塔婆の話

都会の墓地ではほとんど見かけなくなったが、私が住んでいる所では法事などのとき、塔婆(とうば)というものを墓地に立てる。この塔婆というのは一体何なのか。何のために立てるのだろうか。

塔婆の語源はインドのストゥーパという言葉である。それを仏教が中国に伝わったとき中国人は卒塔婆(そとうば)とか卒都婆(そとば)と音写し、卒塔婆が省略されて塔婆になり、さらに省略されて塔になったのである。つまり塔婆は塔の一種であり、ふつうは板でできた板塔婆を塔婆と呼んでいるが、単なる板ではなくよく見ると五輪塔の形をしていることが分かる。

塔は仏教の象徴であり、塔を建てることには無量の功徳があるとされる。そのため大きな寺の境内にはたいてい三重の塔や五重の塔が立っているし、日本以外の仏教国にもたくさんの仏塔がある。海外の代表的な仏塔としては、ビルマのヤンゴンに高さ九九・四メートルの黄金色に輝くシュエダゴン・パゴダがあり、タイのナコーン・パトムには高さ百二〇・四五メートルの世界最大の仏塔がある。また今はイスラム教の地となったパキスタンやアフガニスタン、中央アジアの国々にもたくさんの仏塔の遺跡が残っている。

東南アジアの仏塔は日本のものとかなり形が違うが、実は向こうの方が塔の原型に近い形をしているのであり、インドに残る古い塔の形から推測すると、遺体を埋めた土まんじゅうの上に棒を一本立てたものが、塔の始まりだったのではないかと思う。

塔婆はこうした塔の一種であり、塔を立てた功徳を亡くなった人に回向するのが塔婆を立てる目的である。だから墓に立てるものなので縁起の悪いものと思われがちだが、塔婆はきわめて縁起のいいものなのである。

法華経はこうした建塔の功徳を強調するお経の代表であり、経中にこういうことが書いてある。「子供が戯れに砂を集めて塔を作っても大きな功徳がある。その子供は塔を作った功徳でやがては仏になることができる」

その法華経を信奉する宗派の一つに、藤井日達上人が開教した日本山妙法寺がある。上人は法華経の教えを広めるために、世界中にたくさんの仏塔を建立してまわり、釈尊が法華経を説いたとされる霊鷲山(りょうじゅせん)にはとくに立派な塔を建立した。

インド旅行中に、その塔にお参りしたことがある。霊鷲山のふもとの妙法寺に泊まったとき、霊鷲山に日参する修行をする僧がいたので、同行させてもらったのである。朝まだ暗いうちに出発し、うちわ太鼓を叩きながら霊鷲山に登り、山頂でご来光を拝んでから、その塔にお参りしたのであった。妙法寺に帰るとき登校する子供たちが、合掌しながら「ナマステ」と挨拶してくれたのを今でもよく覚えている。

     
塔の起源

仏塔の起源を調べていくと釈尊の入滅にたどり着き、その入滅に関することは涅槃経(ねはんぎょう)の中に詳しく書かれている。それによると釈尊は今から二千四百年ほど前に、インド北部のクシナガラで亡くなり、その死は偉大な聖者にふさわしい安らかで威厳に満ちたものであった。

そして死を聞いて集まってきた人たちの手で葬儀と火葬がおこなわれたが、そのとき遺骨をめぐって争いがおきたとある。釈尊の遺骨を舎利(しゃり)とか仏舎利(ぶっしゃり)と呼ぶが、舎利をめぐって八つの部族があらそい、危うく武力衝突にまでなりかけたという。釈尊はわれわれの部族と関係が深かったのだから、遺骨はわれわれが持ち帰って供養したい、といって互いに争ったのである。

そのときドーナというバラモンが仲裁に入り、「修行者ゴータマは堪え忍ぶことを説いた聖者である。その聖者の遺骨をめぐってあらそいを起こすほど愚かなことはない。みんなで仲良く分けるべきだ」と説得して舎利を八つに分け、分配後にやって来たモーリヤ族には残った灰が渡され、ドーナには分配のとき用いた瓶が与えられ、こうしてそのとき十基の塔が作られたという。これが歴史的に確かとされる塔の起源であり、バイサリにある古い塔はそのとき作られたものといわれる。

後にアショカ王が、そのうちの七つの塔から舎利を集めて宝石などで量を増やし、インド各地に八万四千の塔を建てたと伝えられる。八万四千というのは大変な数だが、八千四百とか八万四千はインドで「たくさん」という意味で使われる数字である。

こうして塔は釈尊の死後、その徳を慕う人々の礼拝や巡礼の対象となり、やがて仏教の象徴となったのである。仏塔は舎利を納めるためのものなので、日本の塔にも舎利が納めてあるが、本物の遺骨は手に入らないから宝石などで代用している。

ならばそのときなぜ塔に舎利を納めたのだろうか。その答えは「塔はそれ以前から存在しており、舎利を納めるのにふさわしいものと考えられていた」ということだと思うが、それ以前のことは不明である。ただし十誦律の五六巻に、釈尊の在世中に塔を作った話が記されているという。それは給孤独(ぎっこどく)長者が、諸国遊行中は供養することができないので代わりになるものをいただきたい、と釈尊に申し出て爪と髪をもらい、爪塔と髪塔を建立したという話である。

一八九八年に、インドとネパールの国境の村ピプラーワーの古い塔の遺跡から、厳重に封印された遺骨が見つかり、塔の作られた年代や瓶に記された文の内容から、釈尊の遺骨にまちがいないと認められた。そしてインドやネパールは今はヒンズー教の国なので、その遺骨は仏教国タイの王室にゆずられ、さらにその一部が日本に分骨されて、名古屋の覚王山日泰寺(にったいじ)に納められた。日泰寺は仏舎利を納めるために建てられた超宗派のお寺であり、名古屋駅から地下鉄ですぐのところにある。

日本の墓は石を積んで高く作られており、その形から分かるように日本の墓は石の塔である。釈尊の遺骨を塔を作って納めたように、亡くなった人の遺骨を石塔に納めるのが日本の墓の形なのである。

     
塔を建てる者

宮沢賢治が塔に関する詩を病気のとき書き残している。塔を建てるという言葉でもって、仏法興隆に尽力する決意を表した詩である。

手は熱く足はなゆれど
われはこれ塔建つるもの

滑り来し時間の軸の
をちこちに美ゆくも成りて
燦々(さんさん)と暗をてらせる
その塔のすがたかしこし

貪り厭かぬかれゆえに
一基の塔をうち建てん
正しく愛しきひとゆえに
さらに一基を加へなん

参考文献「ゴータマ・ブッダ」 中村元選集第一巻 昭和44年 春秋社

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