今昔物語その十八
今は昔、九州の筑前(ちくぜん。福岡県北西部)の国に一人の身寄りのない尼がいた。尼は貴い上人が住む山寺に身を寄せ、上人の食事の世話などをしながら長年やっかいになっていた。
この尼はつねに弥陀の念仏を称えていたが、その念仏は小さな声でそっと称える念仏ではなく、かん高い声で叫ぶように称える念仏であったので、上人の弟子たちはそれを憎み、何かにつけて尼の悪口を上人に告げ口し、ついには追い出してしまった。
追い出された尼は行く当てとてなく、広い野を歩き回りながら念仏を称えていた。この国に住むある男の妻はきわめて慈悲深い人だったので、尼が念仏を称えながらさまよい歩くのを見て哀れに思い、家に呼び寄せて言った。「そうして野をさまよう姿を見るのは哀れでなりませぬ。ここは家も広く、庭も広い。ここに来て念仏を称えてください」
尼は喜んでその家に身を寄せ、食べ物なども与えてくれるので深く感謝してその女に言った。「こうしてただお世話になっているのは心苦しく思いますから、麻を用意してください。紡(つむ)いで差し上げます」
女がそんなことは必要ないと言っても、尼はぜひにと頼んで麻をもらい、心をこめて紡いだ。それを見て女は思った。「広い家だし、念仏を称えてもらおうと思って住まわせたのに、このようなことを真心をこめてするのは感心なことだ」
こうして三、四年ばかり過ぎたとき尼が言った。「私は明後日に死にます。その前に沐浴をさせてください。長年のご親切まことに感謝にたえません。そのお礼に死ぬときの様子をお見せしたいと思います。このことは誰にも言わないで下さい」
そう言って泣くこと限りなかった。女はこれを聞いて哀れみ悲しんだが、人には言わなかった。そしていよいよその日になると、まず尼に沐浴をさせ、それから浄衣を着せてやり、一間ほど離れた所から尼の様子を見ていた。尼はこれまで通り声高に念仏を称えていたが、深夜になったと思うころ、後ろの畑の中に見たこともない美しい光が突如として現れた。
女はこれを見て怪しみ、これはどうしたことかと思っていると、麝香(じゃこう)でさえも比べものにならないすばらしい香りがあたり一面に満ち、紫の雲が湧くように空から下りてきた。女が念仏を称えながら見ていると、尼は西に向かって坐ったまま、合掌した手を額に当てて息絶えた。女は世にも稀なめでたきことと悲しみ尊び、泣きながら礼拝した。
出典「今昔物語集。巻第十五。第四十一話」
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