塩山仮名法語

塩山仮名法語(えんざん・かなほうご)は、山梨県甲州市にある塩山向嶽寺(こうがくじ)の開山、抜隊得勝(ばっすい・とくしょう)禅師の法語である。

著者の抜隊禅師は嘉暦二年(一三二七年)十月六日の生まれであり、生家は神奈川県足柄上郡中井町(あしがらかみぐん・なかいまち)の武士の家とされる。四歳のときに父を亡くし、それが原因か早くから仏教に心を寄せていたといわれるが、正式に出家したのは二九歳のときであった。

母のことは年譜に出てこないが、母は出産前に鬼の子を産む夢を見、その恐怖が忘れらず生まれた子を荒野に捨て、それを侍女が拾って育てたという奇妙な話が伝わっている。

禅師は修行を始めるとき二つの誓いを立てた。それは、大善知識から悟りの証明を得ないうちは決して法を説かない、仏祖の精神を自分のものにした後は人々を済度することに全生命をかける、という誓いであった。そして修行時代には、法衣を着ず、出家の体裁を習わず、経を読まず、ひたすら坐禅に打ちこんで飢寒を忘れ風雨を覚えず、という日々を送った。出家は僧衣のためにするものではなく、生死事大のためにするものだという固い信念を持っていたのである。

そして寝ずに坐禅を続けて夜明けに至ったある日のこと、渓流の音が浩々と肺肝に入るのを覚えた刹那、豁然として悟りを開いた。禅師が法衣を着るようになったのはこれ以後のことであるが、嗣法のあとも大寺に住することを拒み、庵居しても一ヵ所に三年以上住むことなく遍歴を続けた。

庵居の地で分かっているのは、神奈川県厚木市七沢(ななさわ)、和歌山県須田山、静岡県森町天方(あまかた)、神奈川県清川村須々萱(すすがや)、神奈川県津久井町青山の青雲庵、静岡県大仁町(おおひとちょう)鍋沢山の如是庵、神奈川県秦野市蓑毛山(みのげやま)、八王子市横山、塩山市竹森山、そして最後の向嶽庵、などである。

向嶽庵の名は滋賀県にいたときに見た富士山の夢に因んで付けたという。その夢で見た富嶽が向嶽庵の場所から遠望できたことから、そこに庵を作って向嶽庵と名付けたというのであり、その庵がのちに臨済宗向嶽寺派の本山になったのである。また山号の塩山は、この寺が塩ノ山と呼ばれる小高い山の南麓に建っていることに由来し、塩ノ山の名はかってこの山で岩塩が採れたことに由来する。

道号の抜隊は師の孤峰覚明(こほうかくみょう)禅師が授けたものであり、千人に優れたものを抜群といい、万人に優れたものを抜隊という、ということに由来する。孤峰禅師は島根県安来市の雲樹寺に住した大徳である。

抜隊禅師は大の酒嫌いであり、しかもそれは境内にお堂を建てて罰酒神(ばつしゅしん?)という神様を祀っていたほど徹底していたので、飲酒を厳しく禁止し一滴でも飲むものがあれば即刻下山させた。三十三箇条の遺誡の中にも酒に関するものが以下の三ヵ条含まれている。

当庵に酒一滴も持ちこむべからず。たとえ良薬のためであっても、酒類を飲むべからず。

他門の者といえど、ここで修行している間は酒を飲むべからず。

門前の在家においても酒肉や五辛(ごしん)を売ることを許すべからず。

晩年には深く観音さまを信仰し、向嶽庵の北隅に大悲閣を建てて観音さまを祀り、入寂の際には大悲閣の下に全身を埋めることを遺命した。そして至徳四年(一三八七年)二月二〇日、端座して「端的に看よ、是れなんぞ、恁麼(いんも)に看よ、必ず相錯(あいあやま)らず」と二回高声に告げ、灯火が滅するように寂した。世寿六一、法朧三一であった。


     
塩山仮名法語抄

輪廻の苦をまぬかれんと思わば、直に成仏の道を知るべし。成仏の道とは、自心を悟る是れなり。自心と云うは、父母もいまだ生まれず我が身もいまだなかりしさきよりして、今に至るまでうつりかわる事なくして、一切衆生の本性なるゆえに是れを本来の面目と云えり。

この心もとより清浄にして、此の身生まる時も生まる相もなく、此の身は滅すれども死する相もなし。又男女の相にもあらず、善悪の色もなし。たとえも及ばざるゆへに是れを仏性と云えり。

しかも万(よろず)の念、此の自性のうちよりおこること、大海より波のたつが如し。鏡にかげのうるつに似たり。此の故に自心を悟らんと思わば、先ず念の起こる源を見るべし。

只ねてもさめても立ち居につけても、自心是れ何物ぞと深くうたがいて、悟りたきのぞみの深きを、修行とも工夫とも志とも道心とも名づけたり。又、かように自心をうたがいていたるを、坐禅とは云えり。

一日に千巻万巻の経陀羅尼をよみて、千年万年おこたらざらんよりも、一念自心を見るにしかず。左様の有相の行は、只一旦福徳の因縁となりて、其の福つきぬれば又三悪道の苦を受く。一念の工夫は、終には悟りとなるゆえに成仏の因縁なり。たとい十悪五逆の罪をつくりたる者も、一念ひるがえして悟れば、即ち仏なり。

さればとて悟るべきをたのみに、罪をつくるべきにはあらず。自ら迷って悪道におつるをば、仏も祖もたすくべきことにあらず。たとえば、おさなきものの父のそばにねて、夢の中に人に打ちはられて、或いは病におかされてくるしみを受くる時、父母我れをたすけよとよばわれども、ゆめみる心の中へ行くことなければ父母もたすけえざるが如し。たとい是れに薬をあたえんとするとも、おどろかずんば受くべからず。

自ら驚き得ば、ゆめの中の苦しみを遁るる事、他人の力をからず。自心則ち仏なりと悟りぬれば、たちまちに輪廻をまぬかるる事も又かくの如し。

若し仏のたすくべきことならば、いずれの衆生をか一人も地獄におとすべきや。此のことわりのまことなること、自ら悟らずんば知るべからず。

虚空世界只我が一心なり。たとえば夢の中に、外にまよい出て、我が故郷へ帰るべき道をうしないて、或いは人に問い、或いは神にいのり、仏にいのれども、未だ帰り得ざるものの、其のゆめうちさめぬれば、唯我がもとのねやの中に有り。此の時自ら夢の中のたびより帰ることは、さむるより外に別の道なかりけりと知るが如し。これを本に還り源に還るとも云い、安楽世界に生まるるとも云えり。是れはすこし修行の力を得る筏なり。

是れははや真の悟りなり、我が法においてうたがいなしと思わば、大いなる誤りなり。只銅(あかがね)を見つけて金(こがね)の望みをやめんが如し。若しかようのおもむきのあらん時は、いさみをなしていよいよ深く工夫をなすべきようは、我が身を見るに幻の如く、水の泡影(あわかげ)の如し。

自ら心を見るに虚空の如し。形もなし。此のうちに耳に声をきき響きを知る主は、さて是れ何物ぞと少しもゆるさずして、深く疑うばかりにして、更に知らるる理(ことわり)一つもなくなりはてて、我が身の有ることを忘れはつる時、先の見解は断えはてて、うたがい十分になりぬれば、悟りの十分なること、桶の底の出ずる時、入りたる水の残らざるが如し。

朽ちたる木に忽ちに花のひらけるが如し。若しかくの如くならば、法において自在を得て大解脱の人なるべし。

たといかようの悟りあるとも、只幾たびも悟らるる悟りをばうちすてて、悟る主に還り、根に帰ってかたく守らば、情識の尽くるに随いて自性のほがらかになること、玉のみがくに随いて光をますが如くにして、終には必ず十方世界をてらすべし。これを疑うべからず。

若し志しふかからずんば、今生にかように悟ること無くとも、工夫の中にて臨終したらん人は、来生には必ず安く悟らんこと、昨日くわだてたることの今日はたやすく道行くが如し。

工夫坐禅の時、念の起こるをばいとうべからず、愛すべからず、只其の念の源の自心を見きわむべきなり。心に浮かび目に見ゆることをば、皆是れ幻にして真にあらずと知りて、恐るべからず、貴ぶべからず、愛すべからず、厭うべからず、心ものに染むこと無くして虚空の如くならば、臨終の時も天魔におかさるることあるべからず。

また工夫の時は、かようの事、かようの道理をば、一つも心中におくこと無くして、只自心是れ何ぞとばかりなるべし。また只今一切の声を聞く主は、何物ぞと是れを悟らば、此の心諸仏衆生の本源なり。観音は声に付いて悟り玉うが故に観世音と号せり。只此の声を聞く底の者、何物ぞと立ち居につけても是れを見、坐しても是れを見ん時、聞く物も知られず、工夫も更に断えはてて忙忙となる時、此の中にも声を聞かるることは断えざる間、いよいよ深く是れを見る時、忙忙としたる相も尽きはてて、晴れたるそらに一片の雲無きが如し。

此の中には我と云うべき物無し、聞く底の主も見えず、此の心十方の虚空とひとしくして、しかも虚空と名づくべき処も無し。是れ底の時、是れを悟りと思うなり。此の時また大きに疑うべし。此の中には誰か此の音をば聞くぞと。

一念不生にしてきわめもて行けば、虚空の如くして一物も無しと知らるる処も断えはてて、更に味わい無くして闇夜になる処について退屈の心無くして、さて此の音を聞く底の物、是れ何物ぞと、力を尽くして疑い十分になりぬれば、うたがい大きに破れて、死にはてたる者のよみがえるが如くなる時、則ち是れ悟りなり。

此の時初めて十方の諸仏、歴代の祖師に一時に相看(しょうかん)すべし。若しかくの如くならん時、是れを挙げて見るべし。僧、趙州に問う。如何なるか是れ祖師西来意。答えて曰く、庭前の柏樹子(はくじゅし)。

是の底の公案に少しも疑いあらば、打ち還って元の如く、音を聞く底の物何ものぞとみるべし。今生に明らめずんば、いつの時ぞや。一たび人身を失いては、三悪道の苦しみ永く免れんことあるべからず。誰がかくしたる悟りぞや。只自ら無道心なる故と思いしりて、たけく精彩を付くべし。

参考文献「日本の禅語録十一、抜隊」古田紹欽 昭和54年 講談社


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