今昔物語その十四
今は昔、善宰相(ぜんさいしょう)として世に聞こえた三善清行(みよしの・きよつら)という宰相がいた。万事をわきまえた、陰陽道(おんみょうどう)にも通じた優れた人物であった。
そのころ京都の五条堀川の近くに荒れ果てた古屋敷があった。悪しきことが起こる家といわれ、人が住まなくなってから久しかった。善宰相は家を持っていなかったので、この家を買い取り、良き日を選んで移転しようとした。すると親戚の者が口々に言った。「わざわざ悪しき家に引っ越すというのは無益なことではないか」
しかし善宰相は聞き入れず十月二十日の吉日を選んで移り住んだ。ところがその引っ越しは普通ではなかった。宰相は敷物を一枚用意させると、一人で車に乗りこみ、午後六時ごろにその家へ向かって出発した。行ってみると、いつ建てたか分からないような古い五間四方の寝殿があった。障子はみなぼろぼろに破れ、庭には松、楓、桜など多くの木々が密生し、それらは樹神でも住みついていそうな老木ばかり、そこに紅葉したツタがからみつき、苔に覆われた庭はいつ掃除したかも分からないあり様であった
宰相は寝殿に車を寄せると、中に入って灯をともさせ、客間の板敷きを掃除させてから、持ってきた敷物を敷かせ、その上に南向きに坐った。そして車を車庫に入れさせると、「明日の朝まいれ」と命じて牛飼いや供の者をみな帰らせた。
宰相はただ一人、南向きに坐ったままの姿で寝入ったが、「もう真夜中ごろか」と思うころ天井で何か音がした。見上げると天井の四角い格子の一つ一つに顔が見える。みな別々の顔である。それを見ても宰相が騒がず平然としていると、顔は消え失せた。
しばらくすると南の間の板敷きの上を、身のたけ一尺(三十センチ)ほどの者ども四、五十人ばかりが、馬に乗って西から東へ通っていく。宰相はそれを見ても平然と坐っていた。
またしばらくすると納戸の戸を引き開け、女が坐ったままにじり出てきた。坐った丈は三尺(一メートル)ばかり、檜皮(ひわだ)色の着物を着ている。髪が肩にかかった様はたいそう気高く清らかで、染みこませた麝香(じゃこう)の香りが言いようもなく快い。赤い扇で顔を隠しているが、見えている額も清らかに白く、生え際の風情や、切れ長の目でこちらを流し見ている様も気味悪いほどに気高く、鼻や口はどれほど美しいことかと思われる。
宰相がじっと見つめていると、坐ったまま納戸にまた戻っていく。そのときふと扇をのけた。見ると鼻は天狗のように高々と赤く、口の両端には銀で作ったような四、五寸ほどの牙が食いちがいに生えていた。「何という奴だ」と見ているうちに、納戸に入って戸を閉めた。
宰相はそれでもあわてず騒がず平然と坐っていた。すると明け方の月明かりの中に、浅黄色(あさぎいろ)の上下(かみしも)を着た翁が庭の暗がりから現れ、文(ふみ)を目の上に捧げながら廊下に近づき平伏した。
宰相が大声で問うて言った。「そこの翁、何を言いたいのだ」
するとしわがれた小さな声で翁が言った。「私どもが長年住んでいる家に、あなた様がこうしてお越しになりましたので、これはたいへんなことだと嘆き、お願いの義があって出てまいったのでございます」
それを聞いた宰相が言った。「汝らの嘆きはすこぶる不当である。なぜかというと、家を手に入れるにはきちんとした手続きを踏まねばならぬ。ところが汝らはこの家の正当な持ち主を怖がらせて追い出し、強引に居すわっている。実に非道きわまりないことだ。まことの鬼神は道理をわきまえていて、決して曲がったことはしないものだ。だからこそみなが恐れるのだ。
非道をおこなっている汝らなど何ら恐れるに足りぬ。それどころか汝らは必ず天罰をこうむるだろう。汝らの正体はほかでもない。ここに住んでいる老い狐どもだ。鷹狩りの犬の一匹でもいれば、たちまちみな食い殺させてやるところだ。どうだ。言い分があれば申してみよ」
「一言の弁解の余地もなく仰せの如くでございます。ただ昔から住んでいる所なので、その事情を申し上げてみただけです。ただし人を脅かしたのはこの翁の仕業ではありませぬ。一人、二人おります子供が、私が止めるのも聞かず勝手にしたことでございます。今こうしてあなた様がお越しになったからには、どういたしましょうか。移り住むといってもいい所もありませんが、大学寮の南門の東のわきに空き地がございますから、お許しを得てそこへ移りたいと思います。いかがなものでしょう」
「それはまことに良い考えだ。すみやかに一族みな引きつれて移るがよい」。宰相の言葉に翁が声高に返答すると、声を合わせるように四、五十人がいっせいに返事をした。
夜が明けると、宰相は迎えに来た者たちとともにいったん家に帰り、住めるように手入れをしてから本格的に移り住んだ。その後この家ではいささかも恐ろしいことは起きなかった。
出典「今昔物語集。巻第二十七。第三十一話」
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