今昔物語その二十九

今は昔、京都、鳴滝の般若寺(はんにゃじ)という寺に、覚縁律師(かくえん・りっし)という僧が住していた。この人はもとは千攀僧都(せんばんそうず)に学んだ東大寺の優秀な学僧であったが、のちに東寺の僧となって広沢の寛朝僧正(かんちょうそうじょう)に弟子入りし、真言を習って優れた霊験を現した。そのため学問と霊験の両面で貴顕の厚い信任をうけ、年若くして律師になったのであった。

律師は般若寺を師から受け継ぐと、本堂の西南に大きな僧坊を建て、西北には廊下などを張り出して作り、それらはすべて節のない良材を使った見事な造営であったので、もともとすばらしい寺がさらに立派になり、関白殿もお出ましになって、しかるべき身分の人たちを集めて漢詩などを作ったりした。そのため寺に客の来ない日とてなく、加持祈祷や講義のために律師が貴い方々に召されない日もなく、「世にあるからはあのようにありたい」とまで皆に言われるようになった。

この結構な寺に住むうちに、律師はどうということもない病にかかり、しばらくは風邪だろうと湯治などをしていたが、しだいに病は重くなり、毎日のように弟子たちが集まって祈祷をしたり、皇族たちから見舞いの使いが来たりするようになった。年は若く容姿は端麗、学問も霊験も著しい、という僧なので彼を頼みとする者は多く、その者たちが病を心配したのも当然であった。

律師はとくに法華経をそらで覚えてまことに貴い声で読経したので、聞いて涙を流さない者はなく、病の床にあっても夜昼となく読経を欠かすことはなかったが、病は重くなる一方であり、ついには弟子たち一人一人に没後のことを言い残すまでになった。ところが寺を誰に任せるかは言わなかったので、「きっと古参の弟子があとを嗣ぐのだろう」とみな思っていた。

律師に公円(こうえん)という弟子がいた。この弟子はひどく偏屈な男だったので、目通りも許されぬ勘当者のような状態になり、あちらこちらと場所を変えながら修行して回っていた。そのときは勝尾(かちお)という所に籠もっていたが、律師が病気だと聞いて驚き、急ぎもどってきた。律師は死の前日、主だった弟子たちがたくさん居ならぶ前で、弟子の数にも入らぬ憎まれ者の公円のことを苦しい息づかいでたずねた。

「公円は来ているか」

「四、五日前に参りました。遠慮して出てきませんが後ろの小屋にいると思います」

「あれをここへ呼びなさい」

居並ぶ人たちはその言葉をけげんな顔で聞き、それは公円にとっても意外なことであったが、呼ばれて師のそばにすわった。

「汝は極めつけの偏屈者で、わしが東と言えば西と言い、立てといえばすわったりするので、わしも長年汝をうとましく思っていた。そのためあちこち歩き回って修行していると聞き、哀れに思うこともあった。わしはもうじき死ぬ。わしが死ねばこの寺は一日ごとに荒れてゆき、堂は壊れ、仏は盗まれ、やがて人ひとり住まなくなるであろう。

そこで汝はどんなに辛く思うことがあってもよそへ行かず、一枚の板の切れ端も大事にしてここに住んでほしい。ここにいる他の弟子はみな優れた者たちであるが、ここに留まる者は一人もあるまい。ただ汝のみがよく寒暑を忍び飢えに耐え、ここに住み続けることができると思うから言うのだ。ゆめゆめ背いてはならぬ」

これを聞いた名だたる弟子たちはみな思った。「我らこそここに住んで、さまざまな仏事を絶やすことなく行おうと思っているのに、こんな役にも立たぬ僧に言いつけるとは合点がいかぬ。病気のせいか、それとも何か訳があってのことだろうか。とはいえ我らはどこへも行かぬ。どんなぼろ寺であっても弟子は師のあとに住むもの、いわんや長く伝えられてきたこの尊く立派な寺を去ってどこに住む所があろう」

やがて律師が亡くなると、弟子たちは葬儀を行い、四十九日の間は師の在世中と変わることなく賑やかだったので、「この寺が衰えることはない」とみなで喜びあった。ところが忌が明けるや、縁の深くない弟子たちは自分の寺に戻るため次々に去り、縁の深い弟子たち二、三十人があとに残ったが、以前は周囲の里人たちがうるさく言うことは決してなかったのに、年月が過ぎていくとしだいに侮るようになり、そうしたことから残った弟子も一人二人と減っていった。

去る者や死ぬ者はあっても新たに加わる者はなく、熱心に修行する者は東大寺などへ行き、やがて訪ねてくる人もいなくなり、十年もすると境内から人影が絶えはてた。そのため馬や牛が入り込んで庭木を食い荒らし、建具なども壊れて荒れはて、人が見て哀れに思うほどの状態になった。

それでも公円は住んでいた。ほかに住む者といえば弟子の小法師が一人のみ、ついには僧坊の中で火を焚くけしきも見えず、「今に公円も逃げだすぞ」と人々は思っていたが、彼は貧しさを露ほども顧みず住みつづけ、それを哀れに思い訪ねる者はあっても、その偏屈さゆえに親しい友となる者はなかった。

そうして耐えがたきを耐え忍びながら住みつづけたのは、ひとえに師の最後の言葉に背かぬためであり、四十余年たつと建物はみな倒れてしまったが、それでも公円は二、三間残った廊下の片端に住みつづけ、命終に臨んでは弥陀の念仏をとなえながら貴く命を終えた。今そこには礎石が残るばかりと語り伝えている。

出典「今昔物語集。巻第十九。第二十三話」

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