今昔物語その二十六
今は昔、円融天皇(えんゆうてんのう。六十四代。十世紀中頃)の御代に、三河の守(かみ)大江定基(おおえの・さだもと)という人がいた。定基はすぐれた才を持つ慈悲深い人であり、蔵人(くろうど。宮中の総務課)の職を勤めあげると、三河の守に任じられた。
定基には長年つれ添った本妻がいた。ところが若くて美しい女に思いをかけて離れがたくなり、それを本妻がはげしく嫉妬したため、たちまち夫婦の縁が切れてしまった。そのため定基は若い女を妻とし、彼女を伴って三河へ下った。ところがほどなく女は重い病にかかって長く悩みわずらい、定基が心を尽くして祈祷をおこなっても癒えることはなく、美しい容色が衰えていくのを見ている定基の悲しみは譬えようもなかった。
長患いの末に女はついに亡くなったが、定基は悲しみのあまり葬ることをせず、女の体を抱いて共寝していた。そして数日後、女の口を吸ったところ何ともいえぬ悪臭がしたため嫌悪の心が生じ、泣く泣く葬った。こうして「この世は憂きものである」と悟った定基の心に道心が芽生えた。
三河の国では風祭りということが行われていた。猪を捕らえ生きたまま切り分けて食べるという祭りであり、それを見て定基はいよいよ道心を起こし、速やかにこの国を去ろうと思った。そうしたとき、ある人がキジを生きたまま捕らえて持ってきた。
「この鳥を生きたまま料理して食ってみようではないか。一段と味が良いかもしれん」。定基がそう言うと、多少とも道理と情を弁えた人たちは「浅ましいことをするものだ」と思ったが、思慮のない家来はご機嫌を取り結ぼうと追従して言った。「それはまことによい考えです。味が良くなること請け合いです」
さっそくキジを持ってこさせて、生きたまま羽根をむしらせると、鳥はしばらくはバタバタとしていたが、そこを抑えつけてさらにむしると、目から血のような涙を流し、目をしばたきながら周りの人間の顔を見た。それを見て立ち去る者もあれば、鳥が泣いているぞと笑いながらさらに羽根をむしる者もあった。むしり終わってから切り裂くと血がたらたらを流れ出た。刀の血をぬぐいながらさらに切り分けていくと、鳥は苦痛の声をあげて絶命し、それをさらに切り分けて料理した。
ところが「ことのほか美味しゅうござる。死んだ鳥を切り分けて、煮たり焼いたりしたものとは比べものになりませぬ」と家来が言うと、定基は目から大粒の涙を流し、大声を放って泣き出した。そのため「いい味だ」などと言っていた者は恐れ入ってしまった。定基はその日のうちに国府を出て京へ上り、髻(もとどり)を切って法師になり、名を寂照(じゃくしょう)と改めた。世に三河入道というはこの人のことである。彼はよくよく道心を固めようとこのようなことをしたのであった。
その後、寂照が京の町を托鉢(たくはつ)して歩いていると、招き入れて畳の上に坐らせ、ご馳走を出してくれる家があった。出されたものを食べていると御簾(みす)が巻き上げられ、奥に高価な着物を着た女が坐っていた。見ればそれは自分が昔、離縁した妻ではないか。
「この乞食。いつかこうして乞食するのを見るだろうと思ってましたよ」と言って女はしげしげと見つめるが、寂照は恥ずかしがる景色もなく、「まことにありがたいことだ」と言ってご馳走を充分に食べ、帰っていった。これはきわめて稀有なことで、道心がしっかり固まっていたからこそ、かかる不信の徒に会ってもうろたえることがなかったのである。
それから寂照は中国に渡り、念願にしていた聖跡を巡拝して歩いた。宋の皇帝も彼を深く敬い、来るのを待ち受けていた。あるとき皇帝はこの国のすぐれた僧を召し集め、堂を荘厳し食事を調えてねんごろに供養した。そのとき皇帝が言った。「今日の斎会(さいえ。食事の供養)では給仕の者は中に入ってはならぬ。各自が前に置いてある鉢(はつ)を飛ばして供養を受けるがよい」
その心は日本から来た寂照を試すことにあった。皇帝の仰せに従い、いちばん上座の和尚から順番に鉢を飛ばして食事を受けた。出家としての経歴が浅く末席に坐っていた寂照は、順番が回ってくると自ら鉢を持って立ち上がろうとした。それを見た人が言った。「それではいけない。鉢を飛ばして受けなさい」
寂照は鉢を捧げ持ちながら言った。「鉢を飛ばすのは特別な行法です。私はそれを修行したことがありません。昔は日本の国にも飛鉢(ひはつ)の法を会得した人があると聞いていますが、この末世にできる人はいないのです。すでに法が絶えてしまったのですから、どうして私にできましょう」
ところが周りの人はしきりに催促して言った。「日本の上人の鉢は遅い。遅い」。困りはてた寂照は鉢を見つめて一心に念じた。「故国の三宝よ、助けたまえ。鉢を飛ばすことができなければ、故国にとってひどい恥になります」
すると寂照の前に置かれた鉢が、にわかにコマのようにくるくると回り出し、他の僧の鉢よりも素早く飛んで行き、食べ物を受けて返ってきた。皇帝を初めとして大臣や居ならぶ百官たちはみな貴び拝むこと限りなく、その後、皇帝は寂照に深く帰依するようになった。
文殊菩薩の聖地の五台山に詣でたとき、寂照は種々の布施をおこなった。その一つに施浴(せよく。入浴の供養)があり、入浴の前にまず衆僧に食事を供養していると、その場にひどく汚らしい女が、子を抱き犬を一匹つれて現れた。女の体はできものだらけで不潔なこと限りなかった。
そのため皆が大声で追い払おうとしたが、寂照はそれを制し女に食べ物を与えて帰らせようとした。すると女が言った。「体中にできものがあって耐えがたいほど辛く、そのため湯浴みがしたくて来ました。少しばかりのお湯でも浴びさせて下さい」
人々はこれを聞くと、ののしり追い払った。女は追われて逃げ去ったが、ひそかに湯屋の中に入り、子を抱き犬をつれたままザブザブと湯を浴びた。この音を聞いた人々は腹を立て、「追い出してしまえ」と言いながら湯屋に入っていくと、女はかき消すように居なくなり、おどろき怪しんだ人々が外に出てあたりを見回すと、紫の雲が輝きながら空に向かって昇っていった。「さては文殊菩薩が女の姿でお出でになったのか」といって人々は泣き悲しみ礼拝したが、もはや甲斐のないことであった。
寂照は故国の土を二度と踏むことはなく、これらの話は一緒に入宋(にっそう)した念救(ねんぐ)という弟子が、帰朝して語り伝えたものである。寂照に帰依した宋の皇帝は寂照に円通という大師号を贈った。
出典「今昔物語集。第巻十九。第二話」
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