ウズベクスタンとタジキスタン

平成二四年九月、ウズベキスタンとタジキスタンを旅してきた。といってもこれらの国がどこにあるかを知っている人は少ないと思う。両国ともアフガニスタンの北にあって、ともに以前はソビエト連邦に属していたが、一九九一年のソ連邦崩壊のとき隣接するキルギス、トルクメニスタン、カザフスタンとともに独立したのであった。

これら中央アジア五ヵ国と呼ばれる国は、いずれも海を持たない内陸国であり、主要構成民族はタジキスタンがイラン系、他はトルコ系である。この五ヵ国は国名が似ている上に複雑な国境線を持っているため、国名と場所を覚えるのは簡単ではない。なお国名についているスタンは、地域や国を意味するペルシャ語から来たとされ(他の説もある)、キルギスも以前はキルギスタンと呼ばれていた。

ウズベクスタンとタジキスタンは、ともにイスラム教が大勢をしめる国であるが、長くソ連に占領されていたことでイスラム教は弱体化しており、旅行中に礼拝を知らせるアザーンを聞いたことも、礼拝する姿を見たことも一度もなかった。またヒゲをのばしている男も少なく、イスラム教で禁止されているはずの酒を売る店もあった。この両国は以前は仲が良かったが、ウズベキスタンを流れる川の上流にタジキスタンがダムを作ったことで関係が険悪になったという。これは国境を越えて流れる国際河川によくある話で、隣国と仲よくするのはどこも難しいものである。

中央アジアの中心部に位置するウズベキスタンは、正式国名をウズベキスタン共和国といい、日本の一・二倍の国土に、約二七八〇万人が住む国である。政体は二院制の共和制、民族構成はウズベク人七八・四パーセント、ロシア人四・六パーセント、タジク人四・八パーセント、タタール人一・二パーセントなどである。

ウズベキスタンはアムダリヤとシルダリヤという二本の大河に挟まれた場所にある(ダリヤは川)。この二本の川はともにアラル海という大きな湖に注いでいたが、川の水を農業用に使うようになってから湖に水が流れ込まなくなり、今やアラル海は消滅状態になりつつあるという。これは二十世紀最大の環境破壊といわれる。

タジキスタンは正式国名をタジキスタン共和国といい、日本の四割ほどの国土に、約七一〇万人が住む国である。政体は二院制の共和制、民族構成はタジク人七九・九パーセント、ウズベク人十七パーセント、キルギス人一・三パーセント、ロシア人一パーセントなどである。

タジキスタンは国土の九三パーセントが山地という日本以上の山国であり、四輪駆動車で越えた標高三三七八メートルのシャフリスタン峠が今回の旅の最高地点であった。この峠は玄奘(げんじょう)三蔵もインドへの往路で越えたはずの峠である。タジキスタンの山中には、ポプラの木に囲まれた小さな集落が山の険しい斜面にしがみつくように点在していた。ここの山村にはポプラが付きものであり、その隠れ里のような雰囲気が印象的であった。

乾燥地帯にありながらも、タジキスタンは多くの河川を持つ水の豊かな国である。旅行中に雨は一度も降らなかったが、冬に大量の降雪があるということで、その雪解け水で発電し、余った電気はアフガニスタンに売っている。

この国のバザールなどで売られている商品の九〇パーセントは中国製品だという。そのため現地ガイドは自国が中国の植民地になることをひどく警戒していた。どうやらこの国は中国に呑みこまれつつあるらしい。

今回の旅の行程は、まずウズベキスタンの首都タシケントへ飛び、そこから車でタジキスタンに入り、タジキスタン第二の都市ホジェンド、古都イスタラフシャン、シャフリスタン峠、首都ドゥシャンベ、アジナ・テパ遺跡、陸路でまたウズベキスタンに入り、最南の町テルメズ、空路で再びタシケント、そして帰国、であった。
 
     
ソグド人

今回の旅の主な目的は、この両国に残る仏教遺跡と、シルクロードの交易で繁栄したソグド人の遺跡を見学することであった。ソグド人は広大過酷な中央アジアで交易活動をおこなっていたイラン系の民族であり、彼らの隊商の行動範囲は西は東ローマ帝国、東は中国に及んでいた。彼らは自分たちの国は作らなかったが、シルクロード沿いに多くのソグド人町を作り、その町はつねに川を見下ろす丘の上に作られていた。現在のウズベキスタンが彼らのふるさとの地であったので、そこはソグディアナ(ソグド人の土地)と呼ばれていた。

玄宗(げんそう)皇帝の時代に安史の乱(七五五年〜七六三年)を起こした安禄山(あんろくざん)は、父がソグド人、母が突厥人(とっけつじん。トルコ系)であった。そのため中国に住んでいたソグド人は、謀反を起こした敵対民族としてそのとき抹殺され、また中央アジアに住んでいたソグド人は、イスラム教を広めながら侵攻してきたアラブ人と戦って滅ぼされ、ということでソグド人という民族は今は存在せず、その子孫はおもにタジキスタンに住んでいる。

このソグド人の祖先崇拝の行事が、お盆の起源だとする説がある。シルクロードを往来するソグド商人が、仏教とともに彼らの祖先崇拝の行事を中国に伝え、それが中国で盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事になり、それが日本に伝わってお盆になり、ソグド語で先祖の霊を意味するウルバンがウラボンの語源になった、という説である。またソグド人の多くが信奉していたのは拝火教(ゾロアスター教)であったので、お盆の「迎え火」や「送り火」の行事は、拝火教の行事が取りこまれたものではないかともいわれる。拝火教徒はイランやインドに少数残存している。

昭和四三年に仏教学者の岩本裕(ゆたか)氏が出したこの説は、かなりの支持を得て今では百科事典にも載っている。そこで何か手がかりがあるかもしれないと、タジキスタンの現地ガイドに、この国にイスラム教らしからぬ先祖供養とか、ウルバンという言葉が残っているかときいてみたが、どちらもないという返事であった。

     
イスラム教国の仏さま

今回の旅で注目すべきは二体の仏さま、ウズベキスタンの釈迦三尊像と、タジキスタンの涅槃像であった。両国とも二千年前には仏教が広まっていた国であるが、イスラム教国になってから長い年月が経っているため、仏像の類はほとんど残っていない。この二体はそうしたイスラム教国で破壊と風化をまぬかれた貴重な例外なのである。

釈迦三尊像はウズベキスタン南端の町テルメズのファヤズ・テパ遺跡で発見されたもので、首都タシケントにある歴史博物館の重要展示物になっている。高さ1メートルほどの縦長、楕円形の岩に彫られた浮き彫りであり、素材は石灰岩のように見える。僧院の壁にはめ込まれていたものが、壁からはずれて前方に倒れ、彫ってある面が下になって埋もれたため、千数百年ものあいだ破壊も風化もされずに残ったのだという。

脇立(わきだち)の腕は失われているが、ほかはほぼ完全に残っており、脇立は阿難(あなん)尊者と迦葉(かしょう)尊者と思われる。絵はがきの写真で見ると、この仏さまは少し猫背で眠そうな顔をしているが、これは撮影の角度が良くないからであり、斜め下から見るとすばらしい仏像だと分かる。なお遺跡名についているテパは丘を意味する言葉である。

タジキスタンの涅槃仏は、タジキスタン南部のアジナ・テパ遺跡で発見された全長十三メートルの土製の涅槃仏で、首都ドゥシャンベの古代民族博物館に収められている。アジナ・テパは「悪魔の丘」を意味し、地中に大きな悪魔が埋まっているとして人々が恐れて近づかなかった丘を発掘したら、僧院跡と涅槃仏が見つかり、涅槃仏は数十に分割されて博物館に運ばれたという。

このアジナ・テパ遺跡は、発見されたとき最も西にある仏教遺跡ではないかといわれたが、今はトルクメニスタンのメルブ遺跡が最西とされる。ただし数年前に龍谷大学の調査隊がイランで仏教遺跡らしきものを発見しており、それが本当ならこちらが最西になる。これはモンゴル帝国がイランを支配したときの寺院跡ではないかといわれる。

     
テルメズの思い出

釈迦三尊像が発見されたテルメズは、真夏には気温が六〇度にもなるという酷暑の町、そしてアムダリヤの対岸はアフガニスタンという国境の町である。テルメズは大唐西域記にタン蜜国(タンは口の右に旦)の名で載っており、「伽藍十余ヶ所、僧徒千余人」と記されている。

この町は過去に三つの大事件の舞台になったとガイドが言っていた。最初の事件は紀元前四世紀に起こった。西からアレキサンダー大王がやって来て、対岸のアフガン側からアムダリヤを渡ってテルメズの地に入り、ここを拠点に中央アジアに兵を進めたのであった。そのときに作られた川の渡し場と補給基地がテルメズの町のおこりという。

つぎの事件は十三世紀であった。東からモンゴル軍がやって来て町を占領し、ここで渡河してペルシアへ向かったのであった。そのときモンゴル兵が多くの人を殺したため、今でもこのあたりの人はみなモンゴル嫌いだという。やられた方はいつまでも忘れないものである。

第三の事件は一九七九年である。北からソ連軍がやって来て、ここからアフガニスタンに侵攻し、ゲリラ戦に手を焼いて十年後に撤退したのであった。以上がテルメズの三大事件である。

この町では一日かけてゆっくりと四つの仏教遺跡を回った。ところがいちばん重要なカラ・テパ遺跡は、国境守備隊の基地内にあるため見学には軍の許可が必要であり、見学のときには兵士一人が同行し、国境の方は撮影しないように警告されたが、撮るなと言われると撮りたくなるのが人情、見つからないようにみんなしっかり撮っていた。

綿花畑の中に立つズルマラの塔は、のろし台として使われたため破壊をまぬかれたという仏塔であるが、日干しレンガ製のため風雨に浸食されてすでに塔の形はなく、大きな土のかたまりになっていた。これからもどんどん崩れていくことだろう。

ウズベキスタンの仏教遺跡の発掘に情熱を燃やす、加藤九祚(きゅうぞう)という九〇歳の日本人がいることをこの地で初めて知った。テルメズから少し離れたダンベルジン・テパという大きな遺跡の近くに、「加藤の家」という宿泊施設を作り、そこを基地に年に数ヵ月間、遺跡の発掘をしているという。老後の楽しみはウズベキスタンでの遺跡発掘ということである。

彼はウズベキスタン政府から友好勲章と、ビザなしで入国できる特権を与えられているということで、現地ガイドが「加藤センセイ」と呼んでいたことから判断すると、現地の人からも尊敬されているらしい。彼はシベリア抑留の経験者であり、四年八ヵ月におよぶ過酷な強制労働の間にロシア語を習得したという偉人である。そしてそれがこの国での遺跡発掘につながったのであるが、シベリア抑留がソ連が犯した重大なる戦争犯罪であることに変わりはない。

ダンベルジン・テパはクシャン王朝の都の遺跡だとガイドが言っていたが、いくら探してもこの遺跡に関する資料は手に入らなかった。もちろんガイドブックにも載っていない。それはこの遺跡だけの問題ではなく、今回訪ねた遺跡はどれも立派な遺跡ばかりであったが、どれも参考資料が見つからないのである。なおクシャン王朝には仏教が広まっていたので、この遺跡から仏像も数多く発掘されているが、ここでの最大の発見は壺の中から見つかった三六キログラムもの金製品であった。

クシャン王朝はパキスタンのペシャワールに遷都してから大きく発展し、この王朝から仏教を庇護したことで知られるカニシカ王が出た。クシャン王朝に優遇されたことで仏教は中央アジアに急速に広まることができたのであり、テルメズの仏教遺跡はすべてクシャン王朝時代のものだという。

ちょうど綿摘みの季節だったので、見渡すかぎりの綿花畑の中でたくさんの人が綿摘みをしていた。なぜ機械を使わないのかときいたら、手摘みの方が良質の綿ができるのだという。ウズベキスタンは世界第三位の綿の輸出国であり、綿花はここでは白い黄金と呼ばれている。ところがよく分からない話であるが、職員全員が綿摘みに行っているという理由で、テルメズの博物館は夕方まで見学できなかった。博物館員にも綿摘みのノルマが課せられているのだろうか。

テルメズの町を車で走っているとき、首筋にかゆみを感じて手をやったら、ナンキン虫が食いついていた。三十数年ぶりの出合いであったが、対面したのはその一匹だけであった。

     
その他の思い出

今回の参加者は旅慣れた人が多かった。なかでも沖縄からきた七七才の男性は、これまでに百二十ヵ国を旅してきたというベテランであり、余程の金持ちかと思ったら、元公務員の年金生活者であった。妻なし子なしの安アパート住まいで、年金をすべて海外旅行に使っているという。すり切れた背広で旅行している理由をきいたら、背広を着ていないと入れない場所があるからだという。

イスラム教国に残る仏教遺跡と、千年以上も前に滅亡した民族の遺跡をたずねる旅行が企画され、それが催行人数に達したというのは意外なことであった。旅行社の企画の勝利である。帰国後、写真入りの記録を送ってくれたのもありがたかった。千枚以上の写真をとってきたが、写真で見ると遺跡はみな同じに見えるので、撮影場所の分からない写真がたくさんあったのである。

肉と小麦製品が主食の国なので、お腹をこわすだろうと覚悟していたら、やはり途中からおかしくなってきた。ところが両国ともひどく公衆トイレのお粗末な国で、こういう青空トイレのほうが余程ましという国の旅行は女性向きではない。しかもタジキスタンからウズベキスタンへ陸路で入国したときには、国境通過に三時間もかかったのにトイレがないという不親切さであった。

それと乾燥のため唇がひび割れて困った。同行の女性は三〇分ごとにクリームを塗っても唇が割れると言って嘆いていた。

参考文献「仏教説話研究第三。目連伝説と盂蘭盆」岩本裕 昭和43年 法蔵館

もどる