ジャータカ物語一

ジャータカというのは釈尊の前世の話を集めた物語集のこと、本生譚(ほんじょうたん)とか前生(ぜんしょう)物語などと訳されている。これらの物語は紀元前三世紀ごろのインドの伝説やおとぎ話を元に作られたとされ、日本ではあまり広まっていないが、南方仏教の国では広く人々に親しまれている。

南方仏教が伝えるジャータカには五四七の物語が収められていて、それぞれの物語もジャータカと呼ばれ、これらの中にはイソップ物語やアラビアンナイトや今昔物語にとり込まれたものもある。

ジャータカは次のような理由で成立したと考えられている。仏教が広まりブッダの偉大さが強調されるようになると、このような偉大な人格は今生の修行だけで完成されたものではなく、過去世の菩薩であったときにおこなった無数の善行の積み重ねの功徳によって完成されたものに違いない、と考えられるようになり、その結果、数多くの前世物語が作られ、ジャータカとしてまとめられた、ということである。

ジャータカの各物語は現在世物語、過去世物語、結び、の三段落からなり、また散文と韻文の二つの部分からなっている。古くから伝えられてきた韻文に、散文の注解が付加されてできたのが現在のジャータカ、ということで、そのため巻頭に以下の注解者のことばが添えてある。

「かの世尊、尊敬すべき人、正しくさとった人に礼拝する。世界の救い主である仏は、幾千、幾千万という生涯を繰りかえしながら、世の人々に限りない利益をもたらしてきた。そのかたの両足を礼拝し、教えに合掌し、あらゆる尊敬の器である僧団に敬礼し、三宝を礼拝する功徳の力であらゆるわざわいを滅ぼしてから、ジャータカの注解を述べることにする」

ジャータカの中でとくに重用なのは、ジャータカを総括する内容を持つ巻頭の三つの話である。第一の「遠い因縁話」は、釈尊が譬えようもない大昔に燃燈仏(ねんとうぶつ)のみもとで仏になろうと決意するところから、兜率天(とそつてん)に生まれるまでの話。兜率天は釈尊がこの世界に生まれてくる前に過ごした天の世界である。

第二の「遠くない因縁話」は、兜率天を去るところから、この世界に生まれ、菩提樹下で成道するまでの話。

第三の「近い因縁話」は、成道してから祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の寄進を受けるまでの話。

ただしこれらの話は長すぎてここでは紹介できない。なお物語の出典は「ジャータカ全集一〜十。中村元監修。春秋社。一九八四年」であるが、読みやすくするため少し手を加えてある。

     
五武器王子の話

これは師が祇園精舎に滞在されたとき、一人の努力を捨てた修行者に語ったことである。世尊がその修行者にたずねた。

「修行者よ。そなたが努力を捨てたというのは本当か」

「本当です。世尊」

「修行者よ。過去の賢者たちは努力するべきときに努力して王位を得た」。そう言って世尊は過去の話をされた。

昔バラナシの都でブラフマダッタ王が国を治めていたとき、菩薩はその王子として生をうけ、命名の日になると父王は八百人のバラモンを集め、彼らの望みをかなえて満足させてから、王子の体の特相をたずねた。すると特相を見るのに巧みなバラモンたちは、王子が卓越した特相を具備しているのを見て予言した。

「大王よ、王子は福徳を備えておられます。必ずや大王の後を継いで王位につくでありましょう。また五種の武器の操作に関してインド随一の名人になるでしょう」

そこで王は五武器王子(パンチャーブダ・クマーラ)の名を王子に授け、分別ある年齢の十六歳になったとき王子に言った。

「王子よ。おまえは武芸を習得しなさい」

「どこで習得すればよいのですか。王さま」

「ガンダーラ国のタキシラに諸方随一という優れた先生がいる。そこへ行き、この謝礼を渡しなさい」

そう言って千金を与えて送り出した。王子はタキシラへ行き、武芸を習得しおえると、師に別れの挨拶をし、授けられた五種の武器をたずさえてバラナシへと向かい、粘着毛夜叉(ねんちゃくもうやしゃ)が支配する森の入口に到達した。すると人々が口々に言った。

「若者よ。この森に入ってはいけない。この森には粘着毛夜叉という怪物がいて、入ってくる者をことごとく殺して食べてしまうのだ」

しかし王子は自らを信じ、恐れを知らぬ雄のライオンのように森に入っていった。すると森の中央に達したとき、はたして背丈がターラ樹ほどもある夜叉が姿を現した。

「待て、どこへ行く。お前はおれの餌食になるのだ」

「夜叉よ。わたしは自らを信じてこの森に入ってきた。毒を浸した矢で射殺されないように用心するがよい」

そう言って王子は夜叉を威嚇し、ハラーハラの毒に浸した矢を射た。ところが矢は夜叉の毛に張りついただけであった。そこで五十本の矢を次々に放ったが、すべて毛に張りつき、夜叉は矢を払い落としながら近づいてきた。王子はまたも大声で威嚇しながら、今度は剣を抜いて打ちかかったが、三十三アングラの長さの剣も毛に張りつき、槍で突くと槍も張りつき、こん棒で打ちかかるとこん棒も張りついた。

それでも王子は大声で威嚇して言った。「夜叉よ。私の名は五武器王子というが、武器を頼りにこの森に入ってきたのではない。自分自身を信じて入ってきたのだ。お前をこなごなにしてくれる」

そう叫んで右手で打ちかかったが、これも張りつき、左手で打つと左手も張りつき、右足も張りつき、左足も張りつき、「ならば頭だ」と頭突きを入れると頭も張りつき、ついに身動きできなくなった。ところが王子はそれでもおびえることがなかった。

夜叉は考えた。「こいつはただ者ではない。獅子のような駿馬のような人間だ。夜叉に捕らえられていながら少しもおののくことがない。これまで一人としてこんな人間に会ったことがない」

夜叉が若者にきいた。「お前はどうして恐怖に襲われないのか」

「夜叉よ。なぜおびえなければならないのか。一つの生涯に一つの死は定まったことだ。しかも私の腹の中には金剛杵(こんごうしょ)という武器がある。私を食べれば、お前ははらわたを切り裂かれて死ぬだろう」

夜叉はまた考えた。「この若者は真実を語っている。俺の腹はこの獅子のような人間の肉を、豆粒ほども消化できないだろう。だから解き放つことにしよう」

解放された王子が夜叉に言った。「夜叉よ。お前は前世で悪事を働いたため、残忍な夜叉としてこの世に生まれた。この世で悪事を働くなら、来世もまた暗黒の世界に生まれ変わるだろう。生き物を殺せば地獄や餓鬼、畜生や阿修羅の境遇に生まれ、人間に生まれても命は短い。だがお前は私に会ったことで、これからは悪事ができなくなるだろう」

そして王子は種々の方法で夜叉を威嚇し訓戒し、法を説いて柔和にし、五戒を守ることを教え、その森で供物を受けて暮らす神になるように教え諭した。そして森を出て人々に森の中でのでき事を説明し、五つの武器を帯びてバラナシへ帰り、やがて王位につき、正義によって国を治め、ほどこしをし、業に従って生まれ変わっていった。話が終わると世尊は詩をとなえた。

「意欲と進取の心を持つ人が

 安らぎを求めて修行に励めば

 あらゆる束縛の消滅に至るであろう」

それから世尊は聖者の最高の境地にいたる四つの真理を明らかにし、その説明が終わったときその修行者は最高の境地に到した。最後に世尊が言われた。「そのときの夜叉はアングリマーラーであり、五武器王子は実にわたくしであった」

出典「ジャータカ全集一〜十。中村元監修。春秋社。一九八四年」第五六話

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