バングラデシュの話
平成二七年二月にバングラデシュを旅してきた。この国は、正式国名をバングラデシュ人民共和国といい、国土の広さは日本の四割ほど、人口は世界第七位の約一億六千万人、公用語はベンガル語、国民の九八パーセントはベンガル人、二パーセントは国境地帯に住む少数民族、国民の八九・七パーセントはイスラム教徒、という国である。
この国はベンガルと呼ばれる地域の東半分を国土にしており、バングラデシュという国名は「ベンガルの国」あるいは「ベンガル人の国」を意味する。なおベンガルの西半分はインドに属している。
バングラデシュは川が作った国である。インドから流れてくるボッダ川(インド名ガンジス川)、遠くチベットから流れてくるジャムナ川(インド名ブラマプトラ川)、世界最高の雨量を誇るネガラヤ山地から流れてくるメグナ川、という三大河川がこの国で合流しベンガル湾に注いでいる。そして雨期になるとこれらの川には、国内に降る雨の四倍もの水が上流から流れてくる。そのため雨期には多くの土地が水没し、内陸部にも海のような景色が出現する。
またこれらの川は毎年二〇億トンもの土砂を上流から運んでくる。つまりこれらの川が作った巨大な三角州群がバングラデシュの国土であるから、この国の国土の九〇パーセントは平野である。そのため国土の面積と人口から判断すると、この国の人口密度はかなり高いはずだが、国土のほとんどが平地なので首都のダッカ以外では人が多いという感じはしなかった。
この国は一九七一年にパキスタンから独立した新しい国である。バングラデシュもパキスタンももとはインドの一部であったが、そのインドは長くイギリスの植民地になっていた。そして一九四七年に独立したとき、宗教上の対立などからヒンズー教徒主体のインドと、イスラム教徒主体のパキスタンの二つに分離して独立したのであった。
独立したパキスタンは東西二つのパキスタンに別れていたが、西に権力が集中していたため、今度は冷遇された東パキスタンがパキスタンから独立してバングラデシュを建国、その独立戦争は初めはバングラデシュに不利であったが、インドがバングラデシュに加勢したことで勝利することができた。そうした事情からインドとパキスタンは今も仲が悪い。
この国は南アジアでいちばん旅行者の少ない国であり、二〇〇七年の来訪外国人の数は二九万人、しかも観光目的の人はその中の十パーセントにも満たないという。そのため一週間の旅行中、外国人観光客を見かけたのはダッカのホテルでの一度だけ、日本人観光客には一度も会わなかった。そういう国であるから、地方へ行くと旅行者の方がじろじろと見られることになり、安全確保のため小銃を携帯した数名の警察官が車でバスの先導をしてくれたことも数回あった。ただし治安に不安を感じたことはなかった。
首都ダッカには暗くなってから入った。そのとき驚いたのが、街灯なるものがまったく存在しない町の暗いこと、このやり方を見習えば原発は不要になると思った。しかもその暗い夜道を無灯火で走っている車が多かった。車検などというものはこの国にはないのであろう。
今回の旅行の参加者は十九名と多く、しかも最高齢の人はなんと八八歳で一人旅の男性、その次は七五歳で一人旅の男性であった。この国に来た理由をきいてみたら、ほかに行く国がなくなったという贅沢な理由の人が多く、仏教遺跡を目的に来たのは私一人であった。
この国は禁酒国なのでお酒は飲めません、と出発前に旅行社から言われたが、ガイドに頼めばビールぐらいは手に入った。それどころか冷蔵庫にビールが入っていたホテルもあり、しかもそのビールはこの国で作られたものであった。
バハルプールの仏教遺跡
この国には、バハルプールの仏教遺跡、バゲルハットのイスラム教のモスク、海岸地帯に広がるマングローブ林、という三つの世界遺産があり、この中では仏教遺跡がいちばん見ごたえがあった。そのバハルプール仏教遺跡の中心となるのが、パーラ王朝が残したソーマプラ大僧院である。
八世紀中頃にベンガル地方でおこり、インドの東部と北部を統一したパーラ王朝は、インドにおける最後の仏教王朝であり、ヒンズー王朝だったセーナ朝に取って代わられるまで四百年以上つづいた。ただし仏教王朝とかヒンズー王朝といっても、必ずしも一つの宗教だけを庇護していたわけではない。
パーラ王朝は仏教研究の拠点であったナーランダ僧院(現インド国内)の増築を行い、ビクラマシラー僧院(現インド国内)やソーマプラ大僧院を建立した。ソーマプラ大僧院は仏教の保護者として知られる第二代ダルマパーラ王(在位。七七〇〜八一〇)が建立したものとされ、遺跡を見ると当時のパーラ王朝の繁栄が分かる。なおパーラ王朝の仏教は密教中心の仏教であり、チベットはこの王朝から密教を輸入したという。
最盛期には千人の僧が修行したというソーマプラ大僧院は、一辺が三三〇メートルの正方形をしていて、正方形の外壁の内側には一七七の僧房が並び、敷地中央には巨大な塔がそびえていたが、いま残っているのはすべて基壇のみであり、塔の基壇は十字形をしている。インドの東の端に位置するこの僧院には、東南アジアからの留学生が多く滞在したということで、そのためここの建築様式は東南アジアの寺院建築に大きな影響を与えたという。
ところが十三世紀になるとこのあたりにもイスラム勢力が侵入し、そのイスラム勢力に破壊されたためかどうかは分からないが、この僧院は放棄されてジャングルに埋没した。十九世紀になると、その遺跡の発掘をイギリス人が開始し、一九二三年からはインド考古学局が本格的な発掘調査をおこない、一九八五年に世界遺産に登録された。
バハルプール博物館に入ると、入口に置かれた頭部だけの青銅製の仏像がまず迎えてくれる。他にはターラー菩薩像が目につくが、展示品の数はヒンズー教の神像の方が多かった。ヒンズー教関係のものが多い理由は、パーラ王朝の後に栄えたセーナ王朝がこの僧院をヒンズー寺院に変えたからだという。時間がなかったのと、撮影禁止なのと、解説書を売っていなかったことで、ここの展示品の詳細は不明である。
ソーマプラ大僧院は、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう。六〇〇〜六六四)の時代にはまだ建立されていなかったが、すぐ近くにある町モハスタンのバシュ・ビハール僧院を彼は訪れている。それはソーマプラ大僧院が作られる百五十年ほど前のことであり、大唐西域記はモハスタンを次のように伝えている。
「この国は周囲が四千余里ある。国の大都城は周囲三十余里あり、住民は多い。土地は低湿で、農業は盛大である。(中略)気候は温和で、風俗は学芸を好む。伽藍は二十余ヶ所、僧徒は三千余人。大小の二乗を兼学し習修している。天祠(ヒンズー寺院)は百ヶ所、異道の人々が雑居し、ジャイナ教の人々が多い」
バシュ・ビハール僧院も西域記に載っている。この僧院も遺跡が残っている。
「城の西二十余里にバシュ伽藍がある。庭園や建物は広々とし、楼閣は広壮である。僧徒は七百余人、みな大乗の教学を学んでいる。東印度の学深く有名な僧は多くここに居る。その遠からざる所に塔がある。アショカ王が建てたものである。昔、如来が三ヶ月間ここに居られて、天界人界の人々のために説法された所である。斎日になると、時に光明が輝くことがある。その傍には過去四仏の座所および散策された遺跡の場所がある。
ここを去ること遠からざる所に、さらに精舎がある。中に観自在菩薩の像が作ってある。その神威は蔽(おお)われることなく、霊験はあらたかである。遠近の人々は穀物を絶って祈願している」
なお法顕三蔵(ほっけんさんぞう。生没年不詳。三九九年から十七年かけて西域を旅行)は、ガンジス川ぞいにベンガル湾に下り、船でスリランカへ渡っているが、バングラデシュには入っていない。ガンジス川はたくさんの流れに枝分かれしてベンガル湾に注いでおり、十六世紀まではコルカタを流れるフーグリ川が本流だったというから、彼はフーグリ川ぞいに下ったのだと思う。
八世紀中頃から十二世紀末にかけて、パーラ王朝の庇護の元この地に多くの僧院が作られ、そこで学識ある多くの高僧が育ち、彼らは学術の進歩に多大の貢献をした。ところが十三世紀になると、仏教はパーラ王朝と運命をともにするように生まれ故郷のインドから姿を消した。しかしそれは教団としての仏教がなくなったのであって、仏教の影響がインドから消滅した訳ではない。仏教によって培われた、智慧と真理、不殺生と非暴力、慈悲と寛容、を尊ぶ精神は現在のインド人の中にも残っている。
インドの歴史を眺めてみると仏教が尊重された時代のインドは、進歩的で、平和を尊び、他民族に対しても寛容と協調の精神を忘れなかった。ところが仏教が排斥された時代のインドの為政者は独善的、独裁的であり、残虐行為が多く、外国に対しても偏狭な態度を示し、戦いを好む、という傾向が強かったとされる。
バングラデシュの仏教徒
イスラム勢力がベンガルに入ってきたとき、多くの仏教徒がネパールやチベットへ移住したという。パーラ王朝の仏教は密教だったので、密教が広まっている地に移住したのである。
また西からイスラムが入ってきたため、東のミャンマー国境に近いチッタゴン地方やアラカン地方(現ミャンマーのラカイン州)に移住し、そこで仏教徒として生きた人たちもあったという。だとすると仏教はインドから完全には消滅しなかったことになる。
旅行案内書によると、二〇〇一年のバングラデシュの宗教勢力は、イスラム教徒八九・七パーセント、ヒンズー教徒九・二パーセント、キリスト教徒〇・三パーセント、そして仏教徒〇・七パーセントとなっている。そのため国民の休日はイスラム関係のものがいちばん多いが、ヒンズー教の祭日、キリスト教のクリスマス、ブッダの誕生日、なども休日になっている。
この国の人口一億六千万人に、仏教徒の割合〇・七パーセントをかけると、一一二万人になる。つまり百万人強の仏教徒が、ミャンマー国境に近いチッタゴン地方に住んでいることになる。
ここからはネットで集めた情報である。バングラデシュ関係の本はきわめて少なく、ましてや仏教関係の本はほとんど存在しないので、ネットの情報に頼らざるを得ないのである。
この国の仏教徒は、ベンガル(バルア)仏教徒、チャクマ仏教徒、アラカン仏教徒、マルマ仏教徒、などに分類されており、これは民族名からきた呼び名である。
ベンガル仏教徒はベンガル人の仏教徒であり、バルア姓を名乗っていることからバルア仏教徒とも呼ばれる。彼らは自分たちがマウリヤ王朝を建国したマガタ国民の子孫であることや、二千年も前からの仏教徒であることを民族の誇りにしているという。だとすると彼らは、イスラムに追われてチッタゴンに移住した人の子孫かもしれず、信奉しているのは密教かもしれない。ところが一八五六年以降、ミャンマー系上座部仏教の長老サーラメーダなどにより、この地の仏教で出家した僧を、上座部仏教で再受戒させることがおこなわれてきたということで、そのため上座部仏教に改宗した僧も多いという。
チャクマ仏教徒はチッタゴン丘陵に住むチャクマ族の仏教徒であり、ミャンマー系の上座部仏教に属する。チャクマ族はバングラデシュの少数民族の中の多数派であり、彼らは釈迦族の子孫であることを誇り、その王家は南アジアの仏教王家の名門とされているという。
アラカン仏教徒は上座部仏教に属するアラカン族の仏教徒である。ベンガル湾に面した現ミャンマーのラカイン州に、一七八五年までアラカンという王国があった。そこからチッタゴン丘陵に移住した人の子孫がアラカン族である。またマルマ仏教徒は上座部仏教に属するマルマ族の仏教徒である。
以上のことから、現在のバングラデシュの仏教の多くはミャンマー系の上座部仏教であることが分かる。なお近年、北部に住するアーディバーシーと呼ばれる人々が仏教に改宗しつつあるというが、詳細は分からない。それとチッタゴン丘陵に住む少数民族が、多数派のベンガル人から迫害を受けているという情報が少なからずネット上に流れていた。
インド小史
以下は仏教関係のことを中心とするインドの歴史である。歴史のない国といわれるインドの歴史を調べるのは難しいことであるが、大まかにでも歴史の流れを眺めたいと、いろんな本からの寄せ集めで書いてみた。なおここでいうインドにはバングラデシュとパキスタンも含まれる。
西紀前三〇〇〇〜二五〇〇。四大文明の一つインダス文明が現在のパキスタンで栄える。
前一三〇〇頃からアーリア人がインドに侵入し、やがてガンジス川流域に進出する。
前四六三〜三八三ごろ。釈尊の推定生存年代。
前三二七〜三二五。アレキサンダー大王のインド侵入。(三二三。大王死去)
前三一七。チャンドラグプタがアレキサンダー大王が残した軍を一掃し、マウリヤ(孔雀)王朝を開く。アショカ王は彼の孫。
前二六八〜二三二頃。アショカ王の治世。マウリヤ王朝がほぼ全インドを支配し、仏教に帰依したアショカ王の保護により、仏教は国教待遇を受けて全インドに広まり、サンチーの大塔が作られた。王がいなければ仏教は地方宗教の一つにとどまり、国外に広まることはなかったとされるが、発展したことで分派が始まった。
アショカ王は、カリンガ国との戦いのとき戦争の悲惨さを目の当たりにしたことで、それまでの好戦的なやり方を反省し、戦争放棄と、武力による征服ではなく「法」による征服を目指すようになったといわれる。そしてその法とは「悪行を減じ、善行を増すこと。慈愛、施与、真実、純潔を尊ぶこと」であるとし、さらに「動物を殺さないこと、父母に従順であること、友人、知己、親戚、婆羅門、沙門に対して惜しげなく与えること、召使いや奴隷にいたるまで親切に対応すること」という具体的な目標も掲げたのであった。
前一八〇年ころ。マウリヤ王朝が滅び、シュンガ王朝おこる。
ここからは西紀後。
二五。中央アジアでクシャーナ王朝が興り、六〇年頃から西北インド(現パキスタン)を攻略、さらにインド北部全体を攻略し、インド北部からイランそして中央アジア西部に及ぶアショカ王以来の大帝国を建国。この王朝は仏教が中央アジアや中国へ伝播する上で大きな役割を果たした。
数年前、ウズベキスタンのダンベルジンテパという大きな遺跡を見学したとき、ここはクシャーナ王朝の最初の都の遺跡であり、ここからパキスタンのペシャワールに遷都したとガイドが説明していた。なおこの王朝では説一切有部(せついっさいうぶ)という仏教宗派が重用された。
一二九〜一五二。仏教を保護したことで知られるクシャーナ王朝のカニシカ王の治世。このころ王朝の都があったガンダーラ地方で初めて仏像が作られ、それらの仏教美術は地名からガンダーラ美術と呼ばれるようになった。このころアシュバゴーシャ(馬鳴。めみょう)という詩僧が、サンスクリット語(梵語)で「仏陀の生涯」などの優れた仏教文学を残した。
二〇〇頃。クシャーナ王朝が衰退。二二五。南インドで栄えたアンドラ王朝が滅ぶ。北部と南部で相次いで統一王朝が滅んだことで全インドが混乱状態になり、三世紀のインドは歴史の暗黒時代と呼ばれる歴史のほとんど残らない時代となった。
アンドラ王朝は四百年以上つづいたとされ、アジャンタ石窟群(西紀前二世紀〜後七世紀)などデカン高原に残る仏教石窟寺院の多くはこの王朝の治下に作られた。インドには約千二百の石窟があり、その七五パーセントは仏教窟とされる。この王朝では仏教とともにバラモン教も栄え、宗教間の反目はほとんどなかったといわれるが、そのことはエローラ石窟群を見ると分かる。エローラの造営は少し時代が後になるが、ここでは仏教、ヒンズー教、ジャイナ教の窟が仲よく並んでいるのである。また大乗仏教経典の制作はこの王朝で始まったとされ、八宗の祖といわれる中論の著者ナーガールジュナ(竜樹。りゅうじゅ。一五〇〜二五〇ごろ)はこの王朝の生まれとされる。
三二〇。チャンドラグプタがクシャーナ王朝後の混乱を統一してグプタ王朝を創始、やがて南北インドを征服してマウリヤ王朝以来のインド統一国家を建国。チャンドラグプタはマガタ国の出身であり、しかもマウリヤ王朝の創始者と同じ名を名乗っていたのだから、彼は自分をマウリヤ王朝の後継者と考えていたのだろう。
この王朝では復古調のバラモン文化が栄え、バラモンの用語であるサンスクリットが重用された。そしてこの時代の重要な仏教学者は例外なくバラモンの出身だったので、この時代の仏教はバラモン的教養でもって、サンスクリット語を用いて論じられた。そのためこの時代の仏教は、きわめて組織的、論理的、精密であり、学問的にも大いに進歩し、世界思想史上に一大偉観を呈している。
そうした学者の例としては、摂大乗論(しょうだいじょうろん)のアサンガ(無著。むじゃく。四世紀頃)、倶舎論(くしゃろん)や唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)のバスバンドゥ(世親。せしん。四〜五世紀。無著の弟とされる)、論理学を大成したディグナーガ(陳那。じんな。四八〇〜五四〇ごろ)などがある。
四二七。グプタ朝の保護によりナーランダ僧院が建立され、七百年間にわたって仏教研究の中心となった。玄奘三蔵のインド旅行の第一目的はこの僧院で仏教を学ぶことであった。なお弘法大師の師は中国人の恵果(けいか)和尚であり、その師の不空三蔵は西域の人であり、その師の金剛智三蔵はナーランダ寺で出家して大小乗を学んだ中インドの人であった。金剛智三蔵は南インドで竜智菩薩から密教を授けられ、スリランカとスマトラ島を経由して海路中国に入り、長安と洛陽で密教を広めた、という人である。
五〇〇頃。グプタ王朝衰退する。
六〇六〜六四七。ハルシャ・バルダナ王(戒日王。かいにちおう)の治世。王はバングラデシュを含む北インドを統一し、バルダナ王朝を開いた。ハルシャ王はシバ神を信仰していたが仏教を保護したことでも知られ、玄奘三蔵がインドに滞在したときの後援者でもあった。この王朝は長くは続かなかった。
七五〇頃〜一一九九頃。パーラ王朝の存続期間。首都はパトナ。
八世紀頃からイスラム勢力が西北インドに侵入し、十一世紀にはインドの中央部に進出、一二〇五には北インドを支配した。
一一九三。ナーランダー僧院がイスラム勢力により破壊された。
一二〇三。ビクラマシラー僧院がイスラム勢力により破壊された。
十四世紀末〜十七世紀。南インドにヒンズー王朝のビジャヤナガラ王朝。
一五一〇。ポルトガルがゴアを占領。
一五二六。トルコ系イスラム王朝のムガル帝国が建国され(〜一八五八)、十八世紀初頭にはインド南端部を除くインド亜大陸を支配。首都はデリー、アグラ。
一六〇〇。イギリス東インド会社が設立された。
一六九〇。イギリス東インド会社がコルカタに拠点を作り、インド支配を拡大。
一八〇二。イギリスがインドでフランスの勢力を破る。
一八五八。セポイの反乱を鎮圧したイギリスがインドを直接統治下に置き、ムガル帝国滅ぶ。
一八七七。イギリスのビクトリア女王がインド皇帝兼任を宣言。
一九一三。コルカタ生まれのベンガル人の詩人タゴールが、アジア人初のノーベル賞(文学賞)を受賞。
一九一九。マハトマ・ガンジーが不服従運動を開始。
一九四七。インドがイギリスから独立する。ただしインドとパキスタンに分裂しての独立であった。
一九五〇。インド共和国成立。
一九七一。バングラデシュがパキスタンから独立。
参考文献
「仏教のあゆみ」渡辺照宏 昭和三二年 大法輪閣
「インド思想史」中村元 一九五六年 岩波全書
「バングラデシュを知るための60章」大橋正明 村山真弓 2009年 明石書店
「聖者たちの国へ」外川昌彦 2008年 日本放送協会
「地球の歩き方。バングラデシュ」ダイヤモンド社
「地球の歩き方。インド」ダイヤモンド社
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