南インドの話
平成二八年二月、南インドを旅してきた。この旅行の第一目的は南インドの代表的な仏教遺跡、ナーガールジュナコンダとアマラバティの見学であった。これらの遺跡はインド南東部のアンドラ・プラデシュ州を流れるクリシュナ川の南岸にあるが、ナーガールジュナコンダ遺跡は今はダム湖の底に没している。
南インドを旅する人は少なく、仏跡を回る人はさらに少ない。そのためこれらの遺跡の参考文献も少なく、平凡社の百科事典しか見つけられなかった。だから以下の解説の多くはそれからの抜き書きである。また遺跡の場所の確認にはネット上のグーグルの地図が役に立った。
変わらざる国といわれるインドも、少しずつ変わってはきているが、道路にゴミが散乱しているのは相変わらずであった。プラスチックゴミの出現で昔よりゴミが増えたようにも思う。昔は食べ物などは木の葉に包んで売っていたので、そのゴミは牛が食べていたが、プラスチックゴミは牛も食わないのである。この国はいつか国を挙げてゴミ追放運動をしなければならなくなると思う。
インドを旅していると、生きていくのは楽ではないと思うことがよくある。とくに貧しい人々は精一杯のがんばりで生きていると感心することがある。
出発したとき私の住む町は寒波と吹雪に襲われていたが、南インドを旅しているうちに体がかってに今は夏だと思いこんでしまったのか、帰国してまた吹雪の中を運転した後、風邪をひいてしまった。
ナーガールジュナコンダ遺跡
竜樹(りゅうじゅ。ナーガールジュナ)に関係するとされるこの遺跡は、もとはクリシュナ川の右岸にあったが、ダム湖に水没することになったことから、一九五四年から六〇年にかけて大規模な発掘調査がおこなわれ、重要な出土品はダム湖(ナーガールジュナサガール湖)に島となって残る丘の上と、そこに建てられた考古博物館に移された。
ここには旧石器文化、細石器文化、新石器文化、巨石文化などの遺跡もあるが、重用なのは三世紀中期から約一世紀栄えたイクシュバーク朝の首都ブジャヤプリーの都城の遺跡と、この王朝の庇護で造営された多数の仏教寺院の遺跡である。イクシュバーク朝は、サータバーハナ朝(アンドラ朝)滅亡後にクリシュナ川下流南岸で興り、四代約百年この川の流域を支配した王朝である。
王妃の希望で建立されたと伝えられる壮大な仏教寺院の遺跡からは、仏塔や僧院などが発掘されており、百科事典によると、この遺跡の彫刻はアンドラ地方の仏教美術の傑作として知られ、作風はアマラバティを継承するが表現はやや粗野になっているという。また一部に釈尊の姿を表現せず聖樹などで代用する方法が用いられているという。
遺跡の島へ渡る船はダムの横から出ていて一時間ほどの船旅であった。島にあった見取り図によると、水没した遺跡は島の船着き場の前方から右側にかけて広がっているようである。遺跡を移転してまでダムを作らなくてもいいではないか、と思わなくもないが、乾燥したデカン高原を旅していると水の貴重なことがよく分かる。
ナーガールジュナコンダの見どころは大塔と僧院の遺跡、そして博物館の展示品である。大塔と僧院は基壇しか残っていないが、僧院入口にあった釈尊立像と小さな仏塔はもとの場所に復元されている。ただし遺跡にある像は複製で、本物は博物館にある。発掘時の写真を見ると、この像は数個に割れた状態で埋まっていたことが分かる。ここの大塔はサンチーの大塔と同じまんじゅう型をしており、その近くにダライラマお手植えの菩提樹があったが、まだ植えたばかりの幼木であった。
なお百科事典に次の一文があった。「この地を偉大なる仏教学者竜樹に結びつける伝説は、中世以前にはさかのぼりえない」
竜樹菩薩は、大乗仏教の根本思想である「空の思想」を哲学的に基礎づけた人であり、後世の仏教に大きな影響を与えたことから八宗の祖と仰がれている。彼は南インドのバラモンの出身とされ、生存年代は西暦一五〇〜二五〇ごろと推定されており、樹下で生まれて竜宮で成道したため竜樹と称したとも伝えられる。またあらゆる学問に通じていたとされ、竜樹作とされる医術書や養生書なども存在する。なお彼の伝記は「講談社学術文庫。龍樹。中村元著」に三種載っている。
アマラバティ遺跡
この遺跡があるのは、クリシュナ川南岸の小さな町アマラバティの南部、クリシュナ川から五百メートルほど離れたところである。遺跡の中核となるのは一七九六年に発見された直径五一メートルの巨大な塔の遺跡で、この塔は出土した多数の浮彫で有名になった。
この塔の最盛期の浮彫はサンチー第一塔の浮彫を発展させたものとされ、人体の柔らかな肉付け、細くしなやかな手足、それらの律動感あふれる群像表現、などを特色とし、この塔の彫刻は東南アジアの仏教彫刻に大きな影響を与えたという。浮彫の装飾が塔に施されたのは一世紀ごろからとされ、二世紀後期にサータバーハナ朝の庇護で塔の巨大化がおこなわれ、塔は三世紀中期まで存続したとされる。
サータバーハナ朝は、前一世紀後半ごろから三世紀にかけて、デカン高原を中心にインドの西部と南部を支配し、サンチー第一塔の造営にもかかわり、西部インドに仏教石窟寺院を造営し、二世紀前期にはアンドラ地方に進出してアマラバティの仏塔などを作った、という王朝である。この王朝はバラモン教を信奉していたが、仏教やジャイナ教も庇護していたのであった。
またこの地には七〜八世紀にオリッサから密教が伝えられたとされ、アマラバティ周辺からも密教像が発掘されている。
アマラバティの大塔を「南天の鉄塔」とする説もある。南インドにあったという南天鉄塔は、竜猛(りゅうみょう)菩薩が金剛サッタから大日経と金剛頂経を相承したとされる塔で、この鉄塔相承は密教の成立上きわめて重要なでき事だという。ただし密教内部にも鉄塔が実在したとする説と、鉄塔相承は心中のでき事とする説の二つがあるという。なおアマラバティの塔は鉄塔ではなく、レンガの土台の上に石灰岩か大理石の浮彫を装飾した塔である。
竜猛菩薩は密教の第三祖とされるが、大日如来、金剛サッタ、竜猛菩薩の順に密教が相承したとされるから、伝説的な人物であるのはまちがいない。また竜猛菩薩は竜樹菩薩と同一人ともされる。密教ではナーガールジュナを竜猛と訳しているのであるが、竜樹と竜猛の生存時代には六〜七百年の開きがあるとする説もある。
アマラバティで見るべきものは大塔の遺跡と博物館である。大塔は基壇しか残っていないが、博物館の中庭にある復元模型からまんじゅう型の塔だったことが分かる。博物館内は撮影禁止だがこの模型は撮影できる。
この遺跡の近くにブッダパークという公園があり、なぜかそこに巨大な仏像があった。その仏像の顔が今回の現地ガイドの顔によく似ていたので、不思議に思ってきいたみたら、彼はブッダガヤ生まれのアーリア系だという。つまりその仏像はアーリア系の人間をモデルに作った仏像らしかった。
玄奘三蔵は七世紀にアマラバティを訪れているが、ナーガールジュナコンダには行っていないようである。しかしここまで来ていながら竜樹菩薩に関係する場所に立ち寄らないのは不自然であり、その理由として考えられるのは、当時ナーガールジュナコンダは竜樹と無関係であったということである。アマラバティは大唐西域記にダーニャカタカ国の名で次のように記されている。
「この国は周囲六千里ある。国の大都城は周囲四十余里ある。土地は肥沃で、農業は盛大である。荒野は多く、村落は少ない。気候は暑熱で、人の肌は黄黒い。性質は烈しく、学芸を好む。伽藍は軒を並べて立っているが荒れかたが甚だしい。今も残っているのは二十余ヶ所、僧徒は千人余。多くのものは大衆部の教えを学習している。天祠(てんし。ヒンズー寺院)は百余ヶ所、異道の人は非常に多い」
そして、都城の東に東山僧院、西に西山僧院があって、昔は千人の僧がそこで修行していたが、玄奘三蔵が訪ねたときは廃墟となり修行者はいなかったという。ただし彼は大塔のことには触れていない。おそらくそのときすでに塔は無かったのであろう。
また慈恩伝に次の記述がある。「玄奘三蔵はこの国で二僧に逢った。一はスブーティ、二はスーリヤ、善く大衆部の三蔵を解す。そのため停まること数月、大衆部の根本アビダルマ等の論を学ぶ。彼らもまた法師から大乗の諸論を学び、ついに志を結び同行して聖跡を礼拝す」
同行の添乗員はこれらの遺跡は二回目ということなので、前回来たときのことをきいてみた。すると、前回はある大学の先生と学生を案内して十数年前に来た、その大学がナーガールジュナコンダ遺跡の移転のために寄付をしたので、そのできあがりを見に来たのであった、そのときは窓ガラスの割れたひどい宿しかなかった、今回の宿はその後に作られたものでこれでも前よりずいぶんましになった、という話であった。たしかに質素な宿であったが、一時間ほど停電したほかは問題なく、食事もおいしかった。
コモリン岬
仏跡のほかに印象に残っているのは、マドライにあるヒンズー教のミナクシ寺院と、インド亜大陸南端のコモリン岬であった。ミナクシ寺院は立ちならぶゴープラムと呼ばれる巨大な塔門と、そこにはめ込まれたおびただしい数の色彩あざやかな彫刻が印象的であった。
コモリン岬はベンガル湾とインド洋とアラビア海が出会うところ、またインドでただ一ヵ所、日が海から昇り海に沈むところである。ただし断崖絶壁の上から海を眺められるだろうと期待していたが、どこにでもある海岸が続いているだけの、どこが先端かもよく分からない岬であった。とはいえ遠路はるばるやって来たコモリン岬であるから、強い日射しと風をものともせずに歩き回り、小さな沐浴場が海に向かって作られているところが先端らしいと気がついた。その沐浴場のすぐ前の海中にビベーカーナンダ・ロックと呼ばれる岩礁がある。ガイドブックはそこ(本当は別の岩礁)に立つ巨大な像を、聖者ビベーカーナンダの像としているがこれはまちがいである。
玄奘三蔵はコモリン岬までは来ていない。彼は東海岸ぞいに南下し、南端の国マライコッタ国の手前で西へと向かい、そして西海岸沿いに北上している。そのためインド南端の地は聞き書きの情報としてつぎのように記している。
「インド南端のマライコッタ国は、周囲五千余里、国の大都城は周囲四十余里ある。土地はやせ、産物は少ないが、海産の珍宝がたくさん集まってくる。・・・伽藍の跡は多いが今も残るものは少なく、僧徒もわずかである。外道の人々が非常に多く、裸形に属する人が多い。・・・国の南方に海に面してマラヤ山があり、珍しい香木がとれる・・・。
マラヤ山の東に補陀洛山(ふだらくせん)がある。山道は危険で、巌谷は険峻である。山頂に池があり、鏡の如く澄んでいる。水は流れて大河となり、山をめぐり流れること二十周で南海に入る。池の側に石造りの天宮がある。観自在菩薩が往来し泊まられる所である。菩薩を見たてまつろうと願うものは、身命を顧みず河水を渡り山に登る。艱難を物ともせず行きつくことのできる者は大変に少ない。ところが山下の住民がお姿を見たてまつろうと祈願すれば、ときにはシバ神の姿で、ときには塗灰外道の姿になって、祈願する人を慰諭して望みを遂げさせることもある。
この山から東北へ行くと海岸に城がある。南海のシンガラ国(スリランカ)へ行く通路である。土地の言い伝えによれば、ここから海に入り東南へ三千里ほどでシンガラ国に至る」
この記述から観音菩薩の聖地、補陀洛山の場所を特定しようという試みがあるという。たしかに華厳経にもインドの南の山に観音菩薩が住むとあるが、海上の島に住むという説もあるし、なにより架空の場所の可能性が大きいのだから、特定は難しいと思う。
コモリン岬に近い東海岸に、スリランカに向かって延びる小さな半島と、その先に半島と橋で結ばれた小さな島がある。その島にあるヒンズー教の聖地ラメシュワラムという町から、私は四〇年まえフェリーでスリランカへ渡ったことがある。そこが最短でスリランカへ渡れる場所なのである。だから西域記にあるスリランカへの通路というのはこの半島のことだと思う。西域記の記述は正確であり、玄奘三蔵スパイ説は必ずしもでたらめではないと思う。
(追記。昔はラメシュワラムの先に、アダムスブリッジと呼ばれるスリランカへ歩いて渡れる水中の道があったという。おそらく砂州のうえを行く道であったと思うが、大嵐で水深が深くなり十五世紀以降は通過できなくなったという)
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