今昔物語 その十七
今は昔、ある東宮(とうぐう。皇太子)の書記官に宗正(むねまさ)という男がいた。宗正は、年も若く、容姿も美しく、心も素直、という男であったので、東宮は彼を引き立ていろいろな仕事をまかせていた。
この男の妻も容姿端麗な心の優雅な人であった。そのため男は妻を限りなく愛し、仲むつまじく暮らしていた。ところがその妻が重い病にかかって苦しむようになり、男は嘆き悲しみ心を尽くして神仏に祈ったが、その甲斐もなく妻はついに亡くなった。男の想いがいかに深くてもそのままにしておくこともできず、遺体を柩に入れ、野辺の送りまで日があったので十日ばかり家に置いていた。ところが男は死んだ妻が恋しくてならず、何とか一目でも逢いたいという思いから柩を開けて遺体を見た。
するとその長い髪は抜け落ち、愛らしかった目は節穴のようになり、体は恐ろしげに黄黒く変色し、鼻の柱は倒れて二つの穴が大きく開き、唇はうす紙のように縮んで上下の歯がすべて見え、むせかえる死臭が鼻を刺した。
その顔を見ているうちに、急に恐ろしくなり柩のふたをして立ち去ったが、この光景が心に焼きついて離れなくなったことで深い道心が起こり、現世の栄華を捨てて出家することを決意した。そしてまことに尊い上人との評判のある、多武峰(とうのみね)の増賀(そうが)上人に弟子にしてもらおうと思った。
ところが男には四歳になる女の子がいた。亡くなった妻の忘れ形見の美しい子であった。男はこの上なくこの子を可愛がり、妻が死んでからはいつも一緒に寝ていた。あすの夜明けには多武峰に向けて出発するという夜、男はこの子を乳母に預けて寝かせたが、まわりの大人は少しも気付いていないのに、幼心は敏感にも気付いたらしく、「お父様は我れを捨てていずこへ行くの」と袖をつかんで泣き出した。
それをなだめすかして寝かせ、まだ暗いうちにひそかに抜け出した。道すがら、取りついて泣く幼子の声が耳に留まり、その姿が心にかかり、耐えがたい悲しみであったが、すでに道心が堅固になっていたので、何があっても留まってはならぬと心を奮い立たせて多武峰へ行き、増賀上人に弟子入りし、髻(もとどり)を切って法師になり修行を始めた。
東宮はこれを聞いてたいへん哀れに思い、和歌を詠んで送ってきた。宗正入道はそれを読んで感激し涙を流した。増賀上人は物陰からこれを見て、入道にまことの道心をおこさせようと思い質問した。
「入道はどうして泣いているのか」
「宮様からお手紙をいただきましたので、さすがに出家の身ではありますが、宮様が懐かしくて泣いていたのです」
すると上人は目をお椀のように大きく見開き怒鳴りつけた。「宮様から手紙をもらった者は仏になれるのか。そんな思いで頭を剃ったのか。誰が法師になりたいと言ったのだ。出ていけ、この入道。さっさと宮様の所に行ってしまえ」
そして容赦なく入道を追い出してしまった。入道は静かに立ち去ると、近くの僧坊で上人の怒りがおさまるのを待ち、また師の元にもどって来た。この上人は極めて気性の激しい怒りっぽい人であったが、すぐに腹を立てるかわりにすぐにおさまるのであった。宗正入道は最後まで道心が衰えることなくねんごろに修行を続けたので、道心堅固なことは世にも稀な人であったと語り伝えられている。
出典「今昔物語集。巻第十九。第十話」
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