二宮尊徳翁の言葉

二宮尊徳翁の言葉を、二宮翁夜話(にのみやおうやわ)からの抜き書きでご紹介する。二宮翁の教えを守っていけば、借金まみれの日本の国といえど必ず救われるはずである。こういう教えを説く先輩を持っていながら、どうして日本はこんな借金大国になってしまったのかと思う。今ではほとんど見かけなくなった二宮金次郎像を、復活させなければならないと思う。国会議事堂の前に。

二宮翁夜話の著者は翁の高弟の福住正兄(ふくずみまさえ)氏。彼が翁に師事したのは弘化二年から嘉永三年にかけての六年間であり、それは翁の五九歳から六五歳のときに当たる。夜話はそのとき折にふれて聞いた話を書きとめた手記をまとめたもので、明治十七年から三年かけて出版したところ大評判となり版を重ねたのであった。

ただし以下にご紹介するのはその現代語訳である。訳したのは小田原の報徳博物館の初代館長をつとめた佐々井典比古(ささいのりひこ)氏、出版は昭和三三年、本の題名は「訳注二宮翁夜話。訳者佐々井典比古。発行所一円融合会。発売所報徳文庫」である。

     
二宮翁夜話

私は、入門の初めにその者の分限を取り調べて、よくわきまえさせている。なぜかといえば、だいたい金持の子孫は、自分の家の財産が何ほどあるか、知らぬ者が多いからだ。私が人に教えるには、まずその分限を明細に調べて、お前さんの家株は田畑何町何反歩、この作徳金何両、うち借金の利子何ほどを引くと、残りは何ほどになる。これがお前さんの暮らすべき一年の天禄なのだ。このほかにどこからも取れず、どこからも入らない。この内で倹約を尽くして暮らしを立てて、何ほどか余財を譲ることをつとめねばならぬ。これが道なのだ。これがお前さんの天命であり、お前さんの天禄なのだと、みんなこのように教えることにしている。

だれでもこのように、入るを計って天分を定めて、音信贈答も、義理も礼儀も、みんなこの天分の内でするがよい。分内でできなければ、一切やめるがよい。あるいはそれをけちだという者があっても、それをいう方の誤りなのだから、気にかけるでない。なぜかといえば、この天分のほかには取るところもなく、入るものもないからだ。だから義理もつきあいも、できなければしないのが、礼であり義であり道なのだ。この道理をよくわきまえて、惑ってはならぬ。これこそ徳行を立てる出発点であって、おのれの分度が立たなければ徳行は立たぬものと知るがよい。(夜話六)


太陽の徳は広大だけれども、芽を出そうとする念慮のないもの、育とうとする気力のないものはしかたがない。いやしくも芽を出そうとする念慮、育とうとする生気のあるものなら、みんなこれを芽ばえさせ、育たせて下さる。これが太陽の大徳なのだ。

わが無利息金貸付の法は、この太陽の徳にかたどって立てたものだ。だから、どんな大借を負うていても、人情を失わないで利息を滞りなく済ませている者とか、ぜひとも皆済してひとに損失をかけまいという念慮のある者は、たとえば芽を出したい、育ちたいという生気のある草木と同じだから、この無利息金を貸して引き立ててやるがよい。無利息金があっても、人情もなく利息も済まさず、元金まで踏み倒そうとするような者は、すでに生気のない草木と同じで、いわゆる縁なき衆生である。これは何ともしかたがない。捨てて置くほかに益のないものだ。(夜話九)


神儒仏の書物は数万巻ある。それを研究しようと、深山にはいって坐禅しようと、その道をのぼりきわめてみれば、世を救い、世を益することのほかに道はありえない。もしあるといえば、邪道に相違ない。勝道は必ず、世を益すること一すじだ。たとい学問をしても、道を学んでも、ここに到達しなければ、よもぎ、むぐらがやたらにはびこったように、世の中に用のないものだ。世の中に用のないものは尊ぶに足りない。

(中略)とにかくも、世の中に益のない書物は見ぬがよい。自他に益のないことはせぬがよい。「光陰は矢の如し」だ。人生六十年といっても、幼い時、老年の時があり、病気があり事故があって、仕事をする日数は至って少ないのだから、無用のことはしてはならぬ。(夜話十八)


わが道はもっぱら至誠と実行にある。だから鳥獣、虫魚、草木にもすべて及ぼすことができる。まして人間はいうまでもない。それで、わが道では才知、弁舌を尊ばない。才知、弁舌では、人には説くこともできるが、鳥獣、草木に説くことはできない。それでも、鳥獣には心があるから、あるいは欺けるかもしれないが、草木を欺くことはできない。(夜話二五)


天には善悪がない。それゆえ稲もはぐさも差別せずに、種のあるものはみんな生育させ、生気のあるものはみんな発生させる。人道はその天理にしたがいながらも、その内でそれぞれ区別をして、ひえやはぐさを悪として米麦を善とするように、すべて人の身に便利なものを善として、不便なものを悪とする。ここまで来ると天理とは違ってくる。なぜなら人道は人の立てたものだからだ。人道はたとえば料理もののように、三杯酢のように、歴代の聖主、賢臣が料理し塩梅(あんばい)してこしらえたものなのだ。だから、ともすれば破れようとする。それゆえ、まつりごとを立てたり、教えを立てたり、刑罰法制を定めたり、礼法を設けたり、やかましくうるさく世話をやいて、ようやく人道は立つのだ。それなのに、これを天理自然の道と思うのは大きな間違いだ。よく考えるがよい。(夜話四六)


天道にまかせておけば、堤は崩れ、川は埋まり、橋は朽ち、家は立ち腐れとなる。人道はこれに反して、堤を築き、川をさらえ、橋を修理し、屋根をふいて雨のもらぬようにするのだ。身の行いも同様であって、天道は寝たければ寝、遊びたければ遊び、食いたければ食い、飲みたければ飲むという類だ。人道はねむたいのをつとめて働き、遊びたいのを励まして戒め、食いたい美食をこらえ、飲みたい酒を控えて明日のために物をたくわえる。これが人道なのだ。よく考えるがよい。(夜話五〇)


天道は自然のものだ。人道は天道にしたがうといいながら、一方また人為のものだ。だから人道を尽くしてあとは天道にまかせるべきで、人道をいいかげんにしておいて天道を恨んではならない。たとえば庭先の落葉は天道であって、無心に日々夜々に落ち積もる。これを掃かないのは人道ではない。ところが掃いても掃いても落ちてくるが、これに心を煩わせたり、気をいらいらさせて、ひと葉落ちればほうきをとって立ったりするのは、ちりあくたのために使われるようなもので、愚かなことだ。木の葉の落ちるのは天道だ。人道を持って、毎朝一度は掃くがよい。あとまた落ちてきても捨てて置いて、無心の落葉に使役されぬがよい。しかしまた、人道をゆるがせにして、積もりほうだいにしてはならない。これが人道なのだ。

同様に、ばかでも悪人でも、よく教えるがよい。教えて言うことをきかなくても、いらいらすることはない。聞かぬからとて捨てることなく、幾度も幾度も教えるがよい。教えて用いられなくても、おこってはいけない。聞かぬからといって捨てるのは不仁というものだし用いぬからといっておこるのは不智というものだ。不仁、不智は徳を積もうとする者の恐れるところだ。だから仁と智と二つを心がけて、わが徳を全うするがよい。(夜話五四)


山も谷も寒気に閉じて、雪は降り凍りついていようとも、柳の一芽が開きそめれば、山々の雪も、谷々の氷もみなそれまでで、ないも同然だ。また秋になって、桐の一葉が落ちそめれば、天下の青葉はやはりそれまでだ。この世界は自転してやまないから、時に会うものは育ち、時に会わぬものは枯れるのだ。午前は東向きの家は日が照るが西向きの家はかげり、午後は西に向くものは日を受けて東に向くものはかげる。この道理を知らぬ者が惑うて、自分は不運だといったり、世も末だなどと嘆くのは誤りだ。

今ここに幾万両の借財があっても、何万町歩の荒地があっても、賢君があってこの道によるときは憂えるに足らない。喜ばしいことではないか。逆に、たとい何百万両の貯蓄があり、何万町歩の領地があっても、暴君があって道をふまず、これも足らぬあれも足らぬと、驕奢慢心、増長に増長を加えてゆけば、さしもの財宝も秋の葉が嵐に散乱するように、消滅してしまうのだ。恐ろしいことではないか。たから私の歌がある。「奥山は冬気(ふゆき)に閉じて雪ふれど、ほころびにけり前の川柳(かわやぎ)」(夜話六一)


翁は折々、労をねぎらうために酒を用いられた。そしていわれた。銘々酒量に応じて、大、中、小どれでもすきな杯をとって、おのおの自分の杯に自分でつぐがよい。献酬をしてはならない。これは宴会を開くのではなく、ただ疲れをいやすためだから。(夜話八〇)


貧となり富となるのは偶然ではない。富にもよってきたる原因があり、貧にもよってきたる原因がある。ひとはみんな、財貨は富者のところに集まると思っているが、そうではない。節倹なところと、勉励するところに集まるのだ。百円の身代の者が百円で暮らすときは、富の来ることも貧の来ることもない。百円の身代を八十円で暮らし、七十円で暮らすときは、富がそこに来、財がそこに集まる。百円の身代を百二十円で暮らし、百三十円で暮らすときは、貧がそこに来、財がそこを去る。ただ分外に進むか、分内に退くかの違いだけだ。(夜話九八)


善因には善果があり、悪因には悪化を結ぶことは、だれでも知っていることだ。しかし、この因果が、目前にきざし目前に現れるものならば、人々は恐れもし、用心もして、善種を植えて悪種を除くはずなのだが、具合の悪いことに、今日まく種の結果は、目前にきざさず、目前に現れないで、十年、二十年から四十年、五十年ののちに現れるものだから、人々は迷ってしまって、恐ろしさを感じない。嘆かわしいことではないか。

こうして善種をまかない上に、前世の宿縁があっては、何ともいたしかたがない。これが世人の迷いの根元なのだ。けれども世の中万般の事物は、原因がないものはなく結果のないものもない。一国の治乱、一家の興廃、一身の禍福、みんなそのとおりなのだ。恐れもし、用心もして、決して迷ってはならない。(夜話一〇〇)


およそ事は、なりゆくべき先を見越して、前もって決めておくことが肝心だ。人は生まれれば必ず死ぬべきものだ。死ぬべきものだということを前に思い定めておけば、生きているだけ日々にもうけものだ。これがわが道の悟りなのだ。生まれ出たからには、死のあることを忘れるでない。夜が明けたら、暮れるということを忘れるでない。(夜話一〇一)


あるひとがいった。私は運が悪いのでしょうか。神明の加護がないのでしょうか。思うことなすこと、食いちがってうまくいきません。翁はさとしていわれた。そなたは心得ちがいをしている。それは運が悪いのでもない、神明の加護がないのでもない。実は神明の加護があり運がよいのだ。ただ、そなたが願うことと、することとが違うからいけない。

だいたいそなたの願いは、うりを植えてなすびをほしがり、麦をまいて米を欲しがるようなものだ。願うことがうまく行かないのではない。できないことを願っているのだ。それでいて、神明の加護がないとか、運が悪いとか言うのは、間違いではないか。およそ、うりをまいてうりがなり、米をまいて米がみのるのは、天地神明の加護なのだ。だから悪事をして刑罰が来、不善をして不幸が来るのは天地神明の加護であって、ちょうど米をまいて米がとれるのと同じことだ。(夜話一〇二)


方位で禍福を論じたり、月日で吉凶を説いたりすることが昔からあって、世間ではこれを信じているが、この道理はありえない。禍福吉凶は方位、日月などとは関係のないもので、これを信ずるのは迷いだ。悟道家は「本来東西なし」とさえいうではないか。禍福吉凶というものは、人それぞれの心と行いの招くところに来る。また過去の因縁によって来る場合もある。ある名僧が強盗にあったときの歌に「前の世の借りを返すか今貸すか、いずれ報いはありとしぞ知れ」とよんだとおりだろう。決して迷ってはならない。

だいたい盗賊は鬼門からはいるわけではない。悪日ばかりに来るのではない。戸締まりを忘れれば賊ははいってくると思え。火の用心を怠れば火災が起こるだろう。ためしに戸をあけておいてみるがよい、犬がはいってきいて食いものをあさるだろう。これは眼前わかりきった話だ。古語に「積善の家に余慶あり。積不善の家に余殃(よおう。災い)あり」とあるが、これは万古を貫いて動かぬ真理だ。決して疑ってはならない。これを疑うのを迷いという。

米をまいて米がみのり、麦をまいて麦がみのるのは眼前のことで、年々歳々ちがうことはない。それが天理であるからだ。世に不成就日というものがあるが、この日にすることがずいぶん成就する。吉日だからといってしたことが必ずしも成就するわけではない。吉日を選んでした婚姻も離縁になることがあるし、日を選ばずに結婚したのに共白髪(ともしらが)までゆくのもある。だからこのようなことは決して信じてはならぬ。

信ずるべきものは「積善の家余慶あり」の金言だ。けれども、この余慶も余殃も、必ずしもすぐに回ってくるものではない。百日でみのるそばもあり、秋にまいて来年の夏みのる麦もある。ことわざに「桃栗三年柿八年」というように、因果にも応報にも遅速があることを忘れてはならない。(夜話一〇四)


吉凶、禍福、苦楽、憂歓などは相対するものである。なぜかといえば、ねこがねずみをとったときは楽しみの極みだが、捕らえられたねずみはくるしみの極みだ。へびの喜びが極まるときはかえるの苦しみの極まり、たかの喜びが極まるときはすずめの苦しみが極まる。猟師の楽は鳥獣の苦、漁師の楽は魚の苦だ。世の中のことはみんなこのとおりで、こちらで勝って喜べば、あちらは負けて悲しむ。こちらが田地を買って喜べば、あちらは田地を売って悲しむ。こちらは利益を得て喜べば、あちらで利益を失って悲しむ。人間世界はみんなこのありさまだ。

ところで、あちらも喜び、こちらも喜ぶ道がないはずはないと考えてみると、天地の道と、親子の道と、夫婦の道と、そして農業の道と、この四つがある。これこそ法則とすべき道なのだ。よく考えるがよい。(夜話一〇五)


善悪の論ははなはだむずかしい。本来を論ずれば、善もなく、悪も無い。善といって区別するから悪というものができるのだ。もともと人間の身勝手な都合からできたもので、私のいう人道のうえのものなのだ。それゆえ、人間がなければ善悪はない。人間があって、それからのちに善悪があるのだ。だから、人間は荒地を開くのを善として、田畑を荒らすのを悪とするけれども、いのししやしかのほうでは、開拓を悪として荒らすのを善とするだろう。盗びと仲間では盗みを善として、これを取り締まるほうを悪とするだろう。(夜話一〇七)


富と貧とは元来遠く隔たったものではない。ほんの少しの隔たりであって、その本源はただ一つの心得にあるのだ。貧者は昨日のために今日勤め、昨年のために今年勤める。それゆえ終身苦しんでもそのかいがない。富者は明日のために今日勤め、来年のために今年勤めるから、安楽自在ですることなすことみな成就する。

それを世間の人は、今日飲む酒がないときは借りて飲む。今日食う米がないときは又借りて食う。これが貧窮に陥る原因なのだ。今日たきぎを採って明朝飯をたき、今夜なわをなって明日垣根をゆえば、安心でありさしつかえもない。ところが貧者のしかたは、明日採るたきぎで今夕の飯をたこうとし、明晩なうなわで今日垣根をゆおうとするようなものだ。だから苦しんでも成功しない。

そこで私はいつも言っているのだが、貧乏人が草を刈ろうとして鎌がない場合、これを隣から借りてきて草を刈るのが常のことだが、それが貧窮から抜け出られぬ根本の原因なのだ。鎌がなければまず日傭(ひよう)取りをするがよい。その賃銭で鎌を買い求めて、それから草を刈るがよい。この心のある者は富貴を得るし、この心のない者は富貴が得られない。(夜話一一〇)


その分限によっては、朝夕美味美食に飽きて、にしきの着物を着ておろうと、玉をちりばめた家に起きふししようと、おごりではない。また分限によっては、米の飯もおごりなら茶もたばこもおごりなのだ。(夜話一一一)


大きな事をしたいと思えば、小さな事を怠らずに勤めるがよい。小が積もって大となるからだ。およそ小人の常として、大きな事を望んで小さな事を怠り、できにくいことに気をもんで、できやすいことに勤めない。それゆえ、ついに大きな事をなしとげられない。それは小を積んで大となることを知らないからだ。たとえば、百万石の米といっても粒が大きいわけではない。一万町歩の田を耕すのも、一くわずつの手わざでできる。千里の道も一歩ずつ歩いて行きつくのだし、山を作るにも一もっこの土を重ねてゆくのだ。この道理をはっきりわきまえて、精を出して小さな事を勤めてゆけば、大きな事は必ずできあがる。小さな事をいい加減にする者は、大きな事は決してできぬものだ。(夜話一一四)


世間の人は、とかく小事をきらって大事をのぞむけれども、本来、大は小の積もったものだ。だから、小を積んで大をなすほかに方法はない。いま、日本国中の田は広大無辺といってよいほどある。ところがその田地は、みんな一くわずつ耕し、一株ずつ植え、一株ずつ刈りとるのだ。その田一枚を耕すのに、くわの数は三万以上になる。その稲の株数は、一万五千内外もあろう。みんな一株ずつ植えて、一株ずつ刈りとるのだ。その田からみのった米粒は、一升で六万四千八百余粒あるし、この米を白米にするには、一うすのきねの数は千五六百以上になる。その手数を考えてみるがよい。だからして、小事を勤めねばならぬいわれがよく知れよう。(夜話一一六)


金持で小道具を好む者は、大事をなしとげられぬものだ。貧乏人ではきもの、たびなどを飾る者は、立身はできぬものだ。また、人の多く集まって雑踏するところには、良いはきものをはいてゆかぬがよい。良いはきものは紛失することがある。悪いのをはいていって、もし紛失したならば、探さずに、買い求めてはいて帰るがよい。混雑の中で探し回って人に迷惑をかけるのは、粗末なはきものをはいているのより見苦しい。(夜話一一七)


農家は、作物のために一途につとめて、朝夕力を尽くしていれば、自然と、願い求めずに穀物が蔵に満ちる。穀物が蔵にあれば、呼ばなくても魚売りも来れば小間物屋も来て、何もかも安楽自在だ。また、村里を見るとき、生垣も丈夫で、住まいの掃除も行きとどいて、積み肥も沢山積み重ねてあるのは、何となく福々しいが、そういう家の田畑は必ずすみずみまで行きとどいて、作物の出来も平らで、穂先がそろって、見事なものだ。

これに反して、出来が平らでなく、穂先もそろわず、ひえがあったり草があったり、何となく見苦しい田畑の作り主の家は、生け垣も破れて、住まいも不潔なものだ。また、一種の不精者で、困窮しながら住まいだけは清潔に住むものがある。これは生垣その他も行きとどいてはいるが、家の中に俵もなし、農具もなし、庭には積み肥もなくて、何となくさびしいものだ。

また、人心の融和のない村里は、囲いの竹木も不ぞろいで、道路は悪いし、堰や用水路に笹が茂るなど、見苦しいものだ。こういう見方は、おおよそ違わないはずだ。(夜話一二三)


何ほど勉励しても、何ほど倹約しても、年の暮れにさしつかえるようでは、勉励も勉励でなく、倹約も倹約でない。「先んずれば人を制し、後(おく)るれば人に制せられる」ということがあるが、倹約も先んじなければ訳に立たない。おくれたら無駄になるなるだけだ。世間の人はこの道理に暗いから、たとえば千円の身代が九百円に減ると、まず一年は借金して暮らす。だから、また八百円に減るのだ。こうなって初めて倹約して、九百円で暮らすから、また七百円に減る。するとまた改革をして八百円で暮らす。年々こんなことをしてゆくから、労して功なく、ついに滅亡に陥るのだ。この時になって、おれは不運だなどというが、不運なのではない。おくれたために借金に制せられたのだ。分かれ目はただこの一挙、先んずるかおくれるかの相違にある。

千円の身代で九百円に減ったならば、すみやかに八百円に引き去って暮らしを立てるがよい。八百円に減ったならば、七百円に引き去るがよい。これを先んずるというのだ。たとえば難治の腫れ物ができたときは、手でも足でも断然切って捨てるようなものだ。これを姑息に流れてぐずぐずしていると、ついに死んでしまって、悔いても及ばぬことになる。恐ろしいではないか。(夜話一二四)


多くかせいで銭を少なくつかい、多くたきぎをとってたくことは少なくする。これを富国の大本、富国の達道という。ところが世間の人はこれを吝嗇といい、強欲というが、それは心得ちがいだ。なぜなら、人道は自然に反して、勤めることによって立つ道なのだから、当然貯蓄を尊ぶのだ。その貯蓄ということは、今年の物を来年に譲る一つの譲道なのだし、親の身代を子に譲るのも、貯蓄の法に基づくものだ。こうしてみると、人道は貯蓄一つで成り立つとさえいえる。だからして、富国の大本、富国の達道というのだ。(夜話一二五)


「毫厘(ごうりん。ごうり)の差、千里の違い」ということがある。人はみんな、たとえ話と思っているが、私が利倍帳を調査したとき、二カ年目の利子に永一文の違いがあったら、百八十年目になって百四十一万九千八百九十五両永二百九十四文九分五厘の差となった。実に毫厘千里であって、たとえではなく実際のことなのだ。恐るべきではないか。(夜話一二六)


私はいつも人に、一日十銭とって足らなければ九銭とるがよい。九銭とって足らなければ八銭とるがよい、とさとしている。人の身代というものは、多くとればますます不足を生じ、少なくとっても不足がないものだ。これは理外の理というものだ。(夜話一二七)


何ほど富貴であっても、家法を節倹に立てて、驕奢に流れることを厳禁するがよい。ぜいたくは不徳の源であり、滅亡のもとでもある。なぜかといえば、ぜいたくを求めるところから、利をむさぼる気分が増長して、慈善の心は薄らぐ。そして自然に欲が深くなって吝嗇に陥る。それから知らずしらず職業も不正になって行って、ついに災いを生ずるのだから、恐ろしいことだ。

何ごとも習い性となり、馴れて常となっては、しかたのないものだ。遊楽に馴れれば面白いこともなくなり、うまいものに馴れればうまいものもなくなってくる。これは、自分で自分の楽しみを減ずるようなものだ。また、若い者は、酒を飲むのもたばこを吸うのも、月に四五度に限って、酒好き、たばこ好きにならぬようにするがよい。馴れて好きとなり、くせとなっては生涯の大きな損だ。つつしまねばならぬ。(夜話一二九)


一言を聞いても人の勤惰はわかるものだ。東京は水さえ銭が出るというのは、なまけ者だ。水を売っても銭がとれるというのは働き者だ。すべての事を、下に目を付け、下に比較するのは、必ず下り向きのなまけ者だ。たとえば、碁を打って遊ぶのは酒を飲むよりましだ、酒を飲むのはばくちよりましだという類がそれだ。反対に、上に目をつけ、上に比較するのは、必ず上向きの者だ。(夜話一三〇)


川久保民次郎という者があった。翁の親せきであるが、貧しくて翁の下男をしていた。それが国に帰るためいとまごいをした。そのとき翁はいわれた。空腹のときに、よそへ行って、飯を食わせて下さい、そうしたら庭を掃きましょう、といっても、決して一飯(いっぱん)をふるまう者があるはずはない。空腹をこらえてまず庭を掃いたら、あるいは一飯にありつくこともあるだろう。これが、おのれを捨てて人に従う道であって、百方手段が尽きはてた時でも、行われうる道なのだ。

私が若いころ、初めて家を持ったときに、一枚のくわが破損してしまった。隣の家に行ってくわを貸して下さいといったら、隣のじいさんは、今この畑を耕して菜をまこうとするところだ、まき終わらねば貸してやれない、という。私は家に帰っても別にする仕事がないから、私がその畑を耕してあげましょうといって耕して、それから菜の種をお出しなさい、ついでにまいてあげましょうといって、耕した土の上にまいて、その上でくわを借りたことがある。そうしたら隣のじいさんは、くわにかぎらず何でもさしつかえの事があったら、遠慮なくいって下され、必ず用だてましょう、といったことがあった。こんなふうにすれば、百事さしつかえのないものだ。そなたが国に帰って、新しく一家を持ったときは、必ずこの心得でやるがよい。

そなたはまだ元気盛りだ。ひと晩ぢゅう寝なくても障りはあるまい。毎晩寝るひまをさいて、精を出してわらじ一足でも二足でも作る。そうしてあくる日開墾地に持って行って、わらじの切れた人、破れた人にやる。受けとって礼をいわれなくても、もともと寝るひまに作ったものだから、寝た分と思えばよい。礼をいう人があれば、それだけの徳だ。もし一銭半銭を礼にくれる者があれば、これまたそれだけの利徳だ。よくこの道理を感銘して、連日怠らなければ、一家確立の志しの貫かれぬ筋合いはない。何ごとでも成就しないはずはない。私が幼少の時の努力は、これ以外になかったのだ。肝に銘じて、忘れるでない。

また、損料(そんりょう。借り賃)を出してさしつかえの品物をととのえるのを大損だという人があるが、そうではない。それは事足りる人にとってのことだ。新たに一家を持つ時には、何でも足りないものばかりだ。それはみんな損料でととのえるがよい。世に損料ほど便利なものはないし、また安いものはない。決して損料を高いもの、損なものと思ってはならぬ。(夜話一三一)


瓦というものは、みがいても玉にはならぬ。けれども幾ぶん光を生じて、なめらかにはなる。これが学びの徳なのだ。また、無知のものはよく心掛けて、ばかなことをしないようにするがよい。生まれつきばかであっても、ばかなことをさえしなければ、ばかではない。智者であっても、ばかなことをすれば、ばかになるのだ。(夜話一三四)


そなたは家に帰ったら商業に従事するのだろうが、売買をしても決して金をもうけようなどと思ってはならぬ。ただ商道の本意を勤めるがよい。商人たる者が商業の本意を忘れたならば、眼前は利益を得ても、とどのつまりは滅亡を招くほかはない。よく商道も本意を守って勉励すれば、財宝は求めなくても集まってきて、どこまで富み栄え、繁盛するか、計り知れない。このことを決して忘れるでない。(夜話一四四)


千円の資本で千円の商業をするときは、はたから見てあぶない身代だという。千円の身代で八百円の商業をするときは、はたから見て、小さいが堅い身代だという。この、堅い身代だといわれるところに、味があり益があるのだ。ところが世間の人は、百円の元手で二百円の商売をするのを働き者だといっている。大きな誤りというべきだ。(夜話一四五)


何ごとにも変通(へんつう。状況に応じて変化適応していくこと)ということがある。これは心得ておかねばならない。別のことばでいえば権道(けんどう。手段としては道に外れているが、結果から見て道に合っている行き方)だ。困難なことを先にするのは聖人の教えで、それは、たとえば、まず仕事を先にして、それから賃金を取れというように教える。しかし、たとえば農家に病人などがあって、耕作や除草が手遅れになっているようなとき、草の多い所を先にするのは世上一般のやりかただが、このようなときに限って、草が少なくて、いたって手軽な畑から手入れをして、草のいたって多い所は最後にするがよい。これは最も大切なことだ。

いたって草が多くて、手重な所を先にするというと、大いに手間どれて、その間に草の少ない畑もみな一面に草になって、どれもこれも手遅れになるものだから、草が多くて手重な畑は、五畝や八畝は荒らしてもままよと覚悟して、しばらく捨てておき、草が少なくて手軽な所から片づけるがよい。それをしないで手重な所へ掛かって、時日を費やしていると、総体の田畑が順々に手入れが遅れて、大きな損になるのだ。国家を復興するのも同じ道理であって、心得ておかねばならない。

また、山林を開拓する場合に、大きな木の根はそのまま差しおいて、まわりを切り開くがよい。そうして三四年もたてば、木の根は自然と朽ちて、力を入れずに取れるのだ。これを開拓のときに一時に掘り取ろうとしても、労が多くて功が少ない。百事このとおりで、村里を復興しようとすれば必ず反抗する者がある。その扱い方もこの道理であって、決して取り合わず、さわらずに、度外に置いてわが勤めを励むがよい。(夜話一四七)


何事でも、為しとげようとするならば、最初から、終わりにどうなるかを見定めておかねばならない。たとえば木を切る場合でも、切らない前に、木の倒れるところをはっきり決めておかなければ、倒れる段になってどうにもしようがない。だから、私が印旛沼(いんばぬま)を検分する時も、仕上げの検分まで一度にしようといって、どのような異変があっても失敗のない方法を工夫したのだ。

相馬侯が興国の方法を依頼された時も、着手する前に過去百八十年間の収納額を調べて、分度の基礎を立てた。それは、荒地開拓ができあがった時の用心なのだ。わが方法は、分度を定めることを本とする。この分度を確固と立てて厳重にこれを守ってゆくならば、荒地が何ほどあっても、借財が何ほどあっても、何の恐れも心配もない。わが富国安民の法は分度を定めること一つにあるからだ。

そもそも、皇国は皇国だけの広さであって、限りがある。これをそれ以上に広くすることは決してできない。してみれば、十石の者は十石、百石の者は百石と、それぞれの分を守るほかに道はない。百石を二百石に増し、千石を二千石に増すことは、一軒の家ならできる相談だが、一村一同ですることは決してできない。やさしいように見えて、はなはだむずかしいことなのだ。

それゆえ、分度を守ることをわが道の第一の眼目とする。よくこの道理をわきまえて分を守れば、まことに安穏な生活ができるから、杉の実を採って苗を仕立て、山に植えて、その成木するのを待って楽しむような気分になる。分度を守らなければ、先祖から譲られた大木の林を、一時に切り払っても間に合わぬようになってゆくことが、目に見えている。分度を越える過ちは恐るべきものだ。

財産のある者は、一年の衣食がこれで足りるというところを決めて分度とし、分度外は多少にかかわらず譲って世のためになることをし、こうして何年も積んで行ったならば、その功徳たるや無量だろう。釈迦は世を救うために国も妻子も捨てた。世を救う志があるならば、おのれの分度外を譲ることぐらい、どうしてできないはずがあろうか。(夜話一四九)


矢野定直が来て「それがし、今日思いも寄らず結構な仰せをこうむりまして、ありがたく存じております」といった。翁はいわれた。そなたが今の一言を、生涯一日のように忘れないでおれば、ますます立身し、ますます富み栄えることは疑いない。そなたが今日の心を分度と定め、土台として、この土台を踏みたがえずに生涯を終るならば、それは仁であり忠であり孝であり、どこまでよい成果をあげるかわからぬほどだ。

およそ人々が成功をして、たちまち失敗するのは、結構に仰せつけられたことを当たり前のことにして、その結構を土台にして踏みつけてゆくからだ。始めの違いがこうだから、末は千里の違いになることは必然だ。人々の身代も同様であって、分限の外にはいってくるものを分内に入れずに、別にたくわえておくならば、臨時の物いり、不慮の入用などにさしつかえるということはないものだ。

また、売買の道も、分外の利益を分外として、分内に入れないでおけば、分外の損失はないはずだ。分外の損というのは、分外の利益を分内に入れるからできるのだ。わが道が分度を定めることを大本とするのは、こういうわけなのだ。分度が一たび定まれば、譲り施す徳功が自然とできてゆくはずだ。そなたが今日、思い寄らず結構に仰せつけられてありがたくぞんじますといった一言は、生涯忘れてはならない。それは私がそなたのために祈ってやまないところだ。(夜話一五一)


某藩のある藩士が、江戸詰で顕職を勤めていたが、ある日お役御免の命令が出て、帰国することになった。私は彼のところに行っていとまを告げ、こういった。

あなたがこれまでに驕奢を尽くされたことは、実に意外のことですが、職務上必要だったのなら、是非もないでしょう。いま帰国しようというときには、これまで用いてきた衣類諸道具などは、みな分不相応の品です。これを持ち帰ったら、あなたの驕奢も下火にならず、妻子その他の係累も同様にぜいたくがやまないでしょう。それではあなたの家は財政はたんで滅亡に及ぶ。恐ろしいではありませんか。

だから、刀は折れず曲がらず、よく切れて飾りのないのを残して、その他は衣類諸道具など一切、これまで使ってきた品々を残さず、親戚や友人や懇意出入りの者などに形見として与えてしまって、普段着寝巻のままで、ただ妻子だけを連れて帰国なさい。一品も国に持って行ってはいけません。これがぜいたくを退け、おごりの気持ちを断つ秘伝です。そうしなければ妻子けん族までしみこんだぜいたくが決して退かず、あなたの家がついに滅びることは、鏡にかけて見るように明らかです。迷ってはいけません」

と、懇々と教えたけれども、彼はこの忠言を用いることができないで、一品も残さず舟に積んで持ち帰って、その品物を売り売り生活を立てていたが、ついに売り尽くして、言いようのない困窮に陥り果てた。嘆かわしいことだ。これは、分限を忘れ、驕奢に慣れて、天をも恐れず人をもはばからなかった過ちだ。自分の驕奢が分に過ぎていると本当に気がつけば、その藩に対しても、はばからなければならぬはずだが、この場合は、驕奢に馴れてみずから驕奢と気がつかなかったのだ。実に嘆かわしい。(夜話一五二)


人の身代はおおよそ限度があるものだ。たとえば鉢植えの松のようなもので、鉢の大小によって松にも大小があるが、緑を伸び放題にしておけば、たちまち枯れ気がつくものだ。年々に緑をつみ、枝をすかして、はじめて美しく栄えるのであって、心得るべきことだ。この道理を知らず、春は遊山に緑を伸ばし、秋は月見に緑を伸ばし、こういうわけでよんどころない交際だといっては枝を出し、親類のつきあいといっては梢を出して、分外に伸び過ぎて、枝葉がしだいにふえてゆくのを切り捨てないでおけば、身代の松の根がだんだんに衰えて、枯れ果てるに決まっている。だから、その鉢に応じた枝葉を残し、不相応の枝を年々に切りすかさねばならぬ。これは最も肝要なことだ。(夜話一五三)


ある人がいった。一食に米一勺(いっしゃく)ずつ減らせば、一日に三勺、ひと月に九合、一年に一斗余、これが百人で十一石、千人で百十石になります。この計算を人民にさとして、富国の基を立てたらどうでしょうか。

翁はいわれた。その教えかたは、凶作のときにはよろしいが、平年にそんなことはいわぬがよい。なぜかといえば、凶作の年には食物をふやすことができないが、平年には、一反に一斗ずつ増収すれば、一町で一石、十町で十石、百町で百石、一万町で一万石になる。富国の道は、農業を奨励して米穀を増産することにある。なんで減食などという必要があろうか。いったい下積みの民衆は、ふだんの食事も十分でないから、十分に食いたいと思うことこそ常ふだんの念願で、飯の盛りかたが少ないのさえ不快に思うものだ。それなのに、一食に一勺ずつ少なく食えなどということは、聞くだけでもいまいましく思うだろう。

仏教の施餓鬼供養でホドナンバンナムサマダと繰りかえし繰りかえし唱えるのは、十分に食い給え、たくさんに食い給えということだそうだ。だから施餓鬼の功徳は十分に食えということにある。だから、一般民衆をさとすには、十分に食って十分に働け、たくさん食って骨限りかせげといって、土地を開いて、米穀を増産して、物産が繁殖するように努めるがよい。勤労が増せば土地は開け、物産が繁殖する。物産が繁殖すれば商業も工業も従って繁栄する。これが国を富ます本筋なのだ。(夜話一六〇)


村長や富裕の者は、常々質素なものを着ているだけでも、その功徳は無量なのだ。なぜなら、大衆のうらやむ気持ちをなくすからだ。まして、分限をつづめてよく譲るならば、その功徳たるや、いうもおろかだ。(夜話一六一)


およそ、手もとにはいるのは出ていったものが帰るのだ。手もとに来るのは推(お)し譲(ゆず)ったものがはいってくるのだ。たとえば農民が田畑のために精を出して、こやしをかけたり干鰯(ほしか)をやったり、作物のために力を尽くせば、秋になって収穫が必ず多いことはいうまでもない。商業もこれを同じで、おのれの利益だけをもっぱら考えて買い手のためを思わず、むやみにむさぼっていれば、その店の衰微は眼前だろう。(夜話一六三)


とらやひょうなどは無論のこと、くまやいのししなどを見るがよい。木を倒したり、根を掘ったり、その強いことたとえようもないが、またその労力もたとえようがない。しかも終身苦労して安堵の地を得られないのは、譲ることを知らず、生涯おのれのためばかりしているから、労して功がないのだ。

たとい人と生まれても、譲りの道を知らなかったり、知っていても勤めなかったりでは、安堵の地を得られないのは鳥獣と同じことだ。だから、人たるものは、知恵はなくとも、力は弱くとも、ことしのものを来年に譲り、子孫に譲り、他人に譲るという道をよく心得て、よく実行しさえすれば、必ず成功すること疑いない。その上また、恩に報いるという心得がある。これも心得ねばならず、どうしても勤めねばならない道なのだ。(夜話一六八)


十銭とって十銭つかい、二十銭とって二十銭つかい、宵越しの銭を持たぬなどというのは、鳥獣の道であって人道ではない。(中略)雇い人となって給金をとって、その半分をつかって半分を将来のために譲り、あるいは田畑を買ったり家や蔵を立てるのは、子孫へ譲ることだ。これは世間の人々が知らず知らず行っていることで、これでもちゃんと譲道(じょうどう)なのだ。

これより上の譲りは教えに寄らなければできにくい。これより上の譲りとは何かといえば、親類、友人のために譲ることだ。郷里のために譲ることだ。なおできにくいのは国家のために譲ることだ。この譲りでも、しょせんは自分の富貴を維持する結果となるのだけれども、眼前、他に譲ることだからむずかしいのだ。だから家産のある者は、つとめて家法を定めて、推譲(すいじょう)を行うがよい。(夜話一七一)


世の中で刃物をやりとりするのに、刃の方を自分の方に向け、柄の方を先方に向けて出しているが、これが道徳の本意なのだ。この心を押し広めることができれば、道徳は完全だろうし、人々がみんなそうなれば、天下は太平だ。刃先を手前にして先方に向けないのは、万一間違いがあったときに、わが身には傷がついても、ひとに傷をつけまいという気持ちなのだ。だから、万事そのような心掛けで、自分の身上には損をしても、ひとの身上に損はかけまい、自分の名誉はそこねても、他人の名誉には傷をつけまいという精神ならば、道徳の本体は完全だといえよう。それから先はこの心を押し広めるだけだ。(夜話一七四)


桜町の領主、宇津氏の馬が厩(うまや)から放たれて邸内を駆けまわっていた。人々が大いに騒ぎ立てていると、別当が出てきて、静かになさい静かになさいといって、飼葉桶(かいばおけ)をたたいて小声で呼んだところ、さしも荒々しくはねまわっていた馬が急に静まって、おとなしく飼い葉についた。翁はこれを見ていわれた。

そなたたち、よく心得るがよい。世の中は何もむずかしいことは決してない。犬も、来い来いというばかりでは来ないが、時々食いものをやって呼べばすぐに来る。なすもならなれといってなるものではない。肥やしをすれば必ずなる。ねこの背中でも、毛並みになでれば知らぬふりをして眠るし、逆さになでるといっぺんでつめを出す。私が桜町を治めるにも、この道理にのっとって、勤めて怠らなかっただけなのだ。(夜話一七五)


世の中が無事に治まっていても、災害というような、変事がないとは限らない。これが第一に用心しなければならぬことだ。変事が仮にあっても、これを補う道が備わっていれば、変事がなかったも同然になるが、変事があってこれを補うことができなかった場合は、それこそ大変なことになる。古語に「三年の蓄えなければ国にあらず」といっている。外敵が来たとき、兵隊だけあっても、武器や軍用金の準備がなければどうしようもない。

国ばかりでなく、家でも同じことで、万事ゆとりがなければ、必ず差しつかえができて、家が立ちゆかなくなる。国家天下ならなおさらのことだ。人は、わが教えのことを、むやみに倹約ばかりさせるというが、むやみに倹約するのではない。変事に備えるためなのだ。また、わが道のことを貯蓄ばかりさせるというが、貯蓄が目的なのではない、世を救い、世を開くことが目的なのだ。(夜話一八三)


あの村のあの男は強欲で、せっせと金をためているが、隣に難儀をしている者があっても救わない。貧窮に陥る者があっても哀れまない。金を貸したらひどいやりかたで高利をむさぼって、村内から恨みを買っても平気でいる。実に憎むべき行状のようだが、一方、彼が農業に精出すところを見てみると、近郷に比類のない働きかただ。蒔き仕付け、草取り肥やしかけと、時をたがえずきちんとやるし、春は野原で草を刈る、秋は山林で落葉をかく。夏は炎暑をいとわず、冬の雪霜を物ともせずに、朝早くから夜おそくまで、農事に力を尽くしている。実に勤勉の至りといってよい。

聖賢が農業をつとめたとしてもあれ以上のことはできまいし、作物のために尽くせば秋になってみのりの多い道理を、お釈迦さんでもあれ以上よく悟ることはあるまい。もし彼がこの道理を人と人との間に用いて、自分が立派にやっている農業技術を人にも教えて、郷里のためにまごころの限りを尽くしたならば、さながら聖賢の姿になるだろうに惜しいことだ。この地方の賢人と呼ばれるだろうに惜しいことだ。私が言い聞かせたが悟れない。惜しいことだ。(夜話一八五)


惰風がきわまっている村里の気風を刷新するのは、非常にむずかしいことだ。どうしてかといえば、法で戒めても守らない、命令しても行わない、教を施しても聞こうとしない。そういう連中なのだから、家業に精励させる、頭を義にむけされるといっても、実にむずかしいことなのだ。私がむかし桜町陣屋に来たところが、配下の村々は、怠惰のきわみ、汚風のきわみで、何ともしようがない。

そこで私は、深夜とかあるいは未明に、村里を巡回することにした。なまけ者を叱るのではない。朝寝を戒めるのでもない。良いとか悪いとか、勤勉とか怠惰とか、一切いうことを避けて、ただ自分の勤めとして巡回を続けて、寒くても暑くても、雨風のときでも休まなかった。そうして一、二ヶ月もたつと、ようやく足音を聞いて驚く者がでてくる。足跡を見て不思議に思う者がでてくる。また、まともに出会う者もある。それから村民同志の間に戒め合う気持ちや、うかうかしてはおられぬぞという気持が生じて、数ヶ月のうちに、夜遊び、ばくち、けんかなどはもちろん、夫婦の間にも小百姓の間にも、いさかい合う声が聞かれないようになった。

ことわざに「権兵衛が種まきゃからすがほじくる、三度に一度は追わずばなるまい」というのがある。もとより民間のざれ歌だけれども、政治行政の任にある者はこれを心得ておかねばならぬ。からすが田畑を荒らすのは、からすの罪ではない。田畑を守る者が追わないからいけないのだ。政道を犯す者があるのも、官吏がこれを追わないからいけないのだ。そうして、これを追う追い方も、権兵衛が、追うことは懸命に追うが、本気でつかまえようとしない、そのやりかたと同様でありたいものだ。このざれ歌は、そういう訳で政治行政の本意にかなっている。いなかの歌だが、ぜひ心得ておかねばならない。(夜話一八八)


およそ、田畑が荒れるのは惰農の罪だといい、人口が減ずるのは産んだ子を育てずに殺す、悪習のせいだというのが普通の議論だが、どんな愚民だとて、ことさらに田畑を荒らして自ら困窮を招くはずがあろうか。また、鳥や獣ではあるまいし、親子の情がないはずがあろうか。それなのに産んだ子を育てないのは、食物が乏しくて、育てきれないためなのだ。その本当の気持を察してやれば、哀れといって、これほど哀れなことはない。その元はといえば、重い課税に耐えられぬために田畑を捨てて作らないことと、民政が行き届かぬために堤防や用排水や道、橋が破壊して、耕作困難になることと、ばくちが盛んに行われて風俗が退廃し、まともな民心が失せはてて耕作しなくなること、この三つだ。(夜話一八九)


私が始めて桜町に来たとき、土地の悪賢い連中が争って私に賄賂をしてきた。私がちりほども受けなかったから、それから善悪、正邪がはっきりしてきて、信義誠実の者が初めて表に出るようになった。とにかく、最も恐るべきはこの賄賂なのだ。そなたたち、誓ってこんなものに汚されぬようにせねばならぬ。(夜話一九〇)


富家の主人というものは、何をいっても御もっとも御もっともと錆びつく者ばかりで、砥石に出会って研ぎ磨かれることがないから、慢心が生ずるのだ。たとえばここに正宗の名刀があっても、研ぐことも磨くこともなく、錆びつくものばかりと一緒に置けば、たちまち腐って紙も切れないようになるだろう。そのように、三味線ひきや太鼓もちなどとばかりつき合っていて、それも御もっとも、これも御もっともと、こびへつらうのを喜んで明かし暮らして、忠告をしてくれる友人が一人もいないとしたら、まことにはや危ないことだ。(夜話一九一)


官位や俸禄(ほうろく)や家柄があって世に知られ、人に用いられるのは、その官位や俸禄や家柄があるからのことだ。そういうものなしで世に知られ、人に用いられている者は、仕事が卑しいように見えても、決して侮れない。それは生まれつきすぐれた人だからだ。六尺手回り(武家の下男)の頭、雲助の頭などにそういう者がいる。

先日火事があったとき、私が火の見にあがって見ていたら、当節江戸で名高い、人に知られた男伊達という男が、湯からあがってぶらぶら来る所へ、火消しが大勢どやどやと来掛かったが、中の一人が水たまりに飛びこんで、男伊達に泥をあびせて走り去った。彼はにっこり笑って、「きょうのこの場だ。そうせい」といいながら、少しもおこる色がなく、そばにあった天水おけで泥を洗って、静々と行き過ぎた。その容体のおとなしさ、「威あって猛(たけ)からず、恭しくて安し」ともいうべき形が、何ともはや立派で、まことに感服した。庶民だからとて侮ってはならぬ。仕事が低いからとて卑しんではならぬ。(夜話一九四)


遠い先のことを考える者は富み、近まのことばかり考える者は貧乏する。遠い先のことを考える者は、百年先のために松、杉の苗でも植える。まして、春植えて秋みのるものなど当たり前のことだ。だから富裕でいられる。ところが目先のことばかり考える者は、春植えて秋みのるものさえ、まわりくどいといって植えないで、ただ眼前の利益に迷って、まかずにとり、植えずに刈るようなことばかりに目をつける。だから貧窮するのだ。

まかずにとり、植えずに刈るようなものは、眼前に利益があるように見えるが、一度とったら二度と刈れない。ところが、まいてとり、植えて刈るものは、年々歳々尽きることがない。だから無尽蔵というのだ。仏教で福聚の海(ふくじゅのうみ。観音経)というのもこれと同じ意味だ。(夜話一九五)


翁がある村を巡回されたとき、怠惰、無気力で掃除さえしない者があった。そこで、こんな不潔きわまることにしておくと、お前の家はいつまでも貧乏神のすみかになるぞ。貧乏からのがれたければ、まず庭の草をとって、家のうちを掃除するがよい。また、こんなに不潔では疫病神も宿るに相違ない。だから、よく心掛けて、貧乏神や疫病神がおられぬように掃除せい。

家の中にきたない物があればくそばえも集まるし、庭に草があればへびやさそりが得たりとばかり住むのだ。肉が腐ればうじが生ずる。水が腐ればぼうふらが生ずる。そのように、心や身が汚れて罪とがが生ずるし、家が汚れて病気が生ずるのだ。おそろしいものだぞ、とさとされた。(注。さそりは日本では南西諸島と小笠原諸島にだけ生息している
。昔はジガバチをさそりと呼んでいたという)

また、小さな家だが内外が小ざっぱりしたのが一軒あった。翁は、あれは多分、遊惰無頼のばくち打ちのたぐいだろう。家の中を見るに俵がないし、良い農具もない。農家の罪人というべきものだろう。といわれた。随行の村役人は、その明察に驚いた。(夜話一九六)


村里の荒廃を興すには、金を投じなければ人がついてこない。金を投ずるのに道があって、受ける者がその恩に感じなければ益がないのだ。広い天下のことゆえ、金を出す善人も少なくない。それでいて、堕落した風俗を洗い流し、すたれた村を興すところまで行かないのは、みんなその道が当を得ないためだ。

だいたい村長とか、重立って何かやろうという者は、必ずその村の富者なのだ。たといそれが善人で、よく施したとしても、自分が驕奢でいるものだから、受ける者が恩を恩とも思わずに、そのぜいたくをうらやんで、おのれの驕奢をやめない。分限を忘れた過ちを改めない。だから無益なのだ。

それだから、村長の任にある者は、自らへりくだって身をつづめて、富を誇らずぜいたくをせず、慎んで分限を守って、余財を推し譲る。そうして村の害を除く、村の益を起す、困窮者を助ける。そうすれば村民はみんなその誠意に感じて、ぜいたくしたい気分も富貴をうらやむ気分も、救い用捨を求める気分も消え去って、勤労をいとわず、粗衣粗食をいとわず、分限を越していた過ちを恥じて、分限の内で暮らすのを楽しむようになる。こういうふうにしなければ、すたれた村を興し、くずれた風俗を改めるところまでゆかないのだ。(夜話一九七)


道が天下に行われることはむずかしい。天下に道が行われないこと久しいものがある。その才があっても、その力がなければ行われないし、その才、その力があってもその徳がなければ行われない。その徳があっても、その位がなければやはり行われないのだ。

けれども、これは大道を国家天下に行う場合のことであって、道といっても、なすをならせることはなす作りがよくできる。馬を肥やすのは馬方がよくできる。一家をととのえるのは亭主がよくできよう。人々がこうして道を尽くし、家々がこの道を行い、村々がこの道を行ってゆけば、国家が復興しない道理はない。(夜話二〇〇)


世間の人は、苦しまぎれにいろいろのことを考えたり企てたりするから、みんな成功しないのだ。まず安心立命をして、それからよくおもんばかって事をすれば、過ちはないはずだ。(夜話二〇二)


村里の復興には正直な者を引き立てることが肝心で、土地の開拓には肥えた土を盛り立てることが肝心だ。ところが善人はとかく表に出ずに引きこもるくせのあるもので,努めて引き出さなければ出てこない。また肥えた土は必ず低くくぼんだ所にあって、掘り出さなければ表に出ないものだから、それに気がつかないで開拓地をならしてしまうと,肥やし土がみんな土の中に埋まって永久に出てこない。(夜話二〇四)


きこりが深山にはいって木を切るのは、材木が好きで切るのではない。炭焼きが炭を焼くのも,炭が好きで焼くのではない。ところが、きこりでも炭焼きでも、その職業さえ勉励すれば、白米も自然に山に登るし、海の魚も、里の野菜も、酒も油も、みんなひとりで山に登るのだ。奇奇妙妙の世の中というべきだ。(夜話二一一)


ある村に貧乏人の若者があった。ひどく困窮していたが心掛けがよく、「今日の貧乏は前世の因果だろうから、余儀ないことだ。しかし何とかして田地を昔に戻して、年とった父母を安心させたい」といって、昼夜,農事に精励していた。あるひとが、両親の意向だといって、嫁を迎えることを勧めた。すると彼は「私は至ってばかで、能もなし、金をもうけるすべを知らないから、できることは農業に精出すことだけです。だから考えてみて、妻を持つことを遅くするほかには良い策はないと決心していますから」といって固持した。

翁はこれを聞いていわれた。それは実に立派な心掛けだ。事業を成しとげようとする者はもちろん、一芸に志す者でも、それが良策だろう。人の生涯には限りがあるし、年月は延ばすわけにはゆかない。してみれば妻を持つことを遅くする以外に有益な方法はないだろう。まことに良い志だ。(夜話二一二)


不仁の村を仁義の村にすることは、そんなにむずかしいことではない。まず自分自身が道をふんで、おのれの家を仁にすることだ。おのれの家が仁にならないのに村里を仁にしようというのは、白い砂をたいて飯にしようとするようなもので、できる相談ではない。おのれの家が本当に仁になれば、村里が仁にならぬということはない。(中略)

どのような良法仁術でも、村ぢゅう一戸も貧乏人がいないようにするのはむずかしい。なぜなら、人には勤惰があり強弱があり賢愚があるし、家には積善と不積善とあるし、なお前世の宿因というものがあって、これは何ともしかたがない。このような貧者は、ただその時その時の不足を補って、すっかり転落しないようにするしかない。(夜話二一三)


むかし堯(ぎょう)帝は厚く深く国を愛して、刻苦精励して国家を治めた。すると人民は「井をほって飲み、田を耕して食う、帝の力なんぞ我にあらんや」と歌った。帝はこれを聞いて大いに喜んだとある(史記)。普通の人ならば人民の恩知らずと怒るだろうに、「帝力なんぞ我にあらんや」と歌うのを聞いて喜んだところが、堯の堯たるゆえんなのだ。

だから、わが道に従事して、刻苦勉励して、国を興し,村を起こし、困窮を救い得たとすれば、そのときも人民は必ず、「報徳の力なんぞ我にあらんや」と歌うだろう。そのときこれを聞いて喜ぶ者でなければ、わが道の同志ではないのだ。よくよく心せねばならぬぞ。(夜話二一五)


物にはおのおの命数がある。近づけないような猛火でも、たきぎが尽きれば自然と火が消える。矢でも弾丸でも、あたれば必ず破り,必ず殺すが、弓の勢いが尽き、火薬の力が尽きれば、草むらの中に落ちて、人に拾われるようになる。人もそのとおりで、おのれの勢いが世に行われているときも、それをおのれの力と思ってはならぬ。親先祖から伝え受けた禄位の力と、拝命した官職の威光によるものだからだ。先祖伝来の禄位の力か官職の威光がなければ、どんなすぐれた人でも、弓勢(ゆんぜい)の尽きた矢とか、薬力の尽きた鉄砲玉と変わるところはない。草の間に落ちて、人に愚弄されることになるだろう。よく考えねばならない。(夜話二一七)


小田原藩で、「報徳仕法の儀は,良法には相違なしといえども、故障の次第あって、今般畳み置く」という布達が出た。領民のうちこれを心配して、翁のところへ来て嘆く者があった。たまたま手作の芋をみやげに持って来ていたが、翁はこれにたとえて、さとされた。

この芋などは、うまいし養いになるし、なくてはならない良いものだから,広く植えて、収穫を施そうと願うのはもっとものことだが、いかんせん天運が冬に向かって、雪も霜も降るし、地も凍るようになった。ここでむりに植えれば、凍て損ずる、霜で傷む、ついには種まで失うことになるだろう。是非もないことだ。人の口腹を養う徳のある、よいものだからこそ、寒気や雪霜をしのぐ力がない。食料にもならぬつまらぬものは、かえって寒気や雪霜にも傷まぬものだ。これは自然の勢いで、なんともしかたがない。

さて今日は寒気の雪の中だ。早く芋種は土の中に埋め、わらで囲って、深くしまっておいて、来春、雪霜が消えるのを待つがよい。山も谷も野原も一面に、雪は降り水も凍って、寒威の激しいときは、もうこれっきり暖かにはならぬと思うようだけれども、雪も消え氷も解けて、草木の芽ばるときも必ずあるに相違ない。その時になって、囲っておいた芋種を取り出して植えれば、たちまちその種が田畑一ぱいに繁茂すること疑いない。

種を囲い納めてなければ、こういう陽春になっても植えてふやすことができない。だから農事は、春の日が立ち帰って、草木の芽立つきざしを見たら種を植え、秋風が吹きすさんで草木が枯れ落ちたならば、まだ雪霜が降らぬうちに芋種を土中に埋めて、ここに埋めたという心覚えをし、深くしまっておいて来春を待つべきだ。

道の行われる行われぬは天命であって、人力ではどうすることもできない。行われない今となっては、才知があっても、弁舌があっても、勇気があってもしかたがない。芋種を土中に埋めるに越したことはないのだ。そもそも小田原の仕法は、先君の命によって開けたものが、当君の命によって畳まれる。今はすべてこれまでだ。およそ天地間の万物が生滅するのは、みんな天地の令命によるもので、勝手に生滅するのではない。(夜話二二〇)


人生の災害で、飢きんよりもはなはだしいものはない。そうして昔から、六十年間に一度は必ずあると言い伝えている。そのとおりだろう。単に飢きんばかりではなく,大洪水も大風も大地震も、その他非常の災害も、六十年に一度ぐらいは必ずあるはずだ。たとい無いとしても、必ずあるものと覚悟を決めて、有志の者が申し合わせて金や穀物を貯蓄するがよい。穀物を積み囲うなら、もみとひえが一番だ。田方の村里ではもみを積み、畑方の村里ではひえを囲うとよい。(夜話二三〇)


若輩の者は、よく家道を研究せねばならぬ。家道とは分限に応じてわが家を保つ方法のことだ。家も持ち方は、やさしいようだが至ってむずかしい。まず早起きから始めて、勤倹に身を慣らさねばならぬ。それから、農なり商なり、家業のしかたをよく学ばずに家を相続したのでは、将棋にたとえれば駒の並べ方もよく知らないでさそうとするようなもので、さすごとに負けて、つまり失敗するのは目に見えている。

もし余儀なくこの修行ができぬうちに相続したら、親類や後見などの人をよく師として、一々指図を請うてそれに従うがよい。これは将棋を一手ごとに教わりながらさすようなもので、それなら間違いない。ところが、うぬぼれて人に相談せずに,気ままに金銀をつかえば、たちまち金銀を相手に取られてしまう。父のこしらえた家を相続するのは、たとえば将棋の駒を人に並べてもらったようなものだ。すべて将棋の道を知らないで自分の思うままにさせば、失敗は知れたことだ。(夜話二四四)


翁のもとに親しく出入りするあるひとの家では、嫁と姑(しゅうとめ)と仲が悪かった。ある日その姑が来て、嫁のよくないことをべらべらと並べたてた。翁は、それは因縁というもので、しかたがないことだ。堪忍するほかに道はない。それというのも、あんたが若いとき姑を大切にしなかった報いではないか。とにかく、嫁の落ちどを数えてみてもしようがない。自分のことを省みて堪忍しなさい。と、いともつれなく言い放して帰らせた。

そのあとで翁はいわれた。ああするのがよいのだ。ああして言い聞かせておけば、姑は必ず反省するところがあって、今後の治まり具合が幾分かよくなろう。こういうときに、お座なりのことをいって、嫁の悪口に相づちを打ったら、いよいよ姑と嫁の仲が悪くなるものだ。すべてそういうことは、親子の仲を裂き、嫁、姑の親しみを奪う結果になる。心得ておかねばならない。(夜話二四九)


すべて世の中は、恩に報いなければならぬものだという道理をよくわきまえれば、百事心のままになるものだ。恩に報いるとは、借りた物には利子を添えて返して礼をいう。世話になった人にはよく謝儀をする。買い物の代はすぐさま払う。日雇い賃も毎日払う、というように、すべて恩を受けたことをよく考えて、よくこれに報いてゆけば、世界の物はまるでわが物のようになるし、何事でも願うとおり、思うとおりになる。(夜話二五一)


ある門人は、過ちをして改められないくせがある上、多弁で,過ちを飾るのが常だった。翁はこれをさとしていわれた。人はだれでも過ちがないわけにはゆかない。過ちと知ったら,自分を反省して早速改めるのが道なのだ。過ちをしても改めずに、その過ちを飾ったり押し張ったりするのは、知とか勇とかに似ているようだが、実は知でも勇でもない。そなたはそれを知勇と思っているかもしれないが、それは本当は愚、かつ不遜というもので、君子の忌みきらうところだ。よく改めるがよい。

それから,若い時は言葉にも行いにもよく気をつけねばならぬ。ああばかなことをした、しなければよかった、いわなければよかった、というようなことのないように心掛けるがよい。そういうことがなければ富貴は自然とその中にある。

戯れにもうそをいってはならぬ。うそから大害を引き起こしたり、一言の禍(わざわい)から大禍を引き出すことが往々ある。だから古人は「禍は口から出る」といっている。人々をそしって悪くいうのは不徳なことだ。たとい、そしられるのが至当の人物であろうと、ひとをそしるのはよろしくない。人の過ちをあばくのは悪いことだ。虚を実といいくるめたり、さぎをからすといったり、針ほどのことを棒ほどにいうのは大悪だ。

また人をほめるのは良いけれども、ほめすぎるのは正しい道ではない。おのれの善を人に誇ったり、おのれの長所を人に説くのは最も悪い。人の忌みきらうことは決していうではない。それは自分で過ちの種を植えるようなものだ。よく気をつけるがよい。(夜話二五四)


内に実があれば外にあらわれるのは天理自然だ。内に実があって外にあらわれない道理は決してない。たとえば、日暮れにともしびをつけるのを見るがよい。付け木に火がつけば、はや障子に火の影がうつって、家の内に灯火のあることが外から知れるのだ。(夜話二五五)


交際は人生に必要なものだが、世間の人は交際の道を知らない。交際の道は、碁将棋の道にのっとるのがよろしい。将棋の道というものは、強い者が駒を落として、相手の力と相応する程度にしてさすのだ。はなはだしく差のある場合には、腹金(はらきん。歩九枚と金二枚のみ)とか歩三兵(ふさんびょう。歩三枚の持ち駒のみ)というまでにはずすのだ。

これが交際上必要な理法であって、自分が富んで,才芸があり、学問がある場合に、先方が貧しければ、富をはずすがよい。先方が才能がないならば、才をはずすがよい。無芸ならば芸をはずすがよい。無学ならば学をはずすがよい。これが将棋をさすときの法であって、このようにしなければ交際はできないのだ。

また、自分が貧しくて、才能がなくて、無芸無学ならば、碁を打つときのように心得るがよい。先方が富んだ人で、才もあり学もあり芸もあったら、何目も置いて交際するがよい。これが碁の道だ。こういう理法は、碁将棋の道ばかりでなくて、人と人と相対するときの道も、これに従うべきものだ。(夜話二五九)


論語に「己に如かざる者を友とするなかれ」とあるのを、世間で取りちがえている人がある。人々には、みんなそれぞれ長所があり、短所もどうしてもあるのだから、このことばは、その人の長所を友として、短所を友とするなという意味と心得るがよい。(夜話二六〇)


たいまつが燃え尽きて手に火が近くなったら、早く捨てるがよい。火事があってあぶないときは、荷物は捨てて逃げ出すがよい。大風で船がくつがえりそうなときは、上荷を投げ捨てるがよい。なお激しいときは帆柱さえ切るがよい。この道理をしらないのを愚の骨頂という。(夜話二六三)


仏教家も釈迦がありがたく思われ、儒者も孔子が尊く見えるうちは、よく修行するがよい。その地位まで達すると、国家を利益し、世を救うことのほかに道はない。世の中のためになることを勤めるほかに道はない。たとえば山に登るようなもので、山の高く見えるうちは努めて登るがよい。登りつめればほかに高い山はなく、四方すべてが目の下にある。この場まで来れば、仰いでいよいよ高いのは天ばかりだ。ここまで登るのを修行という。天のほかに高いものがあると見えるうちは、努めて登るがよい。(夜話二七七)


翁が重態になったとき、左右にいる門人にこういわれた。私の死ぬのも近いうちだろう。私を葬るのに、分を越えるでない。墓石を立てるでない。碑も立てるでない。ただ土を盛りあげて、そのそばに松か杉を一本植えておけば、それでよろしい。決して私のことばにたがってはならぬ。

忌み明けになって相談したとき、遺言に従うべきだというものがあり、また遺言はあってもそのようなことは弟子として忍びないことだから、分に応じて石を立てるがよいという者もあり、議論はまちまちであった。ついに石を建てたのは、未亡人の意向に賛成する者が多かったので、それに従ったのである。(夜話二八一)

注。翁は安政三年(一八五六年)十月二〇日に七〇才で亡くなった。墓は日光市の二宮神社にある.


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