人生計画の話

本多静六著「私の財産告白」という本が平成十七年に復刻出版された。初版は昭和二五年とあるから六〇年も前の本である。この本の著者は、貧しい家に生まれ、苦学して東京帝大の森林学の博士となり、一代で巨万の富を築き、昭和二七年に八五歳で逝去した人である。

安月給の学者がなぜ巨万の富を築くことができたのか、そのために立てた人生計画はどのようなものだったのか、半端ではない財産をどう処分したのか、といったことを書き残したのがこの本であり、成功した金儲けの体験談であるからきわめて楽しい読み物である。

日本には清貧を美徳とする傾向が今もある。「清貧のすすめ」という本が最近かなり売れたというし、「金持ちと朝晩捨つる灰ふきは、たまる程なおきたなしと知れ」という歌もある。

たしかに貧しく清く生活するところに修行は成り立つのであり、財産をごっそりと持っていては修行生活などできるものではない。そのため道元禅師は「学道の人すべからく貧なるべし」と言っているし、中国には修行の邪魔だと財産を川に沈めてしまった金持ちの居士がいるし、仏祖は王位と城を捨てて出家し、「出家修行者はお金を持ってはならない」という戒まで残している。

とはいえ今は出家といえどお金が必要な時代である。修行するときは「すべからく貧なるべし」がいいとしても、年とってもなお「貧なるべし」を守っていては、自分も困るし周囲も迷惑する。結局は人に迷惑をかけることになってしまうのである。

お金がないのは辛いことである。お金がなければ、教育も受けられず、病気になっても治療もできず、生活のためにイヤな人間に使われることにもなる。定年までこんな職場で働かなければならないのか、などと考えていては生きていることさえ嫌になってしまうのである。

     
本多式人生計画

本多博士は十一歳で父親を亡くし、若くして貧乏の苦労をとことん味わった。そのため苦学の末に、助教授の職を得て妻をめとった二五歳のとき、次のような人生計画をたてた。

一、満四〇歳までは、馬鹿と笑われようが、ケチと罵られようが、一途に奮闘努力、勤倹貯蓄、もって一身一家の独立安定の基礎を築く。

二、四〇歳から六〇歳までは、専門の職務を通じてもっぱら学問のため、国家社会のために働き抜く。

三、六〇歳以後の十年間は、国恩、世恩に報いるため、一切の名利を超越し、勤行布施のお礼奉公につとめる。

四、幸い七〇歳以上まで生き延びることができたら、山紫水明の温泉郷に居を卜し、晴耕雨読の晩年を楽しむ。

五、広く万巻の書を読み、遠く万里の道を往く。

人生計画の第一は、四〇歳までに独立自尊の生活ができる資産を築くことであった。病気になろうが仕事を首になろうが困らないだけの資産を持たねばならない、貧乏していては学者の誇りも体面もあったものではない、と考えたのである。

そして始めたのが本多式貯金法であった。それは収入の四分の一を初めから無かったものとして天引き貯金する、臨時収入はすべて貯金する、という方法であった。教師の安月給からさらに天引きするのだから、始めたころは月給日前になると、ご飯にゴマ塩をかけて食べる日が続いたが、ゴマ塩生活は数年で終わった。当時は預金利息の大きい時代であり、利息の四分の三は生活費に回したからである。

本多博士は言う。若いときの苦労は買ってでもせよ。若いときに身に付けた質素倹約の習慣は一生の財産になる。反対にどんなにお金があっても、贅沢をする習慣を身に付ければ必ず貧乏する。年とってから苦労するよりも、若くて元気なうちに苦労の先払いをせよ。贅沢すれば満足感や幸福感が得られるかというと、そんなことはない。天丼は一杯だけ食べるからこそおいしいのであって、二杯食べれば苦しみになる。質素な生活の中にこそ人生の味わいと喜びがある。

お金を貯めるにはよく働くこと、そしてよく節倹することが大切である。どんなに働いても節倹しなければザルに水を入れるようなもの、どんなに節倹しても働かなければ徳利の中の水を守るようなものである。ただし悪銭身につかずというから、あくまで自力によって得た、筋の通った正しいお金のみを受け入れて、積み立てることが大切である、と。

四〇歳までに働かなくてもすむだけの財産を作れ、などと学校では教えてくれなかったが、これは大事なことである。こうした目標があれば人生に対する心構えも自ずと違ってくる。

さらに博士は言う。お金というものは雪だるまのようなものだから、中心となる玉ができれば後は面白いように大きくなる。だから雪だるまの芯となるお金をまず貯めよ。そして芯ができたらそれを転がして大きく成長させよ。いくら働いても、節倹しても、貯金だけではたかが知れている。資産をうまく運用しなければ大きな財産を作ることはできない、と。

博士は株と山林に投資することで大きな雪だるまを作り上げていった。山林に投資したのは森林学を専攻していたからであり、山林の調査をしながら近々開発されそうな山林を探し出しては買ったのである。投資で大切なのは時節を待つこと、そしてバクチのような投機ではなく安全重視の投資をすることだという。ただし現在は世界中にお金がだぶついている時代なので、雪だるまを大きくするのは博士の時代ほど簡単ではない。

     
お金を守る

お金が増えると誘惑も増えてくる。そのひとつが借金の申し込みであり、博士も断り切れずにずいぶんお金を貸したが、うまくいったことはほとんどなく、そのため次のような結論に達したという。

「金の貸し借りは、結局は友人や親類を失うことになるから一切してはいけない。どうしても融通しなければいけない場合には、お金を進呈しなさい。知人友人に借金を頼んで回る人から証文をとり、お金を返してもらおうなどと思ってはいけない。一度借りに来る人は、二度三度と借りに来る。そして最後はお互いがにっちもさっちもいかなくなる。気の毒は先にやれ、の言葉のように最初から一切応じないのが、相手のとっても自分にとっても最良の方法だ。ただし病気や災害の場合は別である」

また金融上の連帯保証人を頼まれることもあるが、これは身の破滅に結びつくことなので絶対に判を押してはいけない、と警告している。日本人は断ることが苦手なので、その性格を見透かされて海外旅行をするとどこへ行ってもカモにされているが、どんなに泣きつかれても断るべきことは断らなければいけないのである。これは単に慣れの問題であるから断る練習をすれば解決する。

なおおいしい話には決して飛びつくなとも博士は警告しているが、いくら気をつけていても時勢には勝てないとも言っている。博士がいう時勢は戦後の大変革を指している。その大変革の大波をかぶって、博士も老後のために残しておいた財産のほとんどを失ったのであった。

     
財産処分法

五〇歳を過ぎると博士は収入を四つに分けて支出した。その四つとは、生活費、交際と修養、貯金、社会有用の事業に対する寄付、の四つで、収入の四分の一を社会奉仕のために使うことを始めたのである。「この四分の一奉仕を、ある程度、財産的成功を収めた人々にぜひお勧めしたい。財産は社会から自分に寄託されたものだから、財産を多少でも築き上げた者は、税務署へ納める税以外にも、社会的財産税を覚悟すべきである」と博士は言っている。

そして六〇歳の定年を迎えたときには、財産のほとんど全てを社会事業に寄付してしまった。「国恩、世恩に報いるため、一切の名利を超越し、勤行布施のお礼奉公につとめる」という人生計画を実行したのであり、金は天下の回りものだから金を必要としない歳になったらよそへ回すというのである。しかも一切の名利を超越するため匿名または他人名を用いたというから徹底している。

そのため子供にはほとんど財産を残さなかった。「人並みはずれた大財産や名誉や地位は幸福そのものではない。身のため子孫のため有害無益である」。「子供に必要なのは健康と教育、そして精進向上の気魄と努力奮闘の精神を、生活習慣の中に染みこませることである。だから財産を残せば子孫をかえって不幸にする。西郷南洲も、児孫のために美田を買わず、と言っているではないか」というのが博士のやり方であった。

そして七〇歳になると、かねて用意していた五ヵ所の隠居場所の中から、伊豆の伊東を終の住み家の地に選び、山紫水明の温泉郷で晴耕雨読の生活に入った。ところが楽隠居は意外につまらぬものであったし、性にも合わなかったので、結局は八五歳で亡くなるまで、人生即努力、努力即幸福、という生き方をつらぬいた。

人生でいちばん楽しいことは、仕事を道楽化して楽しむことである。その道楽の粕(かす)としてお金は自然に貯まってくる、という職業道楽論を博士は説いている。なお晩年は男女の仲を取りもつ仲人を趣味にしていた。

博士は若いときから一日一ページの執筆を自分に義務づけていた。その執筆というのは印刷価値のある完成した文章の執筆を意味しており、そのようにして博士は生涯に三七〇冊余の本を出版したのであった。執筆活動は老後の仕事として最適だという。また十九回の洋行で六大州に足跡を残し、人生計画にあった「遠く万里の道を往く」という項目も達成した。こうした成功は人生計画があればこそというのである。

参考文献
「私の財産告白」本多静六 2005年 実業之日本社
「人生計画のたて方」本多静六 2005年 実業之日本社
「私の生活流儀」本多静六 2005年 実業之日本社

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