スリランカの話

平成二三年二月、三十数年ぶりにスリランカへ行ってきた。インド洋の真珠と称えられる緑あふれる島国スリランカは、正式国名をスリランカ民主社会主義共和国といい、国土の広さは北海道の八割ほど、人口は約二千万人、民族構成はシンハラ人七四パーセント、タミル人十八パーセント、ムーア人七パーセント、という国である。

宗教信者の構成は、仏教徒六九パーセント、ヒンズー教徒十五パーセント、キリスト教徒八パーセント、イスラム教徒八パーセントとなっており、最多民族のシンハラ人の多くが仏教徒なので、仏教は国教に近い待遇を受けているが、多宗教の多民族国家という面もこの国は持っている。

スリランカに仏教が伝わったのは紀元前三世紀であり、これは日本に仏教が伝わる八百年も前である。しかもこの国ではつねに仏教が多数派であり続けたので、七つある世界遺産のうちの四つを仏教関係のものが占めている。

スリランカはルビー、サファイヤ、キャッツアイ、ムーンストーンなど多様な宝石を産出する宝石の国であるが、この国のいちばんの宝物は宝石ではなく仏歯(ぶっし)と菩提樹である。

仏歯は釈尊を火葬にしたときに得た左の犬歯とされ、四世紀にオリッサ州カリンガ国の王子が、髪の中に隠してスリランカに持ち込んだものとされる。そして仏歯は王権の象徴となり、仏歯のあるところが都とされてきたので、都が移るごとに仏歯も移されてきたが、一五九〇年にキャンディーの仏歯寺に安置されてからは移動していない。

その仏歯寺参拝が今回の旅の目玉であった。この寺では仏歯を供養するための法要が一日三回おこなわれており、朝と昼の法要では食事を供え、夜はお茶を供えるという。そしてそのとき仏歯にお参りすることができる。そのため私たちは時間を見計らって夕方、仏歯寺に向かった。

仏歯は仏歯寺の古い本堂の中に安置されており、その本堂は周囲を大きな建物で厳重に囲まれている。到着したとき太鼓とラッパが鳴り響く本堂の中は、すでにたくさんの参拝者であふれていた。仏歯を安置した正面の小部屋には申請した人だけが入ることができ、入るとすぐ目の前に仏歯を納めたスリランカ様式の仏塔の形をした黄金の容器があった。

高さ一メートルほどの容器には宝石がちりばめられており、その七重になっているという容器は、周囲をさらに防弾ガラスで覆われていた。この防弾ガラスは数年前のテロ事件のあと設置されたのだという。私が見たのはそこまでであったが、特別な行事のときには見せてくれるらしく、添乗員は仏歯を見たことがあると言っていた。参拝者がたくさん並んでいるため、ゆっくりお参りする時間はなく、立ったまませわしく三拝してその部屋を出た。鳴り響く太鼓とラッパがあわただしさを倍増させていた。

アヌラーダプラにある菩提樹は、釈尊がその下で悟りを開いたという菩提樹の分け木である。紀元前三世紀にアショカ王の王女サンガミッタが、成道の地ブッダガヤの聖なる菩提樹の分け木をこの国に運び、当時の王デーワーナンビヤ・ティッサが植樹したと伝えられている。

菩提樹は周囲を高い塀で囲われているため、菩提樹を見上げながら塀の外を一周してお参りしたが、前回来たときは横から間近に見たことを覚えていたので確認すると、周囲の塀や建物は二〇年ほど前に作られたものだという。菩提樹は空に向かって大きく枝を広げているが、実は元気に枝を伸ばしているのは聖なる菩提樹の子孫であり、その枝に混じって弱々しく斜めに伸びる、数本の黄金の支柱で支えられた細い木が、樹齢二千三百年の菩提樹である。そしてこの菩提樹の分け木が、ブッダガヤの聖菩提樹の後継ぎになっているのである。

     
シギリヤロック

今回のもう一つの目玉はシギリヤロックという巨大な一枚岩の岩山であった。この高さ一九五メートルのキノコ雲のような形をした岩の上に、一五〇〇年前カーシャパという王が王宮を作った。

カーシャパには腹ちがいの弟がいた。その弟の母は王族の出であり、カーシャパの母は平民の出であった。そのため弟に王位を奪われることを恐れたカーシャパは、家来のそそのかしに乗って父王を監禁して王位を奪ったが、弟にはインドへ逃げられた。

王位についたカーシャパは、父王に隠してある財産をすべて出すよう命じた。父王は自分が精魂こめて作り上げた潅漑用の貯水池に息子を連れて行き、貯水池を指さしながら言った。「これが私の財産のすべてだ」。父王の言葉にうそはなかったが、自分がからかわれていると思ったカーシャパは父王を殺させた。

その後、異母弟の復讐を怖れたカーシャパ王は、シギリヤロックの上に王宮を作らせ、七年後に完成するとアヌラーダプラからシギリヤに都を移した。この岩の側面は垂直どころかオーバーハングの壁になっているから、下から王宮を攻撃するのは不可能であるが、兵糧攻めには弱いと思う。おそらく食料より水の方が先に尽きると思う。

そのため遷都してから十一年後に、南インドで兵を集めた弟が戦いを挑んできたときには、王は王宮を出て戦ったが、戦いのさなか王の乗った象が沼に足を取られて動けなくなると、味方の軍勢は王を捨てて逃げ去った。そのため一人残された王は短刀で喉を突いて命を絶ち、都はアヌラーダプラに戻され、シギリヤは十一年で廃墟になった。

シギリヤロックの上は一・六ヘクタールの広さがあり、全体が斜面になっているため石垣を積んで階段状に整地されている。建物は土台しか残っていないが、大小二つの池は今も水をたたえている。

この岩山は平原地帯にそびえているため風がもろにぶつかってくる。そのため麓では無風状態だったのに、上に行くほど風が強くなり、その風が登りでかいた汗を吹きとばしてくれた。だから登り降りはたいへんだが、涼しくて住みやすい王宮であったと思う。景色は文句なしにすばらしく、風致地区に指定された手つかずの森林が眼下に広がっていた。

岩山の中腹に作られた王宮の入口には巨大な獅子の足が残っている。当初はその上に獅子が口を開けた形の門があったということで、この門がシギリヤの語源になったという。つまりシンハラ語で、獅子はシンハ、喉はギリヤといい、ライオンの喉を意味するシンハギリヤがなまってシギリヤになったというのである。

岩山周辺にある洞窟や岩場は昔から瞑想修行の場とされてきた。またこの国ではほかでも同様の岩山をいくつか見かけたが、そうした岩山の多くもやはり修行のための聖地になっているという。

     
スリランカの宗教事情

この国の寺には、仏塔、菩提樹、仏像、の三つが必ずそろっている。そしてお寺参りをするときは裸足になってこの順番でお参りする。お供え物は蓮の花とろうそくであり、線香を供えている人は見なかった。蓮はつぼみの状態の花を買い、花びらを指で器用に開いて供えていた。

寺院内の撮影はたいてい許可されているが、仏像を背にした記念撮影は厳禁である。仏さまにお尻を向けて立つのは失礼だというのである。とはいえスリランカ人はそれほど熱心な仏教徒には見えなかった。本尊さまに対する礼拝にしても、立ったまま一礼する程度の礼拝しかしないのであるが、それでもガイドは「三拝はしないがスリランカ人はみんな熱心な仏教徒だ」と主張していた。

タイやミャンマーのような体験出家の制度はこの国にはないという。そこでためしに仏教徒だというシンハラ人のガイドに、出家したことがあるかときいてみたら、やはり「ない」という返事であった。ただしこの国にも「一子出家すれば九族天に生ず」という出家の功徳を尊ぶ伝統があり、そのため親の頼みで出家する子供もいるが、還俗することがひどく嫌われているため、いやになっても簡単には還俗できない、それが体験出家をする人がいない理由だ、とガイドが言っていた。

この国では旧暦五月の満月の日にウエサク祭がおこなわれている。ウエサクは旧暦の五月を意味する言葉で、五月の満月の日は、仏陀の生誕、成道、涅槃の日とされているのである。また仏陀はスリランカに三回来たといわれており、この日は三回目の来訪日ともいわれる。なおミャンマーにも仏陀の来訪伝説がある。

この国におけるいちばんの聖地は、スリーパーダ(アダムスピークとも。標高二二四三メートル)というのスリランカ第四の山である。この山も仏陀が訪れた場所とされていて、山頂の岩には仏陀の足跡が残っているという。ところがその同じ足跡を、ヒンズー教徒はシバ神の足跡、キリスト教徒やイスラム教徒はアダムが地上に降りたときの足跡としているのである。つまりこの山はこれらの宗教共通の聖地になっているのであり、こうした聖地の存在は多宗教国家が国をまとめていくために必要なことなのであろう。また南部にあるカタラガマという町では、すべての宗教のための宗教公園都市の建設が政府によって進められていた。

スリランカは上座部仏教の国なので仏像は釈迦牟尼仏のみであるが、その仏さまは現世のことには関与しないという。つまり人々が現世利益(げんぜりやく)を仏さまに祈っても、「欲があるから苦しみがある。だから欲を捨てなさい。そうすれば軽やかに生きられるであろう。布施をおこない、戒めを守りなさい。そうすれば来生はいいところに生まれるであろう」という答えしか返ってこないのである。

そのためそれで満足できない人は、ヒンズーの神さまに現世利益をお願いすることになる。ということでこの国では寺の境内にもヒンズーの神様をまつるお堂が建っている。つまりお寺参りをするときは、まず仏さまを礼拝して清く正しく生きることを誓い、そして来生の福を祈る。それからヒンズーの神さまにお参りして、商売繁盛やお金もうけなどの今生の福を祈るということである。

とはいえ初めてそのヒンズー神をまつるお堂を見たときは、その存在理由がまったく理解できなかった。しかもそのお堂には窓がなく、薄暗い中に祀られた神像には派手な電飾が施されていて、怪しげな雰囲気が漂っていたのである。このお堂は在俗の人が管理しているというから、そこで見かけた普通の身なりをした男性が司祭らしかった。

そうしたお堂で私が見たのはビシュヌ神だけであったが、シバ神の息子のスカンダ(日本でいう韋駄天さま)、ガネーシャ(歓喜天)、スリランカ土着の神々、などもまつられていて、スカンダは商売繁盛の神、ガネーシャは交通安全の神として人気があるという。

つまりこれらの神々は、人々の願いをかなえるように命じられた仏さまの子分たちであり、仏さまは「神の中の神」なのである。考えてみれば日本のお寺にも、帝釈天、毘沙門天、弁財天などのヒンズーの神々が祀られているのであった。

     
スリランカ仏教小史

紀元前四世紀、シンハラ人がこの国最初の王朝をアヌラーダプラに建国した。

紀元前三世紀、北インドで成立したマウリヤ王朝が初めてインドを統一、三代目のアショカ王が仏教の伝道師を周辺諸国やエジプトに派遣し、そのときスリランカにはアショカ王の王子のマヒンダが派遣された。そして紀元前二四七年六月の満月の日、アヌラーダプラの王デーワーナンピヤ・ティッサが鹿狩りをしていたとき、ミヒンタレーの丘でマヒンダに会い、問答の末に王は仏教に帰依し、都に僧院を作った。こうして仏教は全島に広まっていった。ミヒンタレーという地名はマヒンダ長老の名に由来する。

このとき伝えられたのは上座部仏教であり、このとき作られた僧院が後にマハービハーラ僧院に発展し、マハービハーラが大きな寺を意味するためこの法系は大寺(だいじ)派と呼ばれている。大寺派は今もスリランカ仏教の主流であり、東南アジアの仏教もこの派に属している。

紀元前一世紀、開放的な性格をもつアバヤギリ僧院が創建され、マハービハーラ僧院との対立が始まった。危機感を持った大寺派はそれまで口伝されてきた経律論の三蔵を、インドに先駆けて成文化するという大事業を完成させた。

三世紀、アバヤギリ僧院に大乗仏教が伝来し、時の王マハーセーナの支持を得て広まった。王は規律のゆるんだ大寺派を粛正し、その敷地にジェータワナ僧院を建立した。ところが次王のとき大寺派が復権、こうしてスリランカ仏教は三分された。

アヌラーダプラに残るアバヤギリ大塔は、紀元前八八年に作られた大乗仏教の遺跡であり、完成時の高さは一一〇メートルとされ、破損のため七五メートルになった今もアヌラーダプラ最大の仏塔である。また南部の密林にのこるプドルワーガラ遺跡も大乗仏教遺跡である。

五世紀、中国僧の法顕(ほっけん)三蔵がアバヤギリ僧院に滞在した。またインドの大注釈家ブッダゴーサが来島し、マハービハーラ僧院で上座部仏教の教学を確立した。このころインドでは仏教の衰退が始まり、相対的にスリランカ仏教の地位が高まった。

八世紀の初め、密教が伝わった。インドから中国へ向かう途中の金剛智三蔵(六七一年〜七四一年)が、アバヤギリ僧院に滞在して国王に密教を説いたとされ、後にその弟子の不空三蔵(七〇五年〜七七四年)も来島した。

八世紀中頃、アヌラーダプラが大乗仏教の一大拠点になった。最盛期のアバヤギリ僧院には五千人の僧が住んでいたという。

十世紀、スリランカ島に南インドのチョーラ朝、スマトラ島のスリービジャヤ朝が侵攻、仏教教団は壊滅的な被害を被った。

十一世紀、仏教を復興するためビルマのパガン王朝に高僧の派遣を要請、仏教三派は復興したが、アヌラーダプラにあったマハービハーラ僧院は、王朝の遷都やタミル人による破壊のため十一世紀には完全に廃墟になった。この僧院があったのは、アヌラーダプラ遺跡地区の聖菩提樹やルワンウェリサーヤ大塔のあるあたりだという。

十二世紀、ポロンナルワに都を置いたパラークラマ・バーフ王が、三派に分かれて対立していた仏教界を大寺派に統一、それ以外の仏教を厳しく禁じた。そのため大乗仏教はスリランカから姿を消し二度と復活することはなかった。

十六世紀、ポルトガル、オランダ、イギリスがスリランカ島を侵略した。シンハラ人による王朝は、南インドから渡ってきたタミル人と二千年以上も前から抗争を続けてきたが、今度はさらにヨーロッパ列強の侵略を受けたのであり、そのため王朝はポロンナルワ、ダンバデニヤ、ヤーパフワ、ダディガマ、ガンポラ、コーッテ、キャンディーとめまぐるしく遷都した。

一八一五年、キャンディーに都を置くキャンディー王朝がイギリスに滅ぼされ、こうして二四〇〇年続いたシンハラ人の王朝は滅亡、全島がイギリスの植民地になった。そしてスリランカは仏教の弾圧とキリスト教の強制という圧力を、欧米諸国から強く受けることになったが、独立運動と連動したダルマパーラの仏教改革運動などで危機を乗りこえ、今日に至っている。今日スリランカで仏教が国教的な地位にあるのはダルマパーラのおかげだという。

     
怨みに慈悲で報いる

第二次大戦中、スリランカを植民地支配していたイギリス軍を日本軍が攻撃したことがあった。一九四二年四月五日、日本海軍の艦載機がコロンボ港を空襲、イギリスの艦船が事前に察知して避難していたため、港湾施設や空港などを爆撃したのであった。また東海岸のトリンコマリー軍港にも攻撃を加えたことがあり、こうしたことでスリランカは日本に賠償請求権を持つことになった。

ところが敗戦後の日本の処分を決めるサンフランシスコ講和会議において、後にスリランカ第二代大統領になるジャヤワルダナ大蔵大臣は日本に賠償請求をしなかった。それどころか、「独立を望むアジアの人々が、日本の掲げた理想に共感を覚えたことを忘れないで欲しい」と述べ、「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によってのみ止む」と参加国に寛容の精神を求め、「日本は自由で独立した国でなければならない」と日本の独立維持と国際社会復帰のための呼びかけをし、そして率先して賠償請求権を放棄したのであった。

この演説には法句経(ほっくきょう)の次の一節が引用されている。「怨みに報いるに怨みを以てしたなら、ついに怨みはやむことがない。怨みを捨ててこそ怨みはやむ。これは永遠の真理である」。彼は何度も来日したことのある親日家であり、一九九六年に九〇歳で死去するときには角膜を提供し、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」という遺言を残した。そのため左の角膜は日本に送られたのであった。

スリランカの独立と仏教改革のために尽力したダルマパーラも親日家であった。彼は日本が、植民地支配を拡大する欧米に対抗して近代化を進めていることや、北からアジアに侵攻して来る大国ロシアを日露戦争で追い返したことを高く評価し、日本を手本にしたいと四度来日している。また今度生まれるときは日本に生まれたいと言っていたという。

スリランカは国全体としても親日的である。それには同じ仏教国という理由もあるのだろうが、植民地支配に苦しんでいたスリランカの人たちにとって、日本が希望の星であったことも一つの理由だと思う。

     
シンガポールの話

飛行機の乗り継ぎの関係でシンガポールに半日ほど滞在した。この国も興味深い国である。マレー半島先端の海上に浮かぶ島国シンガポールは、正式国名をシンガポール共和国といい、面積は東京二十三区ほど、人口は約五百万人、国民の七七パーセントは中国系、十四パーセントはマレー系、八パーセントはインド系、という国である。

中国系の人口が最多であるから中国寄りの国と思いたくなるが、この国はベトナム戦争ではアメリカに協力した。なお東西に長いシンガポール島の東の端から西の端まで、車だと二時間しかかからないという。

独立する前この国はマレーシアに属していた。だからイスラム教勢力の強い国だと思っていたら、仏教徒が四〇パーセント、イスラム教徒が十五パーセント、ヒンズー教徒が七パーセントという割合になっている。仏教徒が多い原因は、中国系の人口の多いことである。こうした多民族多宗教の国であるから、政府の重要課題の一つは、国民をシンガポール人としての自覚でもって一つにまとめることだという。

シンガポール島は狭い上に土地がやせていて水もない、という農業に不向きの島なので、島の住民は昔は海賊を仕事にしていたという。現在もやはり農業はやっておらず、食料はすべて輸入しているという話を聞いて驚いたが、水も輸入していると聞いて納得した。その上この国には製造業もないというのである。

シンガポールの主要産業は貿易と金融である。そのため世界屈指の設備を誇るチャンギ空港を持っており、その面積は国土の二〇〜三〇分の一を占めている。得意な分野に人と資金と土地利用を集中させるのがこの国の流儀であり、バンコク国際空港と拠点空港の座を争っているチャンギ空港には、成田空港などとても太刀打ちできない。

狭い国土を効率的かつ計画的に使うため、この国の国土の大半は国有地になっていて、建物の高層化も進んでいる。国民の八五パーセントは公営団地に住み、残りの多くも民間の集合住宅に住んでいるというから、この国は団地国家である。庭付き一戸建ての家に住んでいるのは余程の金持ちか、昔からの住民に限られるという。

この国では食料品や住宅などの必需品は安価であるが、贅沢品には重税が課せられていて、贅沢品の最たる車の値段は日本の三倍以上だという。電車とバスが完備しているからそれを利用しなさい、というのであり、みなが車を持ったらシンガポール島はすべて駐車場になってしまうのである。

この国は罰金が大きな税収になっている罰金大国でもある。たとえば電車の中では次のことが禁止されていて、見つかると高額の罰金をとられる。タバコを吸ってはいけない。飲食してはいけない。つばを吐いたり、ごみを捨ててはいけない。ドリアン(美味だけど臭いの強い果物)を持ち込んではいけない。座席に足を投げ出してはいけない。切符を折り曲げたり、はじいて音を立ててはいけない。車内、駅構内をブラブラ歩き回ってはいけない。等々である。そこで街を散策したとき落ちているゴミを探してみたが、二時間ほど歩いて吸い殻を一つ見つけただけであった。だからきれい好きが住むにはよい国である。

     
シンガポール小史

一八二四年、シンガポール島はイギリスの植民地になり、それから急速に近代化が進み、人口も増大した。

一九四二年(昭和十七年)二月、太平洋戦争が始まると山下泰文(ともゆき)中将ひきいる日本軍に占領され、三年半後、日本の敗戦でまたイギリスの植民地にもどった。そのため高級住宅街の一角に、戦没者や「からゆきさん」と呼ばれる女性が眠る日本人墓地が残っている。ここで読経をしてきた。

一九六二年、国民投票によりマレーシアの十二番目の州としてイギリスから独立した。

一九六五年、マレーシア政府とシンガポール政府がしばしば対立し、マレーシアから追放されるような形でシンガポール共和国として独立した。ところがこれはシンガポールの危機であった。経済面でも安全保障の面でも生き残りは難しいと思われていたのである。

そのため政府は国の存亡をかけて、英語の普及と投資環境の整備につとめ、外国企業の投資を呼びこんだ。これが日本企業の海外進出の時期と重なったため、日本企業もこぞって進出してきた。この計画がめざましい成果を挙げたことで驚異的な発展を遂げ、一九九〇年代には堂々たる先進国に成長し、現在アジアでもっとも繁栄している国といわれるようになった。

この国では英語普及のために二言語教育が行われており、学校で教える第一言語は英語、第二言語は中国語、マレー語、タミール語など自分が属する民族語となっている。だからこの国では英語が通じるが、シングリッシュと呼ばれるくせの強い英語である。またこの国は徴兵制を導入しており、十八歳以上の男子全員に二年半の兵役が義務づけられている。

参考文献
「地球の歩き方。シンガポール」2011年 ダイヤモンド・ビッグ社
「ワールドガイド。シンガポール」2008年 JTBパブリッシング

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