マレーシアの話

平成二三年九月、マレーシアを旅行してきた。マレーシアは、正式国名もマレーシアといい、国土の広さは日本の九割ほど、人口は約二八三〇万人、国土はマレー半島南部とボルネオ島北部の二つの部分からなる、という国である。

旅行案内書にはマレーシアの政体として立憲君主制と議院内閣制の二つが併記されていた。この国は各州に王様がいて、五年ごとに持ち回りで国の王様を務めているが、国王に実権はほとんどなく実体は議院内閣制、ということである。

民族構成はマレー系が六六パーセント、中国系二六パーセント、インド系八パーセント、となっており、宗教はマレー系がイスラム教、中国系が仏教、インド系がヒンズー教である。そうした多民族多宗教国家であるから、この国には、仏教、イスラム教、ヒンズー教、キリスト教、に関係する祝日と、イスラム暦、中国暦、標準的な暦、にもとづく三つの正月がある。

ところがそのような事情にもかかわらずイスラム教が国教になっている。いくら多数派とはいえ、三分の二の勢力しかない宗教を国教にすることには他から苦情が出ているはずだが、経済が発展段階にあるためあまり表面化していないという。イスラム国家ということで共産主義ともアメリカとも反りが合わないらしく、この国では米ドルが使えなかった。結びつきが強いのは中東のイスラム諸国であり、この国の近代化には中東のオイルマネーが貢献しているという。

マレーシアがかかえる一番の問題は何かとガイドに質問したら、人手不足だという答えが返ってきた。そのため周辺国から五百万人が働きに来ており、出稼ぎの外国人がいなければビルも道路もできないが、彼らが悪いことばかりして困る、とガイドがぼやいていた。ただし移民は受けいれていないという。

マレーシアの主要産業は、原油の採掘と、油ヤシの栽培と、観光である。この国を訪れる観光客には長期滞在型が多く、日本人も一万人ほどが長期滞在しているが、日本の景気が良かったときには二万人を越えていたという。今回の同行者の中にも、長期滞在の下調べを兼ねて参加したという老夫婦が含まれていたが、食べ物はおいしく、治安の不安も少なく、医療も交通網も発達しているという国であるから、隠居生活をするにはいい国かもしれない。すこし南下すれば赤道という年中暑い国であるが暑さは三日で慣れるとか。

この国では二年前から徴兵制度が施行されている。何か事件があったのかときくと、何もないという。ただし男子全員ではなく一家に一人ぐらいの割で徴兵されるという。

この国では一度も清流を見なかった。この国の国土はどこも赤土で覆われているらしく川はみな茶色に濁っていた。

この国の道路は車優先で作られている。そのため歩道のない道路が多く、朝の散歩のとき危険を感じたこともあったが、暑いせいか歩いている人はほとんどいなかった。もちろん郊外の交差点はすべて環状交差点になっていた。これまでいろんな国を見てきたが、百メートルにひとつ信号を設置しているような国は日本だけである。

マレーシアにはトンネルが四本しかないという話を聞いて考えさせられた。ニュージーランドにはトンネルが十本しかないという話を聞いたこともある。これらの国の人たちは、借金してまでトンネルを作る必要がどこにある、山があれば回っていけばいいではないかと考えているのだろう。こういう国は安定した発展を続けると思う。

中国系の男の現地ガイドは熱心な仏教徒らしく、お寺に行くたびに本尊様にロウソクや線香を供えていた。日本のお盆のような行事があるかときくと、この国のお盆は四月だという。イスラムの女性と結婚する中国人はいるかときくと、そんなことをしたら大変だ、豚肉が食えなくなるし、家族とも縁切りになるし、イスラム教は入信すると改宗できない、だからそんな男はいないという。この国の住民は宗教や民族のちがいで住み分けていて、混じり合うことはないという。

観光客に人気のペナン島には仏教寺院がたくさんある。中国系住民の多いのがその理由だという。その中にはタイとミャンマーのお寺も含まれていて、涅槃仏のあるタイ寺院は商売繁盛、ミャンマー寺院は長寿と平安の御利益があるということで、どちらも賑わっていた。なお仏教寺院はすべての人に開放されているが、イスラム教のモスクには他宗教の人は入れなかった。

この国の大木の下には必ず祠が置かれていた。中国とインドの神様をまつる祠が仲よく並んでいる木もあった。大木を神の依り代(よりしろ)とする発想はアジア全体が共有しているものらしい。

     
マレーシア近代史

十四世紀、マラッカ海峡に面する要衝の地マラッカにマラッカ王国が建国され、やがて現在のマレーシアとほぼ同じ国土を支配下に置いた。この王国は十五世紀後半には完全にイスラム化し、東南アジアにおける海上交通とイスラム教の中心となった。

一五一一年、マラッカがポルトガルに占領された。

一六四一年、マラッカがポルトガルを駆逐したオランダに占領された。

一七八六年、イギリス東インド会社がペナン島を手中に収め、ここを足がかりに勢力を拡大、二〇世紀初頭にはマレー半島とボルネオ島北部を掌握し英領マラヤとして植民地統治した。イギリスは資本を投下してスズ鉱山とゴム農園を開発し、中国と南インドから多くの労働者を移住させた。そのため現在のような多民族国家になった。

一九一一年十二月、太平洋戦争の開戦とともに日本軍が東海岸のコタ・バルなどに上陸、イギリス軍を追って半島を南下、翌一月にクアラルンプール、二月にシンガポール島を占領した。これにより白人支配に対する神話がくずれ民族運動が高まった。

一九四五年、日本の敗戦により再びイギリスの植民地となり、イギリスに対する反発が高まった。

一九四八年、イギリスが譲歩する形でマラヤ連邦が発足したが、その地位はイギリスの保護領であった。

一九五七年八月三一日、血を流すことなくイギリスから独立した。そのためこの国は現在もイギリス連邦の一員になっている。

独立後、富の不均衡が問題になった。都市に暮らす、中国人、インド人、一部のマレー人、が経済の実権を握っていたため、多数派のマレー人の多くが貧しい生活から抜け出せなかったのである。そのため一九六九年、首都でマレー人と中国人との間で衝突がおき多くの死傷者が出た。

一九七一年、貧困の撲滅と人種間の経済格差を小さくすることを目的とした新しい政策が導入された。マレー人の教育と経済状況の向上のためにマレー人を優遇する、というこの政策は、「土地の子」を意味するブミプトラ政策と呼ばれた。

一九八一年、マハティール首相が日本や韓国の成功に学べと「ルックイースト政策」を発表した。

一九九二年、マハティール首相が「ビジョン二〇二〇」を発表し、二〇二〇年までにマレーシアを先進国に成長させるという目標と、多様な民族からなる国民がそれぞれの宗教と文化を守りながらもマレーシア人という一つの民族意識を共有する、という目標をかかげた。独立記念日ということで旅行中にたくさんの国旗を見かけたが、この国旗も民族意識を高揚させる政策の一つなのであろう。現在この国は発展する経済を原動力に、「安定した多民族国家の形成」という難しい目標に向かって進んでいる。

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