自分の話

この体が自分であること、その自分が今どこに存在しているかということを、誰しも常に自覚しながら生きている。それでなければ生きていけないのであるが、ならばその自分という存在はどこで成立するのかというと、脳の中に自分の範囲や自分のいる場所を認識するための機能が備わっていて、その働きにより自分が成立しているのだという。

その自分という存在はカーナビの矢印のようなものだという。カーナビという道案内をしてくれる装置に地図を表示すると、地図の中に現在地と現在方向を示す矢印も表示され、その矢印があることで目的地へ行く道を見つけることができる。もしも矢印が表示されなければ、カーナビの地図は役に立たないのであり、山を歩くとき地図で現在地を確認しながら歩くのもそのためである。

このように自分というものは生きていく上で必要なものであるが、この自分はたいへんに依怙(えこ)ひいきな性格を持っている。つまり自分に属するものはそれが何であれ無条件に、プラスの価値を持つもの、自分の味方、良いもの、きれいなもの、正しいもの、と依怙ひいきし、自分以外のものに対しては、それがどんなに素晴らしいものであれ、マイナスの価値を持つもの、自分の敵、悪いもの、汚いもの、まちがっているもの、と依怙ひいきするのである。

たとえば口の中にある唾液、これが口の中にあるうちは不潔なものとは感じていないが、外に吐き出したとたん汚らしいものになる。たった今まで自分の一部であったものでも、自分から離れたとたん不潔なものに感じられるというように、きわめて依怙ひいきな性格を自分は持っているのである。

夫婦も同じようなものだと思う。結婚したてのころは、夫婦は一心同体、あなたは私のもの、私はあなたのものなどと感じているため、互いにとって相手はきれいな、いとしい、大切な存在である。ところがやっぱり自分ではなかったということに気がつくと、それまでの反動もあって、急に憎たらしい嫌な存在になり、やがては粗大ゴミとも思えてくるのである。

ならばその自分を成り立たせている機能が、働かなくなったらどうなるのだろうか。脳卒中などの原因で、脳のその部分が機能しなくなった人が現に存在する。するとその人はカーナビの画面から矢印が消滅した状態になり、そして自他を区別する境界線も消滅し、境界線の中に閉じ込められていた自分も消滅する。ところがそれと同時に、あらゆる場所に自分がいるという状態、世界すべてが自分であるという状態になってしまうという。

そして世界すべてが自分になることで、すべてがプラスの価値を持つもの、自分の味方、自分にとって大切なもの、きれいなもの、という恍惚とした喜びの世界が開けてくるという。これはすばらしい宗教体験であり、これこそまさに悟りの境地である。

もちろん仏道修行は脳卒中になることで、そういう境地を得ることを目ざしているわけではなく、また悟りを開けば自分が完全になくなるわけでもないが、自分の周囲に境界線をこしらえている脳の機能を何らかの方法で抑制すれば、すべては一つ、すべては自分、という世界が開けてくるのである。そして脳波の検査などにより、瞑想や祈りなどをおこなうことでその機能を抑制できることが分かってきた。

世界はすべて自分自身である、というのは実はまちがいのない事実である。私たちが住んでいるこの世界は、すべて心の中に自分が作り出したものである。目というカメラを使って心の画面に映し出したもの、それがいま見ている世界である。耳というマイクで集めた音を、心の中で聞いているのがいま聞いている音の世界である。同様に、暑いとか寒いとか、うまいとかまずいとか、香りがいいとか悪いとか、そうした世界を成り立たせている要素は、すべて感覚器官を通して心の中に投影された幻であり、私たちはこの幻の世界の外に出ることはできないのである。

そしてすべては心の中のでき事であるからこそ、自分と自分以外のものを分けるための機能、カーナビの矢印のような機能が必要になってくるのである。

菩提和讃(ぼだいわさん)の初めにこんな言葉がある。

「もし人、三世一切の、

 仏を知らんと欲すれば、

 法界性(ほっかいしょう)を観ずべし、

 一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)なりと」

一切唯心造、つまり一切は心が作り出したものであり、それがこの世界の真理である。そして仏とは一切を作り出している心の名であり、それが宇宙の根源なのである。

参考文献
「奇跡の脳」ジル・ボルト・テイラー著 竹内薫訳 2009年 新潮社
「第八回臨黄教化研究会報告書。基調講演。震災から問われているもの。養老孟司」平成24年 臨黄各派合議所

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