今昔物語その二十八
今は昔、奈良の大安寺(だいあんじ)の別当(べっとう。寺を統括する人)に、上品で美しい娘がいた。その娘のもとに、ある蔵人(くろうど。宮中の総務課職員)が夜な夜な忍んで通い、やがて離れがたい関係になり、時には昼まで帰らないこともあった。
ある日のこと長居して昼寝をしていた男は夢を見た。この家の上中下すべての人がにわかに大声をあげて泣き出し、どうしてあんなに泣いているのかと怪しく思い見に行くと、舅(しゅうと)の僧、姑(しゅうとめ)の尼君を初めとして、家の者すべてが大きな器を持って泣き叫んでいた。
「どういうわけで器を持って泣いているのか」とよく見ると、器の中には真っ赤に溶けた銅が入っており、たとえ地獄の鬼が打ち責めながら無理やり飲ませても飲めそうもない銅の湯を、泣く泣く自分から飲んでいた。やっと飲み終えたと見るや、またもらって飲む者もいた。下男下女にいたるまで飲まない者はいない。
女房のひとりが呼びに行ったので、寝ていた娘もその部屋に入ってきた。いぶかしく思いながら見ていると、女房が大きな銀の器に銅の湯をなみなみと満たして手渡すと、受け取った娘はか細い声をあげて泣き泣き飲む。すると目や耳や鼻から炎と煙が吹き出してきた。
これは奇異なことだと思っていると、「お客様にもさし上げなさい」と言われた女房のひとりが、銅の湯の入った器を台に乗せて持ってきた。「私も飲むのか」と男は恐ろしさで胸がふさがって苦しくなり、そのとき夢から覚めた。
そのとき女房のひとりが食べ物を台にのせて持ってきた。舅のところでも物を食べながらみながお喋りをしている。男は思った。「きっとあの別当は、寺の物をかってに使ったり食べたりしているに違いない。その報いがさきほどの夢に現れたのだ。この食べ物は絶対に食べてはいけない」
そう決心した男は、急にその寺にいるのも嫌になり、気分が悪いからと言って何も食べずにすぐそこを出た。娘への思いもたちまち失せてしまい、二度と訪れることもなかった。そして男は慚愧の心といささかの道心を起こし、その後、仏の物を私用することはなかった。
出典「今昔物語。巻第十九。第二十話」
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