毒矢のたとえ
釈尊在世中のことである。一人の修行者が詰問するように釈尊に質問した。「私はこれまで何度も同じ質問をしましたが、尊師は答えて下さいませんでした。今日はぜひとも答えて下さい。それでなければ修行をやめて家に帰ります」
そう言ってつぎの四つの問題を提示した。
一、世界は永遠か永遠でないか。
二、世界は有限か無限か。
三、霊魂と肉体は同じか別か。
四、如来は死後に存在するかしないか。
第一の問いは世界は時間的に有限か無限かという問題であり、第二は世界は空間的に有限か無限かという問題である。第三の霊魂と肉体に関する問いでは、両者が同じであれば肉体が死ねば霊魂も消滅することになり、別であるなら肉体が死んでも霊魂は存続することになる。第四の問いの主旨はよく分からないが、悟りを開けば永遠の命が得られるのかという質問とも考えられる。
これらの問題は、当時のインドの哲人たちが互いに智慧をしぼって論争していたことなのであろう。宇宙の根本原理とか、真実の自己を追求することが、インドの哲学や宗教の眼目なのである。ところが釈尊は、こうした問題に対しては言及することを避けていたといわれ、質問されたときには以下の「毒矢のたとえ」を説いたという。
たとえばある人が毒の矢で射られたとする。するとすぐに仲間が毒矢を抜きとって治療しようとするだろう。ところがもしもその射られた人が、「矢を射たのは、どこに住む、どういう身分の、どういう名前の人間か。弓はどんな弓で、弦(つる)は何でできていて、矢の材質は何か。矢羽根は何の鳥の羽根か。こうしたことが分からないうちは矢を抜いてはならない」と言ったらどうなるだろうか。
その人は体に毒が回りやがて死んでしまうだろう。汝が言っているのはそれと同じことである。なぜなら私はそうした質問に答えるつもりはないから、汝は修行することなく死んでいくことになるからである。
だから私が説いたことは説いたように受け容れよ。説かなかったことは説かなかったと受け容れよ。私がなぜ説かないのかというと、それらの問題に対する答えは、清らかなおこない、世俗からの厭離、煩悩の消滅、心の平静、すぐれた智慧、正しい悟り、涅槃(ねはん)、の役に立たないからである。
それらの問題に対する答えがあったとしても、生があり、老いがあり、死があり、憂い、嘆き、悶えがある。私が説いているのは、そうした人生の苦しみを解決する道である。毒の矢を抜き去るように、苦を速やかに抜き去ることがいちばん大事なことではないのか。
この話を聞いた修行者は、歓喜して教えを信受するようになったという。
この毒矢のたとえから分かるように、仏教の目的は苦を解決することであり、煩悩のなくなった涅槃の境地に達することである。そして釈尊は、その涅槃の境地を今度は「第二の矢のたとえ」でもって説明している。
第二の矢を説明するには、まず第一の矢から説明しなければならない。たとえ悟りを開いたとしても、感覚や感受性は変わらない。だから悟った人も悟らない人も、病気をすれば同じように痛みを感じ、美しい花を見れば同じように美しいと思う。これが第一の矢であり、この矢は悟った人も避けることはできない。
ところが悟っていない人は、第一の矢とともに第二の矢も受けてしまう。病気になれば不安や悲しみや絶望に襲われ、美しい花を見れば盗んででも手に入れたいと執着する。これが第二の矢である。悟った人は第一の矢は受けても第二の矢は受けないのである。
白隠禅師が「三合五勺(しゃく)の病に八石五斗の気の病」という言葉を残している。病気になれば誰しも苦を味わうことになるが、その病苦の内容を調べてみると、病気そのものの苦しみ、つまり第一の矢による苦しみは三合五勺ほどなのに、気の病の苦しみ、つまり第二の矢による苦しみは八石五斗もあるというのである。しかも医学の進歩のおかげで第一の矢の苦しみはどんどん小さくなっているが、気の病の治療は病院では難しいのである。
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