い」と香水で沐浴し、装身具で身を飾り、屋上に小さな寝台を用意させて横たわった。そして天空を通って仙人が来たとき、その樹皮の衣の音で来訪を知った王妃は、「尊者が来られた」と急いで起きあがったが、そのとき絹の上衣が滑り落ちた。

その姿が窓から入ろうとしていた仙人の目に入り、覚えず仙人は王妃の美しい体をうっとりと眺めた。すると仙人の内部に情欲がわき起こり、その瞬間、仙人は禅定を失い、翼を切られたカラスのように飛べなくなった。仙人は立ったまま食べ物を受けとったが、少しも食べずに歩いて持ち帰り、草庵に入ると寝台の下に食べ物を放置し、異性の体に心をしばり付けられ、情欲の火に心を焼かれながら、憔悴して横たわった。

王は国境を鎮圧して七日目に帰還し、都を右回りに回って王宮に入ると、「尊者に会いに行こう」と遊園に出かけ、仙人が横たわっているのを見て、「病気になったのだろう」と草庵の中を掃除させ、仙人の足に頭を接し、そしてたずねた。

「尊者よ。何の病気なのですか」

「大王よ。わたしは病気ではありません。情欲のために心がしばり付けられてしまったのです」

「尊者よ。何があなたの心をしばり付けたのですか」

「ムドゥラッカナーです。大王」

「よろしい。ならばムドゥラッカナーを差しあげましょう」

そう言って王は仙人を王宮に連れて帰り、王妃をすっかり装身具で飾りつけて仙人に与えた。王はムドゥラッカナーに指示した。

「お前は尊者を守るように努めねばならぬ」

「分かりました。王さま。私は尊者をお守りします」

仙人は王妃をもらい受けて王宮を退出したが、門を出るとき王妃が言った。「尊者よ。私たちは家を一軒手に入れなければなりません。王に家を要求して下さい」

仙人が家を要求すると王は一軒の廃屋を与え、仙人は王妃を連れてそこへ行ったが、王妃は中に入ろうとしなかった。

「なぜ入らないのか」

「汚いからです」

「ではどうすればいいのか」

「手入れして下さい」

そう言って家の手入れをするように王に要求させ、さらに「敷物を運ばせなさい。腰掛けを運ばせなさい。寝床を用意させなさい。壺を運ばせなさい。水を用意させなさい」と命じた。そして仙人が一緒に寝床にすわろうとしたとき、その鬚をつかんで引き寄せながら言った。「あなたは自分が修行者であり、バラモンであることをわきまえていないのですか」

その刹那、仙人は正気を取りもどした。情欲という障りは無智をひき起こすものであり、仙人は情欲のために無智な者になっていたのである。仙人は考えた。「この愛執が増大すれば四つの悪いところに落ち、頭を上げることさえ許されなくなる。今こそ王妃を王に返し、ヒマラヤへ帰るべきときである」

仙人は王妃をつれて王宮へ行き、王に言った。「大王よ。私に王妃は必要ありません。私の心が情欲と愛執にとらわれていただけです」

そのとき仙人の失われた禅定がよみがえった。仙人は天空にすわって説法し、空を飛んでヒマラヤへ帰り、それから二度と人里に出ることなく、二度と禅定を失うこともなく清浄行を修し、梵天の世界に生まれかわって行った。

話が終わると世尊は四つの真理を明らかにし、真理の説明が終わったとき、かの修行者は聖者の最高の境地に達した。最後に世尊が言われた。「そのときの王は阿難尊者であり、ムドゥラッカナーはウッパラバンナーであり、仙人は実にわたくしであった」

出典「ジャータカ全集一〜十。中村元監修。春秋社。一九八四年」第六六話

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